第十五話 痴話話
第十五話 痴話話
かつては魔法の見世物と笑い声に満ちていた城下町のストリートは、もはや別の顔をしていた。
色とりどりの露店も、子どもたちの歓声もない。代わりにそこにあったのは、槍と弓を手に取る民衆の列だった。
「メアリー様こそ! 国の長であり! 我が国の象徴だ!!」
誰かが叫ぶと、波のように声が重なる。
「うおおおおおお!!」
民衆は基礎魔法を使えない。
だがそれでも、体系魔法と道具魔法があった。
槍の穂先には赤い火が灯り、箒の先端からは霜が舞う。
矢は麻痺毒を帯び、ただの農具や日用品が、次々と“武器”へと姿を変えていく。
掛け声。
行進。
翻る旗。
彼らはただ、前へ前へと進み続けていた。
⸻
迎え撃つのは王国の兵士たちだった。
街で暴動が本格化する前に、基礎魔法の力を借りて布陣を敷く。
その背後。
腕を組んだまま、一歩も動かず戦場を見下ろす男がいた。
ノーサンバランド公――王国軍を束ねる将軍である。
「……将軍様」
一人の兵士が、喉を詰まらせるように声をかけた。
「メアリー様支持派の勢いが止まりません。地方で抑止に失敗しているようです」
「分かっている」
低く、短い返答。
「だが我々は国直属だ。命を賭してでも防衛しなければならん。それが使命だ」
「しかし……この数です。相手が体系魔法中心とはいえ、これは……」
兵士の声は震えていた。
「数が問題ではない!」
ノーサンバランド公は視線を逸らさない。
「質は我々の方が遥かに上だ。やるぞ」
⸻
やがて、民衆と兵士は一直線に向かい合った。
その時だった。
民衆の列の中から、誰かが歌うように声を上げた。
「三十年♪ ヘンリーのクソ野郎によって歪む国♪」
嘲笑混じりの旋律が、次々と引き継がれる。
「国教会〜♪ クエスト様から見放されたゴミ教典♪
でたらめだらけの教科書なんて、誰も読まん♪」
そして、全員で声を合わせる。
「ああメアリー様♪ ユニバックよ♪
世界を救うのはユニバック♪
我が国の象徴、メアリー様♪」
歌はやがて、叫びに変わった。
「この国を潰したのはお前らだ!!
これからの国を建て直すのは、俺たちだ!!」
「うおおおおおおおお!!!」
一斉に、民衆が兵士へとなだれ込む。
⸻
炎の剣が振り下ろされ、氷の槍が突き刺さり、岩の盾が薙ぎ払う。
だが――数が違った。
兵士一人に、民衆が五人。
一人を丸焦げにしても、次が来る。
足を氷結させても、スコップが突き刺さる。
岩の壁を立てても、背後から麻痺毒の矢が飛ぶ。
火炎樽。
氷柱のナイフ。
豆鉄砲のような簡易魔法。
数の暴力が、質を押し潰していく。
兵士たちは一人、また一人と崩れ落ちていった。
⸻
「将軍様……これ以上は無理です。撤退しましょう……」
誰かが叫ぶ。
だがノーサンバランド公は動かない。
腕を組んだまま、その場に立ち尽くしていた。
「早く逃げないと……将軍様も死にます!!」
それでも、男は一歩も動かない。
「……私は逃げます!!
