第十四話 嫌がらせ
第十四話 嫌がらせ
「はっ……はっ……!」
エリザベスは宮殿の廊下を駆けていた。肺が焼けるように熱く、視界の端が白く滲む。それでも足は止めない。
「くっ……疾風走!」
床を強く蹴り上げた瞬間、風が全身を包み込んだ。空気を裂く感触とともに視界が一気に流れ、次の一歩は常識を超えた距離を稼ぐ。連続する大跳躍。迫った扉は人の手を待たず、風圧に押されるようにして自ら開いた。
飛び込んだ先は、大広間だった。
「民衆を見てみろっ! 皆がメアリー様を支持している!!」
「誰もジェーンなんて知らない! そんな奴の話、誰が聞くんだ!」
「ジェーンを下ろせ! 闇を暴いてやる!」
怒号が壁を震わせていた。戴冠式から一日も経たぬというのに、役人と貴族たちの勢いは衰えるどころか、燃え広がっている。街ではメアリー支持の旗が翻り、人々は門へと押し寄せ、宮殿の中へと迫っているという。
ジェーンが支配する国への信用は、すでに跡形もなかった。
その混乱の中でも、必死に声を張り上げる者たちがいる。
「メアリー様が即位したら国教会が終わるぞ!」
「今さらユニバックに戻すわけにはいかないだろ!」
「これは血筋の問題じゃない、政治の話をしているんだ!」
彼らはジェーンを守ろうとしているのではない。
ただ、メアリーが女王になってはいけない理由を叫んでいるだけだった。
エリザベスは広間を見渡し――凍りついた。
派閥同士が正面から衝突している。その渦の中に、見覚えのある背中があった。
「……ロ、ロバート!!」
人の波に紛れ、必死に耐えている姿。
そのときだった。
コン、コン、と杖が床を打つ音が響いた。
「静粛に」
誰も聞かない。
「――静粛にッ!!」
一瞬で空気が凍りついた。
高所に姿を現したのは、かつてエドワードを支えた摂政だった。
「主文。本日付をもってジェーン陛下を廃位する。並びに、新たにメアリー一世を即位させる。以上」
言葉が落ちた瞬間――世界が壊れた。
「ふざけるなあ!!」
「もう終わりだあああ!!」
「ユニバックの支配が始まるぞおお!!」
ジェーン派が一斉にメアリー派へ雪崩れ込む。
溶岩の腕が振り下ろされ、高圧の水が人を吹き飛ばし、嵐が渦を巻き、稲光が空間を焼いた。壁が崩れ、床が割れ、怒号と悲鳴が混ざり合う。
「……っ……ロバート!!」
エリザベスは迷わず駆け出した。
炎を纏った回し蹴りを、地面すれすれのスライディングでかわす。
音速の衝撃波を、前方宙返りでやり過ごす。
地面から突き出す岩石の針を、飛蝗の機動で空を蹴り上げて突破する。
「ロバートッ!!!」
見下ろした先に、いた。
だがロバートは兵士に取り押さえられている。
「いた……!!」
両手から水を噴射し、体を反転。
「水:襟巻石竜子!!」
足裏に薄い水面が生まれ、エリザベスは人々の頭上を一直線に駆けた。
「ロバートッ!!」
「……!! ベスッ!!」
「今、助けに行く!!」
稲妻を纏った拳が下から突き上がる。
エリザベスは御影石のような黒い岩を生成し、男の顔面へ叩き落とした。
ドガンッ!!
倒れた男を踏み台にし、距離を詰める。
「疾風走!!」
急加速。そのままロバートへ――
だが。
死角にいた兵士が、槍を振るった。
「基礎魔法:火 熱波旗」
バッボワッ!!
円弧を描く炎が振り下ろされ、エリザベスの体を叩きつける。床に激突し、焼けるような熱が全身を貫いた。
「ベスッ!!……エリザベスッ!!」
ロバートの叫びが遠くで響く。
だがエリザベスは答えない。
うつ伏せのまま、床に伏し、額から汗を流しながら――動けずにいた。
⸻
「女王陛下。宮廷では、陛下を支持する派閥と、ジェーン様を支持する派閥の間で暴動が起こっております」
報告の声が静かな城内に響いた。
そこは宮廷とは異なる、地方を統治するための城。外は緑に囲まれ、石壁の向こうには長閑な風景が広がっている。しかし一歩中に入れば、金と宝飾で彩られた、王のための煌びやかな空間だった。
女王と、わずかな側近たちは、今この城に身を潜めていた。
「ねえ……あのクソ女について回ってる駒犬は、誰なのよ?」
苛立ちを隠そうともしない声。
側近の一人が一歩前に出る。
「もちろん、把握しております。こちらです」
彼が服の内側から紙を取り出した瞬間、女王はその手元に視線をやり、人差し指でふいっと紙を弾くようにして、自らの手のひらへと移した。
上から順に、淡々と目を走らせる。
そして、その中にある名を見つけた瞬間、彼女の表情が凍りついた。
⸻ Robert Dudley
紙を握る指に、力がこもる。
「……どいつもこいつも、イケすかないやつだわ」
低く、静かな声。
だが、そこに込められた怒りは明白だった。
「牢屋にぶち込んで頂戴っ!」
「承知しました! メアリー女王陛下!!」
側近たちは一斉に踵を返し、駆け足でその場を去っていく。
残された女王は、静かに右手の皮膚をつねりながら、窓の外に広がる緑を眺めた。
「ふふっ……どうやって痛みつければ、怒るかしらね……」
その笑みは、あまりにも冷たかった。
⸻
「……うっ……ロバート……」
