60:作戦前夜の決意
蛍の翡翠の瞳に、月明かりに照らされる咲耶の穏やかな笑顔が映し出される。
「……あの時、コノハ姉があの神社から連れ出してくれたから、俺は高天原にいるんだ」
そんな咲耶の表情を見て、蛍は咲耶が悲しい過去を抱えて、与えられた温もりを忘れずにいるからこそ、誰かに優しくいられるのだと理解した。
(……咲耶兄の歩んできた道のりは苦しかったんだろう。けれど、その中には救いの温かさもあったんだな……)
それは過去から現在までの日々の積み重ねであり、咲耶という一柱の生き方そのものだった。
「うん、今の話を聞いて、分かった。……きっと咲耶兄にとってのコノハ姉は、誰よりも、何よりも、自分の生命よりも大切な存在なんだな」
そう言って、蛍は咲耶をまっすぐ見つめる。
大切な人を守りたい。
咲耶の想いは、どこか蛍自身にも似ていた。
「あぁ、大切だよ。俺にとってコノハ姉は唯一の家族だから……けど、俺は——」
そして、咲耶は僅かに言い淀んで、若葉色の瞳を伏せた。
「コノハ姉に何も返せなかった……」
「咲耶兄……」
木花咲弥姫命の眷属となった咲耶を、コノハは桜花の国に住まう神々の中でも特別な存在として、本当の弟のように可愛がってくれた。
しかし、穏やかな日々はそう長くは続かなかった。
生命の権能を持つイザナギが消えたことで、高天原は静かに終わりを迎えようとしていたからだ。
高天原には、日々、禍ツ神へと変貌する神々が現れるようになった。
やがて、咲耶にとっては兄のような存在であり、コノハにとっては大切な夫でもある邇邇芸命も禍ツ神へと堕ちてしまった。
邇邇芸命の『時の権能』には、同じ概念系の権能を持つ神か、『天の神』の位にある神でなければ太刀打ちできない。だからこそ、封印するしかなかった。
そして、主神クラスに匹敵する咲耶の膨大な神力と、木花咲弥姫命の『変化の権能』を用いれば、邇邇芸命を封印することが可能だった。
「……コノハ姉、俺が邇邇芸命を……時憲を封印する」
邇邇芸命の封印へ向かうコノハに、咲耶は背後から声をかけた。
「ダメよ、咲耶。それは認められないわ」
しかし、コノハはキッパリと言い切ると、そのまま振り返ることなく、言葉を続けた。
「私は貴方のことを、大切な弟だと思っているの……けれど、咲耶」
「コノハ……姉……。——待って……っ!」
咲耶が先を歩くコノハに手を伸ばす。だが、パシッと振り払われてしまう。
「貴方は、自分の領分を弁えなさい」
「……っ」
いつもよりも冷たく感じるのは気のせいではなかった。
咲耶はコノハがどんな表情をしているのか、分からなかった。
ただ、コノハは肩を僅かに震わせながらも冷たい声音で言い放った。
「貴方は神子であれど、元々は人間なのよ。……人は人の範囲のことしかできないわ。神を封じるなんて、もっての外よ。貴方になんて、任せられないわ」
「ごめん……コノハ、姉……」
行かないでほしいなんて、言える空気ではなかった。
コノハを失いたくないのに、咲耶はコノハに拒絶された痛みで動けなくなってしまった。
「……俺は、コノハ姉が……心配で……」
咲耶はコノハの背中に向かって、消えそうな声で呟いた。
なんとか伝えられたのは、コノハを心配しているのだという言葉だけだった。
コノハは足を止めると、初めて咲耶の方を振り返った。桜色の髪がふわりと揺れる。
「咲耶……」
コノハは泣いていた。
桜色の瞳からはらはらと涙を零しながら、悲しげに咲耶を見つめ、震える唇で言葉を紡いだ。
「私は、桜花の国の主神なのよ。何も心配しないで……」
心配しないでと言いながらコノハは、まるで助けを求めるように涙を流していた。
咲耶の視界の隅で、桜花の国の桜の木々が風に揺れる。
降り注ぐ花弁がいつか見た研究室の桜に重なって、まるで、あの時の泣いている桜達のように思えた。
「……コノハ姉……やっぱり、俺が……っ!」
今、コノハを助けられるのは自分しかいない。
そう思った咲耶は、コノハに手を伸ばしながら歩み寄る。
しかし、コノハは袖で涙を拭い、拒むように首を横に振った。
「来ないで、咲耶……。これ以上関わらないで」
そして、コノハは咲耶の返事を待つことなく再び歩き出した。