後の指揮は、よろしくお願いします!!」
兵士は顔を真っ青にし、後ろへ後ろへと走り去った。
残されたのは、ただ一人。
ノーサンバランド公は、腕を組んだまま見つめていた。
鋼鉄の鎧が、地面に敷き詰められたような光景。
その上を、旗を掲げた民衆が叫びながら走り回る。
男はそれ以上、前へ進むことはなかった。
⸻
石造りの螺旋階段を、エリザベスは一段ずつ降りていった。
小さな窓から差し込む光は細く、昼だというのに空気は湿り、冷たかった。壁には蜘蛛の巣が張りつき、足音が反響するたび、地下へ潜っていく実感が強まる。
太陽光がほとんど届かない場所へ――彼女は迷いなく足を進めていた。
最下層に近づいたとき、石の扉の向こうに鋼鉄の檻が見えた。
「ロバートッ!!」
声を上げた瞬間、檻の中にいた男がゆっくりと振り向いた。
麻でできた粗末な服。日光の差し込む小窓を、ただ黙って見つめていた瞯。頬、腕、膝――どこを見ても痛々しい痣が残っている。
「ベス……忙しいところ、ありがとう」
檻の鉄格子を掴み、ロバートはエリザベスをまっすぐ見つめた。
エリザベスは一歩近づき、言葉を探すように息を吸う。
「……助けられなくて。ごめん」
そう言って、深く頭を下げた。
「いいんだよ。助けようとしてくれたのも、戦ってくれたのも……ちゃんと、この目で見てた」
ロバートの声は静かだった。
それが、かえってエリザベスの胸を締めつける。
「せっかく……トマスが死んでから、あなたの家はすっかり偉くなったのに……それなのに、逮捕だなんて……」
言葉が震えた瞬間、ロバートは檻の隙間から手を伸ばした。
「……俺は思うんだ」
その声に、エリザベスは顔を上げる。
「お前の姉さん、絶対に狂ってる。ここまで酷い仕打ちをするのも、間違いなくあの人だ。そう遠くない未来……必ず人を殺す」
その言葉に、エリザベスは反射的に髪を掴んだ。
「どんなに私をクソ呼ばわりしても……私のお姉様よ?
お姉様が……人を殺すなんて……思いたくもない……」
ロバートは、その震える言葉を遮るように、エリザベスの手を強く握った。
「姉さんを止められるのは、お前だけだ。
妹だからこそ、あいつのことを一番理解してる」
エリザベスはロバートを見つめ、ゆっくりと息を整えた。
「……分かった、ロバート。
お姉様のこと、注意深く見てみる。怪しいことをしてたら……戦う。
絶対に、あなたを解放する」
そう言って、握られた手を外そうとした、その瞬間――
「待ってくれ!!」
ロバートが強く引き止めた。
「ベス……前にも言ったが……お前は……」
「生き延びろ、でしょ」
先回りするように、エリザベスが答える。
ロバートは一瞬、言葉を失い、視線を落とした。
「……違う」
静かな声だった。
「お前に生き延びてほしいのは……
未来の女王だからじゃない」
エリザベスの口が、わずかに開く。
「え……?」
「ベスが死んだら……俺がどんな思いで生きていくか、想像できないんだ」
一拍、沈黙。
「……ベスが恋しい。
君なしでは……生きられない……」
エリザベスは何も言えなかった。
下を向いたまま、頬が熱くなるのを感じる。
答えを返さないまま、彼女は踵を返した。
一歩、また一歩。
振り返ることなく、ロバートから遠ざかっていく。
逃げるように。
考える暇を与えないように。
ただ、ひたすらに――
どこまでも。
屋敷に戻ったエリザベスは、休むことなく動いた。
自分の姉――メアリーが今、何をしているのか。女王になってから、何を考え、どこへ向かおうとしているのか。
「まずは……会わなきゃ」
そう呟きながら、彼女はこれまでに築いてきた人脈を洗い出した。
宮廷の役人、地方の領主、噂好きの商人、兵士たち。断片的な情報を繋ぎ合わせ、嘘を削ぎ落とし、沈黙の裏を読む。
そして、答えに辿り着く。
――今、メアリーは宮殿にいる。
それを知ったエリザベスは、迷わず馬車に乗り込んだ。
⸻
馬車の揺れに身を預けているうちに、意識が少しずつ沈んでいく。
瞼が重くなり、思考がほどけかけた、その瞬間だった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
――おかしい。
理屈ではなく、直感だった。
「……運転手さん!!止めて!!」
声を上げると、馬車は急ブレーキをかけ、きしむ音を立てて停止した。
エリザベスはゆっくりと扉を開き、地面に足を下ろす。
そこに広がっていたのは――
かつての城下町とは、似ても似つかない光景だった。
灰色に染まった雲。
空気は重く、焦げた匂いが鼻を刺す。
「……え……」
