第五話:kwskって言ったら、ちゃんと聞いてくれる?
翌日の放課後。
マンションの階段を上がっていると、今日はいつもより少しだけ静かな気がした。
……いや、静かすぎる。
逆に怖い。
昨日の「ぬるぽ」と「ガッ」のやりとりを思い出して、つい口元がゆるみそうになる。
あれはあれで、変な合言葉みたいで落ち着かなかったけど、妙に嬉しかった。
そんなことを考えていると、隣のドアがすっと開いた。
「おかえり。今日も生存確認よろ〜」
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
今日は薄いグレーのカーディガンを羽織っていて、落ち着いた雰囲気なのに、言っていることだけが落ち着いていない。
「……どうも」
「なんか今日は、反応が薄くない?」
「いや、普通だと思いますけど」
「ふーん。じゃあ、これ」
お姉さんは、なぜかスマホを俺の目の前に突き出してきた。
画面には、たった一言。
kwsk
「……これ、何ですか」
「“くわしく”だよ。知らないの?」
「知らないです」
「えぇ〜。じゃあ今日はkwskの日だね」
そう言って、お姉さんは楽しそうに笑った。
その笑い方が、今日は少しだけやさしい。
「今日はね、君に聞きたいことがあるの」
「俺に?」
「うん。kwsk」
「くわしく、って言われても……」
「じゃあ、ちゃんと順番に聞く。最初から。
昨日、ぬるぽにガッって返した時、どんな気持ちだった?」
急に真面目な声になったので、少し戸惑う。
でも、隠す理由もない。
「……ちょっと、ドキドキしました」
「ふーん」
「変なこと言ってるのは分かってるんですけど、なんか……返さないと落ち着かない感じがして」
「なるほど」
お姉さんは小さくうなずくと、今度は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、もっとkwsk」
「まだ聞くんですか」
「聞くよ」
お姉さんは、少しだけ笑った。
「……もっと知りたいから」
その一言で、胸の奥が少し熱くなった。
「……えっと、その」
「うん」
「最初は意味が分からなかったです。なのに、何回も言われると、だんだん返したくなるというか……」
「うんうん」
「なんか、俺ばっかり振り回されてる気もするんですけど」
「それは正しい感想だね」
「正しいんですか」
「だって、君が困ってるのを見るの、ちょっと楽しいし」
あっさり言われて、言葉に詰まる。
そんなことを平然と言うのに、本人はまったく悪びれていない。
「……性格悪いですよ」
「ひどい。これでも君のためにやってるのに」
「ため?」
「そう。君がちゃんと返してくれるようになったら、会話がもっと楽しくなるでしょ」
そう言って、お姉さんは少しだけ顔を近づけた。
「kwskってね、ただの略じゃないの」
「……?」
「ちゃんと話して!もっと聞きたい!って気持ちが入ってるの」
その言い方が、なぜかずるい。
本当にずるい。
俺は目をそらしながら、かろうじて言った。
「……じゃあ、聞いてください」
「うん」
「お姉さんと話してると、変な言葉ばっかり覚えるけど……前より、ちょっと楽しいです」
お姉さんが、ぴたりと動きを止めた。
一瞬だけ、ほんとうに一瞬だけ、顔が固まる。
それからすぐに、ふっと笑った。
「……なにそれ」
「え」
「それ、ずるい」
「ずるいって、何がですか」
「そういうの、kwskって言ってる私が一番聞きたかったやつじゃん」
そう言って、お姉さんは少しだけ視線を落とした。
いつもの調子に見えるのに、どこか落ち着かない。
「君って、そういうの、さらっと言うよね」
「言ってないです」
「言ったよ。しかも、結構ちゃんと」
そのまま少しのあいだ、二人とも黙った。
廊下の向こうで、遠くのエレベーターが動く音がした。
「……じゃあ、もう一個だけkwsk」
「まだあるんですか」
「あるよ。昨日、私が『おかえり』って言った時、ちょっと嬉しかった?」
「……え」
「kwsk」
完全に逃げ道をふさがれた。
こんなの、ずるいに決まってる。
「……はい」
「はい、ってなに」
「嬉しかったです」
「ふふっ」
お姉さんは、いつもより少しだけ静かに笑った。
「それなら、よかった」
「よかった、って……」
「だって、返事してくれるの、ちゃんと嬉しいから」
そう言うと、お姉さんはスマホをくるっと回して、今度は自分の画面を見せてきた。
そこには、やっぱり同じ文字があった。
kwsk
「……もう一回ですか」
「うん」
「何をですか」
「君のこと」
心臓が、また変な音を立てる。
この人は、普通の顔をして、どうしてこんなことを言えるんだろう。
「……俺のこと、そんなに聞いてどうするんですか」
「知りたいから」
「それだけですか」
「それだけじゃ、だめ?」
お姉さんは少しだけ首をかしげた。
その仕草が妙に大人っぽくて、逆に困る。
「君のこと、もっと知りたいの 」
「……そういうの、反則です」
「反則じゃないよ。正直なだけ」
そう言って、お姉さんはにこっと笑った。
その笑顔を見ていると、なんだかもう、逃げる気もなくなる。
「じゃあ、今日はこれで終わり」
「終わりなんですか」
「うん。kwskって、何回も聞くと効くでしょ?」
「……まあ、少し」
「でしょ?」
お姉さんは満足そうにうなずいた。
そして、帰り際にもう一度だけ振り返る。
「次は、君からkwskって言ってみて」
「俺が?」
「そう。ちゃんと聞きたいことがある時にね」
そう言って、今度は本当にドアの中へ入っていった。
廊下にひとり残された俺は、しばらく動けなかった。
たぶん今のは、ただの死語の練習じゃない。
そんな気がして、顔が少し熱くなる。
俺は小さく息を吐いて、心の中でそっとつぶやいた。
kwsk。




