第19話:暴かれた欺瞞と男爵家の帳簿
ガルディア帝都の地下深くに張り巡らされた、石造りの回廊。
地上でどれほど秋雨が降り頻ろうと、あるいは木枯らしが吹き荒れようと、帝国特務監察局の地下深奥に位置する極秘執務室には、外の世界の天候も陽光も一切届かない。
四方を分厚い黒玄武岩で囲まれた室内には、地下特有の湿った冷気と、乾燥した古い羊皮紙、そして鉄分を多く含んだ黒インクの酸っぱい匂いが淀んでいた。
天井の梁から吊るされた銀の燭台には、油煙の少ない高級蜜蝋が灯されているが、その淡い橙色の光ですら、部屋の四隅に沈殿する濃密な影を払拭することはできない。
カチ、カチ、カチ――。
黒檀の置時計が刻む乾いた金属音だけが、墓所のような静寂を規則正しく切り刻んでいた。
部屋の中央に鎮座する、傷一つなく磨き上げられた黒檀の巨大な執務机。
その向こう側に、背筋を微動だにさせず腰掛けていたのは、ホルシュタイン公爵ヴァルデマーだった。
漆黒の軍服の襟元には金モールの縫取りが鈍く光り、胸元には帝室特務監察局長たる黒鷲の徽章。濡れた銀髪は後ろへと滑らかに撫でつけられ、彫刻のように整った白皙の美貌は、外界の一切の感情を拒絶する氷壁の如き冷徹さを湛えている。
その机の前へ、足音を忍ばせて歩み寄ったのは、副官のカスパールだった。
彼の背後には、全身を影のような黒装束で覆い、銀の仮面を身につけた監察局直属の調査員が二名、無言の彫像のように控えている。
「……長官。命ぜられておりました件、調査が完了いたしました」
カスパールの声は、普段の軽妙さを完全に削ぎ落とした、張り詰めた重いものだった。
彼が黒檀の天板の上に置いたのは、朱色の極秘封蝋が幾重にも施された、親指の厚みほどもある分厚い革表紙の綴りだった。
パサリ。
重厚な紙の擦れる音が、冷え切った執務室に小さく響く。
表紙に刻まれていた表題は――『シビル・フォン・クラインに関する身元、親族関係、および追放事案の全容調査報告書』。
「調査員がクライン男爵邸の私室、ならびに近隣の薬種商、貴族院の過去十年の売買台帳を徹底的に洗い直しました。……結果は、看過しがたいものでした」
「……聞こう」
ヴァルデマーの低く透き通るような声が落ちる。
手にした黒漆塗りの万年筆の先が、報告書の封蝋へと触れた。パキリと乾いた音を立てて赤い蝋が砕け散る。
カスパールは一礼し、自らの手元の手帳を開きながら、淡々と、だが底に煮え立つ怒りを押し殺した声音で報告を始めた。
「まず、クライン男爵家におけるシビル殿の扱いです。……実父である現男爵、ならびに後妻、その娘のセリア、弟のテオドールに至るまで、シビル殿を『魔力水晶を光らせることすらできない無能』と決めつけ、屋敷の最北端、かつての下男部屋に押し込めておりました」
「…………」
「シビル殿が成人と同時に管理を任されていた男爵領の特産薬草園ですが……実態は『任されていた』などという生ぬるいものではありません。十年間、広大な第一から第十二温室に至るすべての土壌魔力循環、水路整備、害虫駆除、夜間の温度管理を、シビル殿がたった一人で、無給で担わされていました」
カスパールが差し出した一枚の写本。
そこには、男爵家の家計簿の控えが克明に写し取られていた。
男爵家の年間収益の八割以上を叩き出していた希少薬草「月光菫」や、近隣貴族へ納められていた特注鎮痛軟膏の売上。その莫大な金貨の行先は、すべて父男爵の酒色、弟テオドールの放蕩、そして妹セリアの豪奢な夜会服と宝飾品へと消えていた。
シビル本人へ支払われていたのは、一介の見習い召使以下の、衣服一着すら新調できないほどの雀の涙のような小遣いのみ。
「男爵家の人間は、シビル殿の血の滲むような日々の手入れを『地味な雑草いじり』と嘲笑い、その手から生み出される莫大な利益だけを貪り食っていたのです。シビル殿が家族のためにと黙って耐え忍んでいるのをいいことに……」
ヴァルデマーは、報告書の一頁一頁を、ゆっくりと捲っていった。
その指先は完璧に制御されているように見えた。だが――。
――ピシリ。
不意に、微小な、だが硬質な音が執務室に響いた。
カスパールが息を呑んで視線を落とす。
ヴァルデマーが握りしめていた黒漆の万年筆の軸に、目に見える亀裂が走り始めていた。
部屋の空気が、急激に密度を増す。
天井の蜜蝋蝋燭の炎が、吹き荒れる寒波に怯えるように青白く縮み上がった。
ヴァルデマーの全身から、無意識のうちに漏れ出した絶対零度の魔力圧。机の天板の上に置かれた硝子のインク壺の表面に、白い霜の結晶が放射状に張り付いていく。
「……続けて報告しろ、カスパール」
声音に抑揚はなかった。だが、その底に沈殿しているのは、触れたものすべてを分子レベルで凍結粉砕せしめるような、底なしの暗黒だった。
「は……はっ」
カスパールは喉の渇きを覚えながら、次の頁をめくった。
「次に、先月の夜会における『婚約破棄』および『追放劇』の真相です。近衛騎士ファビアン・フォン・レーマンとセリアの共謀による、完全な狂言でした」
調査書には、セリアが下町の闇商人から購入した粗悪な染色ハーブの領収書の写し、ならびにファビアンが同僚たちへ吹聴していた「地味な姉を追い出し、美しく魔力のある妹へ乗り換える」という私信の記録が、克明に添付されていた。
「セリアの私室から見つかった猛毒草『黒鐘草』とされたものは、ただの無害な乾燥葉に染料を塗った偽装品。シビル殿はその場で科学的矛盾とセリアの指先の染料の痕跡を完璧に暴き、正論を突きつけました。……しかし、ファビアンと男爵らは一切耳を貸さず、あらかじめ用意していた追放令を強引に執行。シビル殿は手切れ金はおろか、身の回りの私物すらほとんど持たされず、夜明け前の泥道へと身一つで叩き出されたのです」
カスパールが報告を終えた瞬間。
――メキ、メキメキッ!