石畳の道には、赤い体液がわずかにこびりついている。
壁はあちこちにひび割れ、木造の建物は黒く変色し、骨組みだけを晒していた。
煉瓦の家屋は白く溶けたような色に変わり、窓ガラスは割れたまま、風に晒されている。
奥を見渡せば、土が剥き出しになり、石はめくれ上がり、街そのものが削られたようだった。
そして――
さらに奥。宮殿の方向。
人、人、人。
群れを成した民衆が、門の前に集まり、ひたすら上へ、上へと押し寄せている。
「これ……どうなってんの……」
呟いたそのときだった。
つん、と腰のあたりを突かれる。
振り返ると、そこにはクルミを頬張った少年が立っていた。
「お姉ちゃん。おかし、持ってたりする?」
「……お菓子?……ないわよ」
「ちっ……だれに聞いてもないって言うんだ」
少年は不機嫌そうに顔をしかめ、何気ない口調で続けた。
「メアリーさまを女王にしたいってなってからだよ。
こんなんになっちゃったのは」
その言葉に、エリザベスは息を呑んだ。
少年の顔を、じっと見つめる。
「……あんたは、メアリー様に女王になってほしい?」
問いかけると、少年は肩をすくめた。
「いや。ぼくは食べものと、おかしにしかきょう味ないからね」
あまりにも軽い答えだった。
エリザベスは震える手で懐に触れ、わずかな硬貨を取り出す。
それを、そっと少年の右手に握らせた。
少年は一瞬だけ目を丸くし、すぐに興味を失ったように走り去っていった。
エリザベスは何も言わず、再び馬車に乗り込む。
扉が閉まり、暗闇に包まれる。
胸の奥で、重たい何かが沈んでいくのを感じながら――
彼女は、宮殿へと向かった。
⸻
宮殿の奥へと続く黄金の廊下を、エリザベスは召使いと並んで歩いていた。
向かう先は、メアリーの部屋。約束していた時刻よりも早いことは分かっていたが、足は止まらなかった。
高く伸びる天井には雲の影が映り、外の空は重く沈んでいる。今にも雨が落ちてきそうな気配が、宮殿全体を包んでいた。
――早く、会って話さなきゃ。
そう思った、その時だった。
廊下の奥に、二つの人影が見えた。
エリザベスは目を凝らし、息を呑む。
「……お……お姉様……!」
メアリーだった。
そして、その隣に立つ男。
初めて見る顔だった。高貴な衣装を身にまとい、くるりと巻かれたカールの髪。面長で、顎が張り出したその顔立ちは、どこか威圧的でもあった。
メアリーは、その男と親しげに笑い、腕に手を絡めている。
――あんな表情をするメアリーを、エリザベスは二十数年生きてきて一度も見たことがなかった。
楽しげに笑う姉。
幸福そのもののような顔。
やがてメアリーがこちらに気づき、声を上げた。
「あ、ベスぅ! 早かったわね!」
その一言だけで、胸の奥に違和感が走る。
そして同時に、隣の面長との関係性を察してしまった。
二人は並んで歩み寄ってくる。
「もしかして……君が妹の……!」
面長男が声をかけ、軽く頭を下げた。
「はい。私が女王陛下の妹、エリザベスです」
「ああ! そうかそうか!」
面長は朗らかに笑い、「俺はフェリペ。情熱の国から来た」と名乗った。
差し出された左手に、エリザベスも左手を伸ばす。
その瞬間、強く引き寄せられ、抱きしめられた。
突然の距離感に、思わず息が詰まる。
メアリーが、その様子を見て口を開いた。
「……ベス。色々黙ってた私も悪いんだけど……ちょっとあなたに言いたいことがあるの」
「メアリー。まだ決まってないことだ。こういうのは決まってから言うべきだよ」
「……どういうことなんです?」
エリザベスが問いかけると、メアリーが話をする
「実はね。彼の父は王で、数年後には彼に王位が回ってくる約束があるの。それで色々あって、私と知り合ったんですよねえ」
エリザベスは、ゆっくりと理解した。
あの時、姉がもじもじと悩んでいた理由。その裏に、これがあったのだ。
「……何となく分かりましたけど……もう、そういう段階なんですか?」
そう尋ねると、メアリーは聞いたことのない甘い口調でフェリペを見上げた。
「もうこの際だから言っちゃいましょうよ、フェリペさん」
フェリペが渋い顔をしながら、諦めた手振りを示す
「うん。その予定よ。私、フェリペさんに決めたの」
エリザベスは心の中で、思考が一気に雪崩れ込むのを感じていた。
(――まず、どう見ても不細工な男が自分の姉と結婚するという事実はさておき
周辺諸国の緊張、内政の不安定さ、宗教問題。
それらが絡み合う今この瞬間に、なぜこの男なのか。
情熱の国。
幾つもの国と土地を支配する強国。
政治的に利用されている可能性は?