薄暗い意識の底から、エリザベスはゆっくりと目を開いた。
見上げたのは、木で組まれた天井。
視線を左右に動かす。
「ベス!! 目を覚まして、よかったわ……!」
涙声とともに、アシュリーが両手でエリザベスの右手を握っていた。
その温もりに、現実へと引き戻される。
……だが、その奥。
杖をつきながら、ゆっくりと近づいてくる影があった。
「……っ、おっさん?」
アシュリーが慌てて振り返る。
「あなた、体調は大丈夫? 痛いところは?」
「ちょっと……頭が痛い、かな……」
答えるエリザベスの前で、男は足を止めた。
ウィリアムだった。
震える手で杖を握りしめながら、低い声で言う。
「小娘。多方面から聞いてるぞ。何頭を打たれて死にかけてるんだっ!」
「ウィリアムさん、座っていてください! 怪我したら危ないですよ……」
アシュリーの制止も、彼の耳には届かない。
「おっさん……私、小娘って……年齢じ——」
「まったく……」
ウィリアムはエリザベスの言葉を遮り、深く息を吐いた。
「お前をチビの頃から鍛えたつもりだが……やはり、時代の先を行く魔法使い相手では、心細いな」
彼は一瞬、目を伏せる。
「ワシが、魔法理論の“哲学”を、もう一度教えよう」
そして、ゆっくりと背を向けた。
「容態が良くなったら、ワシを呼べ!」
杖をつき、一歩、また一歩。
廊下へと歩いていくその背中は、エリザベスが十四の頃に見ていたものよりも、明らかに小さくなっていた。
手足は震え、背はわずかに丸まり、首筋は以前よりも白い筋が枝分かれ状に伸びている。
エリザベスは、その後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
⸻
アンソニーの屋敷、その奥。
本棚に囲まれた静かな部屋で、ウィリアムとエリザベスは向かい合って椅子に座っていた。
部屋の空気には、独特な匂いが漂っている。
ウィリアムが左手で燃やしている、あの草の煙だ。
エリザベスもウィリアム自身も、その匂いが好きではない。
だが、彼は昔からそれをやめなかった。
ウィリアムは咳き込み、喉を押さえながら口を開く。
「……小娘。なぜ、最初の授業で魔法史から説明したか、分かるか?」
「……さあね」
エリザベスは素っ気なく答えた。
「意味がないと思っておるのか。まったくのドアホだ」
ウィリアムは鼻で笑い、煙を吐く。
「では質問を変えよう。ワシは、アホ娘に最初の授業の“初めの初め”になんと言ったか、覚えておるか?」
エリザベスは少し考え、口を開いた。
「覚えてるよ……たしか……
魔法の基本は論理だ。正しく理解しろ……でしょ?」
「正解じゃ」
ウィリアムは小さく頷き、続けた。
「お前が言った言葉は、戦闘魔法の上達には正しい。
だがな……理論を上から下まで覚えても、戦闘で負けることはある」
エリザベスは眉をひそめる。
「必ずしも、理論を理解することと、勝利には因果関係はないのだ」
「……おっさん」
エリザベスは身を乗り出した。
「知識があって、強いやつが負けないのは当たり前じゃん」
ウィリアムは、ゆっくりと首を振った。
「違う」
その声は、低く、重かった。
「戦闘に勝つ上で、最も重要なのは“相手を理解すること”だ」
煙の向こうで、彼の目が細くなる。
「相手の特性。何が得意で、何が苦手か。
何を知っていて、何を知らないか。
戦いの中で相手を知る」
ウィリアムは一拍置き、言い切った。
「そして、相手を知った上で“嫌がること”をすれば勝ちだ。
それが、戦闘だ」
エリザベスは首を傾げる。
「……おっさん。昔から話、難しくてわかんねーよ」
次の瞬間。
「バカもん!!」
ウィリアムの声が部屋に響いた。
「帰ってから、頭を冷やして考えろ!!」
彼はエリザベスを睨みつけた。
しかし、その右手は、ずっと震えていた。
⸻
エリザベスが去った後の部屋。
彼女が座っていた椅子には、代わりにアシュリーが腰を下ろしていた。
煙の匂いに、わずかに顔をしかめながらも、彼女はウィリアムを真っ直ぐ見つめる。
「ウィリアムさん……あの子には、魔法の才能がありますか?」
「ある」
即答だった。
「もちろんとも。ワシは最強の魔法使いにしか、興味がない」
アシュリーは一瞬、言葉を選び、問いを重ねる。
「では……どうして、あの子にあんなに冷たく当たるのですか?」
ウィリアムは、ふっと笑った。
「ほっほっほっ……」
その笑い声は、どこか懐かしい。
「それはな。ワシがあの子と面と向かって戦い、彼女を理解しようと試行錯誤した結果じゃ」
ウィリアムは、静かに続ける。
「彼女が一番上達するのは、
“嫌がること”をされた時だと分かった」
アシュリーは、その言葉を聞き、ほっと息を吐いた。
「ウィリアムさん……あなたを教師としてお招きして、正解でした。
流石、十年に一度と呼ばれた天才魔法使い……」
「ほっほっほっ」
ウィリアムは照れたように笑う。
「ワシはな、あの子に魔法だけでなく、“基礎”と呼ばれるものは全て教えた」
震える右手を差し出し、アシュリーと握手を交わす。
「ワシは、その役目を全うしたまでじゃ」
二人の手が、静かに重なった。