凄まじい軋み音とともに、ヴァルデマーの手の中で、最高級の鋼と漆で鍛え上げられた万年筆が、粉々に握り潰された。
砕け散った破片と、凍りついた黒インクの塊が、黒檀の机の上に散乱する。
ヴァルデマーの掌には傷一つついていなかった。自らの放つ魔力障壁が、金属の破片を紙屑のように弾き飛ばしていたからだ。
「…………」
ヴァルデマーはゆっくりと顔を上げた。
その氷藍色の瞳は、もはや人間のものではなかった。
吹雪の夜の氷原、飢えた狼すら凍死させる極北の凍土そのものの光。
「……地味で、無能、だと?」
低く、地を這うような呟き。
その一言が発せられた瞬間、執務室の壁という壁にビシリと白い氷の筋が走り、背後に控えていた二人の特務調査員すら、恐怖に膝を震わせて床へと跪いた。
「彼女の手が……あの小さな、泥に汚れた指先が、どれほどの命を救ってきたかも知らぬ豚どもが」
五年前、塹壕の泥濘の中で、自らの胸元に触れていたあの温もり。
宮廷侍医の誰一人として救えなかった自分の命を、夜を徹して繋ぎ止めてくれた、あの至高の調剤技術。
そして今、下町の小さな部屋で、疲弊した名もなき職人や兵士たちの胃腸を、魂を、誰に誇ることもなく温め続けているあの笑顔。
それを――。
見栄のために貪り、利用し尽くした挙句、泥の中に放り出しただと?
「身の程を知らぬ羽虫どもが、我が至宝を土足で踏みにじった罪……いかほどの絶望をもって贖わせるべきか」
ヴァルデマーの口元に、冷酷極まりない、氷の刃のような笑みが浮かんだ。
それは帝国の暗部において、一つの名門貴族の家系が地上から完全に消滅する直前にだけ現れる、「処刑人」の微笑だった。
「長官」
カスパールは冷汗を拭い、静かに次の報告書を指し示した。
「……怒りを収めて、こちらをご覧ください。奴らの破滅は、すでに奴ら自身の無能によって、内側から始まっております」
「……何?」
ヴァルデマーが視線を落とす。
「シビル殿が去った後の、クライン男爵領の現状です」
カスパールの声に、冷徹な蔑みが混ざった。
「男爵家の薬草園のマスターキーは、現在、次女のセリアと弟のテオドールが握っております。……しかし、あの薬草園が維持できていたのは、シビル殿特有の『微細循環魔力』による、ミリ単位の土壌調整と水脈管理があったからこそでした。土の呼吸も知らぬセリアは、己の『黄金の治癒光』を温室中に乱射し、過剰な熱量で希少薬草の根毛を焼き殺してしまったとのことです」
報告書に添えられた、潜入調査員による現地の土壌サンプル記録。
第一温室の月光菫はすでに半数が黒ずんで腐敗を始め、土壌の魔力循環は完全に枯渇。温室全体に饐えた悪臭が充満しているという。
「さらに、テオドールは近隣の有力貴族――筆頭取引先であるヴェルナー伯爵家などから、多額の前受金をすでに受け取っておりました。来月の納品期日までに最高品質の生薬を揃えられなければ、契約不履行により、男爵家の全財産を吹き飛ばしても足りないほどの莫大な違約金が発生します」
「……自ら薬草園の心臓部を抉り出しておきながら、金だけは前借りで遊興に使い果たしたか」
ヴァルデマーの唇から、侮蔑の吐息が漏れる。
「それだけではありません。元婚約者のファビアン・フォン・レーマンも同様です」
カスパールは手帳の頁をめくった。
「近衛第三隊におけるファビアンの評価は、ここ数週間で急落しております。……調査によりますと、ファビアンはこれまで、シビル殿が毎朝持たせていた特製の疲労回復軟膏と滋養茶によって、過酷な訓練による筋肉痛や関節炎を驚異的な速度で回復させていたようです。それを己の天賦の肉体と勘違いしていた男は、シビル殿を追放したことでその恩恵を失いました」
カスパールは、昨日店で遭遇した同僚のヨハンの証言や、近衛隊内部の監査記録を読み上げた。
「現在、ファビアンは連日の筋肉疲労と関節痛に悲鳴を上げており、訓練での落馬、模擬戦での惨敗を連発。セリアに『光魔法で痛みを消せ』と縋り付いているようですが、セリアの浅い光魔法では筋肉の深層の炎症など何一つ癒せず、かえって痛みを悪化させている始末。……隊内ではすでに『サボり魔の役立たず』として孤立し、近衛隊長ディートリヒ卿からの懲罰対象としてリストアップされております」