それとも――利用しているのは姉の方?
父はそうで不細工は違うかもしれないけど
なぜ、疑わない?
なぜ、そんなにも無防備なの?
お姉様……あなたは、世界を甘く見すぎてる)
「……いいと思いますよ。お姉様」
「ベスも了承してくれたわ、フェリペさん」
「あははは……」
フェリペは顎を強張らせたまま、曖昧に笑った。
その直後、メアリーが手をパン、と打った。
「ねえ、ベス。あなたに話があるの。フェリペさん、ごめんなさい。席を外すわね」
二人は廊下の端へと離れる。
すると、メアリーは声を落とし、野太く掠れた声で囁いた。
「……あんた。分かってるわよね?」
「負け犬の小便みたいな記憶力でも覚えていられるように念お手にマーキングしてあげる」
エリザベスの耳元で、呪うように。
「私の邪魔をしないで」
振り返ると、メアリーは不気味な笑みを浮かべていた。
その笑顔に、背筋が凍る。
「で? 呪われ子。話って何よ?」
何事もなかったかのように、普段の口調に戻る。
「……お姉様は、フェリペさんのこと……好きなんですか?」
返ってきた答えは、予想外だった。
「え? 大好きよ。政略結婚だと思ってる? まあ、それもあるけど。私が選んだの。何人蹴ったと思ってるのよ」
その言葉に、エリザベスは驚く。
不細工と結婚する事実には気を引いたが、
誠実な結婚の意思が、確かにそこにはあった。
だが同時に――
どこか、先が見えていないような、不安定さも感じた。
「話って、それで終わり?」
「……実は。ただ、お姉様の様子を見に来ただけです」
「は? こっちは痴話話で忙しいんだよ。二度と顔見せんな」
メアリーはエリザベスの肩を軽く叩き、振り返ると大声で叫んだ。
「フェリペさん♡ ベスとの話、終わりましたよ!!
二人でお茶でもしましょうわん♡」
小走りでフェリペのもとへ戻り、その腕にしっかりとしがみつく。フェリペの顔はどこか苦笑いをしている。
エリザベスは、その背中を見つめたまま立ち尽くした。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
――少なくとも、表向きには怪しいことはしていない。
そう自分に言い聞かせながら、胸に残る不安だけを抱えて、その場を後にした。
⸻
街の屋敷。
エリザベスは庭に立ったまま、考え続けていた。
視線の先には、古い的がある。
八年前――ウィリアムと魔法を打ち合った場所。
そのとき自分で設置した的は、今もそのまま残っていた。
右手を上げる。
火炎弾。
空気を切り裂き、的に命中する。
間髪入れずに氷柱。
次いで稲妻線。
最後に岩弾。
四つの属性が、交互に、途切れることなく放たれる。
的の中心は既に原形を失っているが、エリザベスは止めない。
次の瞬間、魔法球を放つ動作の途中で身体を回転させた。
同時に剣を引き抜く。
「……水:氷の軌道」
勢いよく、下から剣を振り上げる。
剣が空気を裂き、その抵抗に乗って白い粉が空中に散った。
粉は即座に結晶化し、宙に固定される。
曲線を描く氷の軌道。
人工物のようでいて、どこか歪な造形。
「……はあ」
小さく息を吐く。
「……お姉様を……」
言葉が止まる。
「……お姉様が……あの不細工に騙されてるなんて……」
剣を握る手に、わずかな力がこもる。
「……そんなわけない」
一拍。
「……いや……お姉様が、騙してる……?」
自分の思考に、自分で苛立つ。
「……あああ、分からない!!!」
叫びと同時に、剣を振る。
右へ。
左へ。
突き。
払い。
剣の動きに合わせ、白い粉が散り、氷像が次々と生成される。
未完成の像は、次の斬撃で砕かれ、また別の形へと変わる。
庭には、氷の破片だけが増えていった。
やがて、動きが止まる。
エリザベスは剣を下ろし、的を見た。
もう狙う場所は残っていない。
⸻
石に囲まれた場所だった。
壁は分厚く、灯りは二つか三つ。
日光が差し込むのは、手のひらほどの窓が二箇所だけ。空気は動かない。
