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第18話:路地裏の害虫と氷の監察官

冷たい雨が、旧市街の入り組んだ石畳の溝を黒々と濡らし続けていた。


軒先から滴り落ちる雨だれが、トタンの庇を規則正しく叩く。ピチャン、ピチャンと跳ねるその音は、人気(ひとけ)の途絶えた深夜の裏路地において、異様なほど大きく反響していた。

『沈黙の緑』の店内では、すでに表の木彫り看板のランプは消され、トネリコのカウンターの上には、細く灯された一本の蝋燭の灯りだけが揺れていた。


開店から数週間。

鍛冶屋の親方バルトの熱中症を劇的に癒やしたことに始まり、特務監察局副官のカスパールの胃痙攣を鎮め、魔導工学院の若き天才ニコラの脳熱を冷却し、過酷な当直で疲弊した近衛兵ヨハンの筋肉を解きほぐしたシビルの調合茶は、旧市街で働く誠実な男たちの間で、瞬く間に「奇跡の駆け込み寺」としての噂を広げていた。

夕暮れ時ともなれば、煤と汗に塗れた職人から、神経をすり減らした官僚たちまでが席を埋め、エルゼが仕込む素朴なポタージュと黒パンの香りが路地裏を満たす。


だが――陽の光が届かぬ下町の路地裏にあって、繁盛の兆しというものは、常に濁った欲望を惹きつける蜜でもあった。


「……お嬢様、今夜の仕込みはもう十分ですよ。暖炉の火も落としましたから、二階へ上がりなさいな」

厨房の奥で鍋を磨き終えたエルゼが、濡れた手を前掛けで拭きながら声をかけてきた。


「ええ、ありがとう、エルゼ。棚のハッカ油の小瓶に封蝋(ふうろう)を施したら、私もすぐに上がりますね」

シビルは穏やかに微笑み、作業机に向かっていた。

手元には、ルッツの蒸留器で抽出したばかりの高純度芳香水が小瓶に詰められ、整然と並んでいる。


その時だった。


ザッ、ザッ、ザッ――。

雨音の向こうから、複数の足音が路地のぬかるみを踏み荒らす不穏な気配が忍び寄ってきた。

足音は一つや二つではない。靴底を泥に擦りつけるような、下品で乱暴な足並み。

気配は店の正面ではなく、人目のつかない勝手口――裏路地に面した重い木扉の周囲を取り囲むようにして、ピタリと止まった。


――ドスンッ!


激しい衝撃が、勝手口の扉を外側から打ち据えた。

頑丈なオーク材の板戸が軋みを上げ、閂(かんぬき)の鉄金具がビチリと悲鳴を鳴らす。


「おい、開けろや! 中にいるのは分かってんだぞ!」

扉の隙間から漏れ込んできたのは、酒と安煙草の饐えた匂いを含んだ、濁った怒号だった。


「ひっ……!」

エルゼが息を呑み、思わず調剤台の上の鉄の火かき棒を握りしめた。

シビルは作業の手を止め、すっと立ち上がった。そのヘーゼルアイには動揺はなく、外の気配を冷静に測る光だけが宿っている。気配は四人、いや、五人。どの足取りも重心が低く、粗暴な息遣いが湿った空気を通して伝わってくる。


「……旧市街のみかじめ料取り組織、『黒百足組(くろむかでぐみ)』ですね」

シビルが小声で呟いた。

薬種商のユーリウスからも、鍛冶屋のバルトからも警告されていた連中だった。職人街の裏通りで新しく商売を始めた店に言いがかりをつけ、法外な上納金を毲(むし)り取る下町の害虫たち。


「おい、聞こえねえのか、お嬢ちゃんよォ!」

再び、ドカンと扉が蹴りつけられた。

「この裏通りで勝手に店を開いて、たんまり儲けてるそうじゃねえか! 俺たち黒百足組への挨拶もなしに商売が続けられると思ってんのか?! 大人しく扉を開けて、上納金用の金貨十枚を差し出しな! さもねえと、この長屋ごと火を放って灰にしてやるぞ!」


下卑た嘲笑が、雨の闇の中に響き渡る。

脅迫の言葉とともに、チャキリ、と金属が擦れ合う抜身の短剣の音が、板戸の向こうから聞こえた。


「ど、どうしましょう、お嬢様……憲兵を呼びに行こうにも、表の通りまで出る前に捕まってしまいますよ……!」

エルゼが青ざめ、シビルを背中に庇おうとする。


だが、その瞬間。

土間の暗がりから、まるで影が滑り出すようにして、一人の巨漢が姿を現した。


「……エルゼの婆さん、下がってな」


低く、地を這うような声音。

用心棒兼給仕のアルドだった。

昼間のぎこちない笑顔は完全に消え失せ、その双眸は血を求める獣のように鋭く研ぎ澄まされていた。男の手には、かつてシビルが傷口を縫い合わせた際に腰から外していた、あの鍔の欠けた無骨なブロードソードが抜身のまま握りしめられていた。