報告を聞き終えたヴァルデマーは、背もたれに深く身体を預けた。
氷藍色の瞳の奥で、冷徹な計算と策略が、チェス盤の駒を動かすように高速で組み上げられていく。
シビルという、たった一本の、だが屋敷全体を支えていた強靭な大黒柱。
それを己の手で叩き折ったシロアリどもが、自らの重みで崩落していく屋根の下で、逃げ場を失って右往左往している様が、手に取るように見えていた。
「……長官」
カスパールが、執務机に両手をつき、身を乗り出した。
その瞳には、かつて胃を痛め、シビルの一杯のお茶に命を救われた者としての、昏い熱が宿っていた。
「今すぐ、監察局の権限で動きましょうか。クライン男爵家の過去の不正会計、脱税、ならびにレーマン伯爵家の次男の職務怠慢と越権行為――これらを一斉に告発し、強制捜査(査察)に入れば、明日の朝には男爵家を取り潰し、ファビアンを近衛から叩き出すことなど造作もありません」
特務監察局の全権限をもってすれば、蟻を踏み潰すよりも容易いことだった。
だが。
ヴァルデマーは、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや。まだだ」
その声には、カスパールすら背筋を震わせるほどの、酷薄で甘やかな残虐性が宿っていた。
「今すぐ権力で叩き潰しては、あの者どもは『理不尽な権力に屈した被害者』として己を慰めるだろう。己の犯した罪の重さも、失ったものの尊さも理解できぬまま、ただ理不尽を呪って終わるだけだ。……そんな生ぬるい幕引きなど、許さん」
ヴァルデマーは立ち上がり、黒檀の机の上に散らばった報告書を、自らの大きな手で静かに束ねた。
「偽物どもには、自らの無能が招く絶望を、骨の髄まで味わわせる。……姉がいなければ自分たちがただの無価値な寄生虫に過ぎなかったという現実を、借金の山と、腐り果てた泥の温室の中で、血の涙を流しながら思い知らせてやるのだ」
ヴァルデマーはカスパールへと視線を向けた。
その瞳は、獲物をじわじわと追い詰める冷徹な狩人の光を取り戻していた。
「カスパール。近隣貴族たちへの男爵家の債権、ならびにヴェルナー伯爵家の契約不履行違約金の回収窓口を、すべて監察局のダミー商会を通して買い取れ」
「……っ! 男爵家の借金の債権者を、我が局で一本化するのですか」
「そうだ。男爵家が破産の手続きを取ろうとしたその瞬間、逃げ道をすべて塞ぎ、法的に一分の猶予もなく全財産を差し押さえられるよう、完璧に外堀を埋めておけ。……ファビアンのレーマン伯爵家に対しても同様だ。親族からの資金援助を一切封じられるよう、伯爵本人の不正帳簿を押さえておけ」
「御意に」
カスパールは深く頭を下げた。これほど完璧で、逃げ場のない破滅の網があるだろうか。
「……それから」
ヴァルデマーの声の温度が、ふっと僅かに緩んだ。
「シビル本人の周囲の警護だ。あの下町の店に、男爵家やファビアンの息のかかった者が一歩でも近づかぬよう、監視を三倍に増やせ。……だが、彼女の生活を脅かすな。彼女の店は、彼女の誇りの場所だ。彼女が助けを求めるその時まで、俺たちはただの『夜の客』であり、『見えない盾』であらねばならない」
「承知いたしました。……長官、シビル殿には、この男爵家の自滅の件はお伝えになられますか?」
「言わなくていい」
ヴァルデマーは、粉々に砕けた万年筆の破片を片付け、新しいペンを手に取った。
「彼女の澄んだ瞳を、あんな汚泥のような連中の名前で曇らせる必要はない。……彼女はただ、明日もあのカウンターで、穏やかにお茶を淹れていればいい。泥を片付けるのは、俺の役目だ」
地下執務室の冷え切った空気の中に、男の底知れぬ執着と、絶対的な守護の誓いが静かに溶け込んでいく。
外堀は、すでに埋まり始めていた。
シビルを捨てた者たちが、自らの愚行の報いによって破滅の底へと転落していくその瞬間を、帝国の冷徹な番犬は、闇の中から静かに、確実に手繰り寄せていた。




