第22話 大乱戦
ざわめきがまだ収まらない陪審席をふと見ると、いつの間にかチェシャ猫と漱石、それから漱石の飼い猫がちゃっかり腰を下ろしていた。
チェシャ猫は口元だけを浮かばせ、にやにや笑う。
「身分を守れと叫んでた青虫が、自分の立場を装飾し尽くす。──ナンセンスの国では、筋を通すほうがかえって異常なんだよ。」
漱石は腕を組み、静かにうなずく。
「日本も同じだな。身分を否定したように見えて、実際は別の序列を作ってしまう。不思議の国と人間社会──そう違わんのかもしれない。」
膝の上の猫が尾をゆるく振り、のんびりと言った。
「結局、人間はどんな社会でも、上と下を作りたがる。我々猫のほうが、よほど自由である。……もっとも、よく餌をくれる奴に対しては別だがね。」
真理は思わず吹き出しそうになり、必死にこらえながら呟いた。
「……観客までが風刺を言い出すなんて。この裁判、どこまでナンセンスなの。」
そのとき――。
翼の風圧が書類を巻き上げ、法廷に砂塵の渦が立った。
獅子の胴に大翼を持つグリフォンが、堂々と中央へ降り立つ。
「静まれい!」
グリフォンは胸を反らせ、天蓋を震わせる声で吠える。
「我こそは、永遠の権威を体現する者! この娘らの罪は、女王に反論した罪だ! 異議は認めぬ、理屈は要らぬ! 権威に従う――それが世界の掟なのだ!!」
「な、なんなのこの理不尽……!?」
真理が息を呑む。
その時、得意絶頂の幻獣の背後に影がすっと立った。
南蛮具足の甲冑、きらめく陣羽織。
織田信長が、刀の柄を軽く指で叩きながら一歩進む。
「権威は敬うもんだて。」
低く、よく通る声が砂地に落ちる。
「だけどな――筋の通らん権威は、ただの虚妄だがや。全く懲りん化け物だわ。」
白刃が音もなく抜かれ、ひらりと一閃。
シュッ――。
再び刃先がグリフォンの鼻先を紙一重でかすめる。
「ひぃぃ! 永遠の権威は無敵のはず……なのに……!!」
グリフォンは情けない悲鳴を上げ、翼をばたつかせて空へ逃げ去った。
砂塵だけが、しばらく円を描いて残る。
信長は刀を納め、鼻で笑う。
「源頼政公の鵺退治にならおう思たがやに、惜しいもんだて!」
その名古屋弁に、アリスが目を丸くし、ホームズは口元だけで小さく笑った。
女王は面目を失って扇をきしませ、ハートの王様は長いひげを撫でながら「ふむ」とだけつぶやく。
法廷は、ぴんと張り詰めた沈黙へ戻っていった。
傍聴席の隅――金継ぎも追いつかぬほどひび割れたハンプティ・ダンプティが、ガタガタと殻を寄せ集めながら偉そうに咳払いした。
「こほん! 権威とは、わたしが『そうだ』と言えば『そう』になる力のこと! 上とは命ずる者、下とは従う者! 以上!!」
隣で脚を組んでいた福沢諭吉が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「うむ、それは権威ではなく、ただの癇癪である。」
彼は立ち上がり、法廷全体に響くよう落ち着いて続けた。
「権威とは、武断の威でも、札の顔でもない。
公共の益を担う責任と、手続きに則る正当と、その結果として人々が自ら払う敬意の総名だ。
言い換えれば――行いが先、名は後。
名ばかりの権威は、中身もなく膨らむだけの紙風船と変わらぬ。」
「な、なにぃ! 名とは先に決めた者の勝ち――」
ハンプティが言い募るより早く、天井近くで奇声が爆ぜた。
「Frabjous! Callooh! Callay!!」
ふわふわ漂うジャバウォックが梁の間をくるくる回り、羽音とも鳴き声ともつかぬ震動が書類を吹き散らす。
「なんだ、これは!!」
岡本太郎が身を乗り出して吠える。
トランプ兵たちは「ナイフを伏せ! いや剣を抜け! いや帽子を押さえろ!」と右往左往。
塗りたての赤い薔薇の雫まで空に舞い上がった。
真理は目を白黒させたまま、くるりと周囲を確認する。
「えっ、えっ、えっ……!」
アリスは手をパンと打ち鳴らして大喜びだ。
「見て! 最高にナンセンスよ!」
ホームズはただ無言でパイプをくゆらせ、視線だけで天井の怪物の軌道をすばやく計測している。
玉座の脇ではハートの王様が相変わらず舟をこぎ、背後にはマイクロフトが毅然と立って、乱流の中心から一歩も動かず事態を監視していた。
女王の扇がきしみ、こめかみの紅がさらに濃くなる。
「騒ぐな! 静まれ! ――首を、はね……」
言い切る前に、ハンプティが最後の悪あがき。
「権威とは、首をはねよと言えば――」
福沢諭吉がすっと片手を上げ、静かに遮った。
「議論のない命令は、ただの怒号。空虚な騒音は長くは続かぬ。続くのは、実のある約束と責務である。」
その言葉が落ちると同時に、ジャバウォックの影がふっと薄くなり、怪物は風船のように天井近くでふわりと漂うだけになった。
トランプ兵のざわめきも、少しずつ呼吸を取り戻す。
女王の苛立ちはなお募る。
扇の先が床を叩くたび、赤い薔薇がびくりと震えた。
チェシャ猫の口元だけが、にやりと浮かぶ。
「ね、言ったろ? 筋を通すほうが異常に見える国だって。」
漱石は小さくうなずく。
膝の吾輩が尻尾で合図を打ち、のんびりと一言。
「ま、権威なんて食えないもの、後生大事にするのが人間らしい。」
そして、上空ではまだ、意味のない言葉が小さくはじけた。
「Snicker… snack…」