「アルドさん……」

「シビル先生、手出しは無用だ」

アルドは振り返ることもなく、鋼の筋肉に覆われた背中でシビルを庇い、勝手口の扉へと歩み寄った。


「俺は元から、裏社会の泥水を啜ってきた傭兵だ。あいつらみたいな下劣な蛆虫(うじむし)の殺し方は、嫌というほど知ってる。……俺に温かいシチューを食わせてくれたこの店を、あんなゴミどもに指一本触れさせるわけにはいかねえ」


アルドの右腕の筋が、ギリリと音を立てて隆起する。

男は左手で勝手口の閂を一気に跳ね上げると、外からの蹴破りに合わせて、自ら扉を乱暴に引き開けた。


――バァンッ!


夜の冷たい雨飛沫が、室内に激しく吹き込んできた。

扉の向こう、狭い路地裏には、油紙の雨合羽を着た五人の男たちが、棍棒や短剣を手にして並んでいた。突然扉が開き、中から筋骨隆々の大男が抜身の刃を下げて現れたことに、チンピラたちは一瞬たじろぎ、目を丸くした。


「な、何だ、てめえは……?! 雇われの用心棒か?!」

先頭に立つ、頬に刀傷のある痩せこけた男が、短剣の切先を突きつけながら唾を飛ばす。


アルドは一歩、敷居を越えて雨の中へと踏み出した。

冷たい雨粒がその無精髭の顎を濡らすが、瞬き一つしない。男はブロードソードの切先を石畳の上へと無造作に落とし、凄まじい眼光で五人を射抜いた。


「……ここから先へ一歩でも踏み込んでみろ」

地獄の底から響くような、圧倒的な殺気の籠もった宣告。


「てめえらの首を、この場で一本残らず撥ね飛ばして、運河の肥やしにしてやるぞ」


「ひっ……!」

チンピラの一人が、その本物の歴戦の気迫に気圧され、思わず半歩後ずさった。

だが、頭の傷の男が舌打ちし、仲間を怒鳴りつけた。


「ビビるんじゃねえ! 所詮は一人だ! 手足の腱を切り刻んで、奥の小娘ごと売り飛ばしゃあ大金になる! やっちまえッ!」


男たちが一斉に凶器を振り上げ、アルドへと殺到しようとした――その刹那だった。


――コツ、コツ、コツ。


激しい雨音を裂いて、濡れた石畳を打つ、硬質で冷徹な靴音が響いた。

騒乱のただ中にあって、あまりにも静かで、あまりにも狂いのない、絶対的な足音。


「……あァ?」

チンピラたちが苛立ち混じりに振り返った。

路地の闇の深奥、雨に煙る角の向こうから、一人の長身の男が、傘も差さずに歩み出てきていた。


黒革の厚手外套を纏い、目深に被ったフード。

その男が路地に姿を現した瞬間――。


周囲の大気が、物理的な変貌を遂げた。


雨粒が落ちる速度が、まるで凍りついたように鈍くなる。

気温が瞬く間に氷点下へと叩き落とされ、チンピラたちが吐き出す息が一瞬で真っ白に凍りついた。路地の石畳の隙間を流れていた雨水が、パリパリと音を立てて白い霜の結晶へと姿を変えていく。


「な……何だ、この寒気は……?!」

刀傷の男が歯をガチガチと打ち鳴らし、恐怖に身を震わせた。


アルドの全身の毛穴が逆立った。

(……あいつだ。あの、夜遅くに来ていた客……!)

だが、今そこに立っている男は、昨夜までカウンターの端で疲れた背中を丸め、シビルのお茶を静かに飲んでいた「しがない巡回役人ヴァル」では断じてなかった。


男はゆっくりとフードを跳ね上げた。

露わになったのは、夜の闇の中で青白く発光するような銀髪と、彫刻のように研ぎ澄まされた冷徹な美貌。

そして――何ものをも生かしてはおかぬ、底なしの暗黒と絶対零度の殺気を湛えた、氷藍色の双眸。


ホルシュタイン公爵ヴァルデマー。

帝国の暗部を裁き、皇族すら恐れ慄く「氷雪の番犬」そのものの姿が、そこに顕現していた。


「……夜の静寂を乱し、泥のような言葉を撒き散らす害虫どもめ」

低く、透き通るような氷の美声が、路地に響き渡る。


「て、てめえ……何者だ! 黒百足組に歯向かって、生きて帰れると思って――」

先頭の男が虚勢を張って短剣を突き出そうとした。


ヴァルデマーは、視線すら向けなかった。

ただ、黒革の手袋に包まれた右手の中指と親指を、わずかに擦り合わせ――パチン、と小さく鳴らした。


その瞬間。


――バシュッ!