「時憲さんのことは私に任せて、咲耶はここにいて。お願いだから、何もしないでちょうだい——」
去り際に告げられたその言葉が、咲耶とコノハの最後の会話となった。
「……俺が人間だったから」
咲耶がそう静かに呟き、視線を上げると、若葉色の瞳の中で星空が輝いていた。
瞳に映る星の一つが頬を伝って落ちていく。
「コノハ姉に、邇邇芸命の封印を任せられないって思われていた。俺の弱さがコノハ姉一柱に桜花の国のすべてを背負わせたんだ……」
コノハ姉は俺を大切にしてくれたのに、と咲耶が俯くと、膝の上で握り締めた両手に、ぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「そ、そんな……咲耶兄。泣かないでくれ」
蛍は咲耶の涙に驚きを隠せず、両手をバタつかせる。
泣いている神の慰め方など知らない蛍は、いつも蓮がしてくれているように、咲耶の手を取って明るく笑ってみせた。
「咲耶兄はいつだって、ずっと諦めずに生きてきたんだ!」
「……ほ、……たる?」
咲耶はあまりの蛍の勢いに、虚を突かれたように瞳を丸くした。
「全然、弱くない! もし咲耶兄が自分を弱いと思うなら、これからボクと一緒に強くなっていこう!」
蛍はぎゅっと咲耶の手を握り締めて、真っ直ぐに咲耶を見つめる。
「……っ」
咲耶は思わず言葉を呑んだ。
(一緒に強くなろう、なんて初めて言われた……)
弱くてもいい。弱いのなら、これから一緒に強くなればいい。
そう言って自分を奮い立たせ、前へ連れていこうとする蛍の強さが、咲耶には眩しく映った。
そして、若葉色の瞳を細めながら、咲耶はゆっくりと頷いた。
「あぁ、そうだな、俺は強くなりたい。時憲のこともコノハ姉のことも守れるくらい……」
「うん、咲耶兄ならきっと強くなれる!」
咲耶の答えに、蛍はふわりと微笑んだ。
そのまま咲耶の手を一層強く握り締めると、蛍は咲耶と繋いだ手をブンブンと振りながら言った。
「それにもし、咲耶兄が苦しい時は、ボクも一緒に背負うから……こうして手を繋いで、これで半分こにしよう!」
「ふっ……はははっ、なんだそれ……。小さいくせに背負うなんて……なんなんだよ」
咲耶は涙を拭いながら、堪え切れないように笑った。
「えっ、ダメ……なのか?」
蛍は咲耶の言葉を真に受けて、眉をハの字に寄せる。
そんな蛍を見て咲耶は緩く首を左右に振ると、優しく微笑んで穏やかな口調で言った。
「いや、ありがとう、蛍……。お前のおかげで、なんか色々と整理がついたよ」
「うん!」
蛍は強く頷くと、元気よく立ち上がる。
「ボクは咲耶兄のため、コノハ姉のため、邇邇芸命を助けるために戦いたい!」
「蛍、お前……」
そう意気込む蛍を見て、咲耶は気づいた。
安倍晴明ばかりを追いかけていた蛍の世界が、少しずつ広がっていることに……。
もちろん、蛍自身に自覚があるかは分からない。
だが、ぎゅっと両手を握り締めた蛍は、太陽みたいに明るい笑顔を浮かべて咲耶に向かって宣言する。
「誰にも泣いてほしくない。笑っててほしい。高天原のみんなのために、ボクは戦うって決めた……今っ!」
「いや、今かよ……」
咲耶は呆れながらも蛍の笑顔に救われた。
ゆっくり立ち上がると咲耶は蛍の頭を撫でる。
「ほんと、お前らしいな。無理だけはすんなよ」
「うん!」
大切な皆に、笑っていてほしい。
高天原に生きる皆のために、自分は戦うのだと、蛍は改めて心に決めた。
(……随分と話し込んでいたようだけど、区切りはついたみたいだね……)
少し離れた場所から、蓮は蛍と咲耶の姿を静かに見つめていた。
月明かりに照らされる咲耶の目元には、まだ涙の跡が残っている。
それでも、その表情には先ほどまでなかった柔らかな笑みが浮かんでいた。
蓮はしばらく二柱を見つめたあと、小さく息を吐く。
「……はぁ、僕のことも気にかけてほしいな。なんて、わがままを言える空気じゃなさそうだから、今日は我慢しておこうかなぁ……」
そして、声をかけることなく、気を取り直すように大きく伸びをして、踵を返した。
そんな蓮の背を追うように、柔らかな風が吹き抜けた。
風に運ばれてきた淡い桜の花弁が、ふわりと池の水面に落ち、静かに波紋を広げていた。
やっと過去から本編に戻りました。引き続きお願いします。