そこに、ジェーンはいた。
この世界において、彼女は比較的自由な身だった。
檻に入れられることもなく、塔の中であれば移動も許されている。
ただし、常に誰かの視線があった。
ジェーンは、看守が置いていった黄色く温かい汁を口に運んでいた。
味はしない。ただ、喉を通る。
背後で足音が止まる。
「そろそろ時間です。行きますよ」
「……はい」
ジェーンは器を置き、看守の前に両手を差し出した。
縄が巻かれ、動かぬよう固定される。
抵抗はしなかった。
通された先で、司教が待っていた。
「あなたは……ここで大きな罪を背負いました」
淡々とした声。
「これからは、あちらでもその罪を償うよう努めてください……」
ジェーンは聞いていなかった。
言葉を頭に詰め込む必要がなかった。
自分が罪を背負ったという自覚が、どこにもなかったからだ。
ジェーンはただ、司教の言葉を無言で拒み続けた。
「……では。これからの御命運を、お祈り申し上げます」
司教は額から胸へと手を下ろし、反対の手で本を閉じた。
看守に引かれ、ジェーンは歩き出す。
彼女はそれに従った。
次の部屋には、窓がなかった。
代わりに、壁には燭台が並び、部屋を照らしている。
湿り気を含んだ空気。重たい圧迫感。
ジェーンは理解していた。
ここが終末であることを。
部屋の中央に辿り着くと、彼女は自ら台の上に上がった。
看守に縄を解かせ、四つん這いになる。
逃げない。
ただ、来るものを待つ。
看守が一歩下がったとき、男が姿を現した。
腰に剣を帯びた男。
殺すことを専門とし、それが許されている存在。
男は無言で剣を抜き、ジェーンの首筋に刃を置いた。
ジェーンは、石の隙間を凝視する。
「最後に……言いたいことはあるか?」
「……」
答えはない。
次の瞬間だった。
カラン、と音がして、剣が床に落ちた。
首に触れていた感触が消える。
ジェーンが左を見ると、看守が倒れていた。
男も同じように崩れている。
血は出ていない。
そのままの姿勢で、ジェーンはゆっくりと顔を上げた。
目の前にあったのは、黒曜石のように黒く、錆鉄のように紅い鎌。
刃が、彼女の首に添えられている。
さらに視線を上げる。
触手。
翼。
間違いない。
あの化け物だった。
化け物は何も言わず、ひざまずくジェーンを見下ろしている。
ジェーンは、ようやく口を開いた。
「ねえ……化け物」
声は震えていない。
「ここにいながら……あなたのこと、ずっと考えていたの……」
大きく息を吸い、再び石の隙間を見る。
「……あなた……メアリーでしょ?」
言い切った。
「女王であるあなたが……私を、直接手に掛けるわけね」
黒く塗り潰された面から、低いうめき声が漏れた。
悪魔のような音。
「貴様の分際で、朕に語りかけるな」
声が、空間を押し潰す。
「その口、引き剥がすぞ」
ジェーンは、首を差し出すように俯いた。
そして、胸元へ手を伸ばす。
輝くものを掴み、勢いよく突き出した。
刃が、化け物の胴に突き立つ。
「あなたを殺してやるっ!!!」
叫ぶ。
「絶対に……殺してやるっ!!!」
刃を押し込む。
だが、手応えはない。
どんどん、どんどんと、刃は吸い込まれていく。
やがて、ジェーンの手ごと、消えた。
「……う……うそでしょ……」
声が崩れる。
震えが走る。
殺意も、覚悟も、そこで失われた。
ジェーンが仮定していたメアリーは、人間だった。
だが、目の前の存在は、生物ですらない。
――何でもない。
ジェーンは人差し指を向ける。
指先が輝き、周囲に火花が散る。
その瞬間、化け物はすべての触手を前へ突き出した。
部屋が、真っ白な光に包まれる。
ピカッ...
光が引いたとき、薄暗い部屋が戻っていた。
そこにいたのは、ジェーンと、看守と、男。
ただし。
ジェーンだけが、違っていた。
頭と体は分離し、
石の隙間に、べったりと張り付いている。
そこには紅い水たまりが、床に広がっていた。