音もなく、頭上の暗がりから、数条の黒い影が雨を裂いて舞い降りた。

長屋の屋根、高架の橋脚、煙突の陰――何もないはずの空間から、漆黒の戦闘装束に身を包み、銀の仮面をつけた特務監察局の暗殺・制圧執行官たちが、十数名、音もなく着地したのだ。


「ひ……っ?!」

チンピラたちが悲鳴を上げる暇すら与えられなかった。


影のような執行官たちの動きは、神速という言葉すら生ぬるかった。

ある者はチンピラの短剣を振るう手首を一瞬で逆関節に極めてへし折り、ある者は棍棒を持つ男の膝裏を蹴り抜いて石畳に叩き伏せる。

同時に、ヴァルデマーの足元から放たれた極小の凍結魔力が、男たちの足首から這い上がり、下半身の自由を物理的に奪い去った。


ボキリ、グシャリと鈍い骨の軋む音が雨音に紛れて連続し、叫び声を上げようとした男たちの口には、間髪を入れずに厚手の麻布の猿ぐつわが噛ませられた。

抵抗らしい抵抗など、何一つ起こり得なかった。

わずか三秒。

五人の屈強な無頼漢たちは、音を立てることも許されず、泥水の上に両手を背中で縛り上げられ、芋虫のように地面に組み伏せられていた。


「…………っ」

歴戦の傭兵であるアルドすら、その息の詰まるような完璧で冷酷な制圧劇に、息を呑んで立ち尽くしていた。

無駄のない動き、感情を完全に削ぎ落とした執行。これは街の憲兵や警備隊の技術ではない。国家の最暗部で要人暗殺や反逆者粛清を担う、本物の「処刑人」たちの手際だった。


ヴァルデマーは、泥の上に転がるチンピラたちへと、ゆっくりと歩み寄った。

軍靴が水たまりを踏むたび、波紋の形に氷が張っていく。


男たちの前に立ったヴァルデマーは、見下ろす視線に侮蔑の色すら浮かべなかった。ただ、道端に転がる汚物を見るような、絶対的な無関心。


「……我が帝国の重要な民間資源に対し、武力を用いて脅迫し、危害を加えようとした罪は重い」

淡々と、宣告するように紡がれる言葉。


「貴様らの背後にいる『黒百足組』の幹部、ならびに資金源の地下賭博場は、今夜のうちに監察局の別動隊がすべて解体する。……安心しろ、一人として逃がしはしない」


猿ぐつわを噛まされた刀傷の男が、恐怖に目を血走らせ、泥の中で狂ったように身悶えする。

「監察局」という単語を聞いた瞬間、男たちは自分たちが誰に牙を剥いたのかを悟ったのだ。帝国の地下牢――一度足を踏み入れれば、二度と生きて陽の光を見ることは叶わない、生ける地獄。


「連行しろ。二度とこの通りの土を踏ませるな」

ヴァルデマーが冷然と命じる。


「ハッ!」

黒装束の執行官たちが低く応じ、組み伏せられた男たちを荷物のように軽々と担ぎ上げた。

そして、雨の闇の中へと、足音一つ立てずに瞬く間に消え去っていった。

残されたのは、冷たい雨に洗われる石畳と、漂う微かな氷の気配だけだった。


「…………」

アルドはブロードソードを構えたまま、ヴァルデマーから視線を外せなかった。

男の全身から放たれる圧倒的な魔圧。自分がいくら剣を振るおうと、指先一つで首を刎ねられると本能が警告していた。


だが、ヴァルデマーはアルドに目を向けることはなかった。

男は勝手口の敷居の奥――薄暗い店内に立つシビルへと、視線を向けた。


シビルは、逃げ隠れすることもなく、そこに立っていた。

目の前で繰り広げられた圧倒的な暴力の行使と、黒装束の集団の異様さを目にしても、彼女のヘーゼルアイは澄み切ったままだった。

怯えることもなく、媚びることもなく。

ただ、雨に濡れて銀髪を額に張り付かせている男の、痛々しいほど冷え切った横顔を、静かに見つめ返していた。


ヴァルデマーの氷藍色の瞳から、一瞬だけ、あの絶対零度の冷気が揺らぎ、代わりに隠しようもない熱い動揺が走った。

(……見ていたのか)

