音楽大学に入学
史は推薦状の効果もあって、すんなりと音大に入学することが出来た。
入学後も、高校二年生の頃から通って来た音大であり、違和感を覚えることは全くない。
長年の指導と推薦状を書いてもらった助教授には、真っ先にお礼を言いに行った。
「そうか、良かったな」
「史君も、これからプロの音楽家を目指しての、本当のスタートになる」
「かなり、雰囲気のあるドイツ音楽を表現できるようになった」
「これからもドイツ音楽中心に指導する」
指導方針は曲げないものの、助教授は喜んでいた。
春奈にも逢いに行った。
「うん、おめでとう」
「ずっと待っていたの」
春奈も喜んでくれた。
「これから一緒に練習できるね」
「先生も私とだったら問題ないって言っていた」
「本当にうれしいなあ・・・」
「史君と同じ部屋で、聴いたり、聴いてもらったり」
春奈が、本当にうれしそうなので、史は、ずっと謎だったことを聞いてみようと思った。
「あの・・・大学に入ってから教えてくれると言うことって・・・」
言い出すまでに、少しためらいがあったけれど、勇気を出して聞いてみた。
「うん・・・」
春奈はにっこりと笑った。
「はい・・・」
史は春奈のまるで花が咲いたような微笑みの美しさに身体が震えてしまった。
その微笑みの美しさに、受験のストレスや一人住まいの寂しさも消え去った。
「あのね・・・」
春奈は慎重にレッスン室の鍵をかけた。
そして廊下から見えないように、窓にもブラインドをかけてしまう。
「何だろう」
「人に見せない、聴かせられないことかなあ」
史には、春奈の動きの意図が理解できない。
それほど大学に入ってから教えるというのは、秘密にするべきことなのか、史は春奈の横顔を見ている。
「うん、これ、最初に私が弾いてみるから、次に弾いてみて」
春奈は史に、再びゆっくりと微笑んだ。
「あっ・・・」
史は驚いた。
春奈が弾きだしたのは、ショパンの雨だれだった。
史にとって、母親への想いが残る唯一の曲、しかし練習を止められている曲。
その曲を、まず春奈が弾いて、その次に史が弾くという。
史の心には、複雑な想いが交錯する。
「でも、きれいだなあ」
「どうやったら、あのニュアンスが出せるんだろう」
「いつもバッハだと、楽譜通りに正確に弾いて・・・」
「その中でニュアンスとか、いろいろ表現する」
「神経が張りつめたようなバッハが多いな、自分で弾いている時は」
「モーツァルトで多少、華やかに出来るけれど」
「ベートーヴェンは、どちらかと言うと、重たい」
「ブラームスも神経張りつめないと弾けない」
「ショパンか・・・」
「ほとんど弾いたことないし・・・」
史は、不安を感じ始めている。
史はショパンそのものを全く弾いたことがないわけではない。
母が生きている時には弾いたことがある。
目の前で母が聴いてくれた。
ただ、思う通りの演奏は出来なかった。
「うん、まだまだかなあ・・・」
「あのね、ショパンは恋を知らないと弾けないの」
「史君、当分無理かなあ」
「でもね、彼女出来たら、弾いてごらん」
「そして上手に弾けたら、お母さんに紹介してね、約束だよ」
その時の母の笑顔は忘れられない。
そんなことを思い出していると、春奈のショパンが終わってしまった。
「うん、次、史君ね」
春奈が手招きをしている。
史の不安と緊張が、ますます大きくなった。