自らの血塗られた本性を、冷酷な番犬としての姿を、彼女に見られてしまった。

怖がられただろうか。拒絶されるだろうか。

そんな青年のごとき痛切な葛藤が、公爵の瞳の奥で千々に乱れる。


だが、シビルは静かに口を開いた。


「……お怪我は、ございませんでしたか、ヴァル様」


その声は、昨夜とお茶を差し出した時と、まったく同じ温もりを湛えていた。

目の前で起きた血生臭い制圧劇など気にも留めず、ただ夜雨に濡れた客の身体を気遣う、薬師の娘の声音。


「…………」

ヴァルデマーの喉が、熱く詰まった。

男は自嘲するように口元をわずかに緩めると、深く被り直したフードの陰へとその美貌を隠した。


「……怪我など、あるはずがない。夜間巡回の役目の一環だ。気に病む必要はない」

低く、掠れた声。


「長屋の戸締まりをしっかりしておけ。……今夜はもう、誰も来ない」


それだけを言い残すと、ヴァルデマーは身を翻した。

黒革の外套が夜風に翻り、男の長身は、雨の煙る路地の闇の中へと、音もなく溶け込むように去っていった。


*


翌朝。


昨夜の嵐のような雨は嘘のように上がり、旧市街の空は雲一つない冬の青空が広がっていた。

チュン、チュン、と。

長屋の古びた瓦の上で、朝露に羽を濡らした小鳥たちが、澄んだ声でさえずり合っている。


シビルは手桶と竹箒を手に、勝手口の扉を開けた。

昨夜の泥や、男たちが暴れ回った痕跡を掃除しなければならないと思っていたのだ。


だが――。

外へ踏み出したシビルは、思わず足を止めた。


「……あら」


裏路地の石畳は、驚くべき光景を見せていた。

昨夜の荒くれ者たちの足跡も、泥水も、跳ね飛んだ砂利の一つすら、どこにも残っていなかったのだ。

まるで、熟練の清掃部隊が夜を徹して磨き上げたかのように、石畳の継ぎ目に至るまでチリ一つなく掃き清められ、朝日を浴びてしっとりと青く輝いていた。

何事もなかったかのような、どこまでも清らかな朝の静寂。


「……おい、シビル先生」


背後から、腕組みをしたアルドが、苦虫を噛み潰したような顔で路地を見下ろしていた。

大男は腰の短剣を確かめ、誰もいない路地の奥を睨みつけながら、低く唸るように呟いた。


「あの男……『巡回役人ヴァル』とか名乗ってた奴……」


「はい、アルドさん」


「ただの役人じゃねえぞ。絶対にだ」

アルドは太い首筋を掻きむしり、忌々しそうに、だが確信を込めて吐き捨てた。


「昨夜の黒装束の連中……ありゃあ帝室直属の特務機関、それも一番ヤバい暗殺部隊の手並みだ。あの男が指を一つ鳴らしただけで、影から何十人も湧いてきやがった。……帝都の中で、あんな化け物どもを私兵のように顎で使える男なんざ、たった一人しかいねえ」


アルドはシビルの穏やかな横顔を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「……あいつは、ホルシュタイン公爵だ。『氷雪の番犬』と呼ばれる、特務監察局の最高長官だぞ」


その恐るべき正体を突きつけられても、シビルは驚くことも、取り乱すこともなかった。

彼女は手にした手桶の清冽な井戸水を見つめ、ふっと柔らかく目を細めた。


「そうかもしれませんね」


「……知ってたのか?!」


「いいえ。身分など、私には分かりません」

シビルは青く澄み渡る冬の空を仰ぎ、静かに微笑んだ。


「公爵様であっても、役人の方であっても……夜遅く、疲れ果てて私の店に来てくださるあの方は、ただの、酷い頭痛に苦しんでいるお客様です。……私にできるのは、今夜もまた、あの方の頭痛を少しでも和らげるためのお茶を、心を込めて淹れることだけですから」


シビルの迷いのない声に、アルドは言葉を失い、やがて呆れたように天を仰いだ。


「……敵わねえな、本当にお前さんには」


朝の爽快な風が路地裏を吹き抜け、軒下の『沈黙の緑』の看板をカタリと揺らす。

帝国の暗部が蠢く影の下にあっても、シビルの小さな城は、確かな守護の網に抱かれながら、今日も穏やかな一日を迎えようとしていた。

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