第053話 兄貴、俺はここで選ぶ
即位翌朝、俺は自分の部屋で目を覚ました。
机の上には、小さな札がある。
神酒聖夜。
名前だけ。
王配衣装はない。
候補認定の飾りもない。
普段着のままだ。
昨日の儀礼が夢ではなかったことは、机に積まれた薄い書類で分かった。
黒月王配候補の説明資料。
異議申立て手続き。
監視記録の閲覧範囲。
生活の一部として、面倒な紙が増えている。
窓の外では、黒月街が動き始めていた。
祝祭ではない。
市場の声。
修復作業の槌の音。
役所の扉が開く音。
誰かが水を運ぶ足音。
新しい日というのは、もっと地味で、もっとしつこいものらしい。
食堂へ行くと、みんなもう動いていた。
ユリアは最初の執務へ向かうところだった。
黒と銀の服のまま、書類を抱えている。
美羽は報告手順を整え、どの記録を誰へ回すかを書き出していた。
ここなは市民質問会の予定を確認し、怖いと言える席をどう作るか使用人と相談している。
ラヴィニアは弔い歌の記録を保存し、即位旋律と混ざらないよう別の紙へ分けていた。
イリヤーナは交代警備から戻ってきた。
目の下に疲れはあるが、今日はちゃんと休むと言った。
ヴェルナは食卓に座っている。
食べないのに、そこにいる。
それだけでも、もう少し見慣れた風景になっていた。
クローナが食堂へ入ってきたのは、その時だった。
「深層門監視室から異常報告」
全員の動きが止まる。
「白金波形と黒月経路が、これまでにない精度で重なっている」
俺の胸が跳ねた。
けれど、一人で走り出すことはなかった。
ユリアは書類を置く。
「緊急記録確認として同行する。執務は中断ではなく、記録確認へ移す」
彼女は王としての仕事を捨てて来るのではない。
仕事として、俺たちと来る。
それが少し頼もしかった。
監視室へ向かう。
俺一人ではない。
ユリア、美羽、ここな、ラヴィニア、イリヤーナ、ヴェルナ、クローナ。
全員で行く。
ヴェルナが記録板を開いた。
「昨日残した受動標識へ、外部から似た記録標識が重なった可能性があります」
「返事か」
俺が聞くと、彼女は首を横に振る。
「断定できません。自然反応の可能性もあります。数秒後に接続は閉じます」
監視室の中央に、白金の光景が開いた。
広い空。
白い翼状地形。
水面の反射。
七環の影。
光の中に立つ人物の輪郭。
顔は見えない。
名前もない。
声も届かない。
でも、そこにいる。
そう思ってしまうくらいには、強い輪郭だった。
黒月経路側には、俺たちの影が映っている。
向こうから見えているかは分からない。
ただ、白金と黒月が同じ瞬間に揺れていた。
画面の端に、紫黒い線が開きかける。
観測者のコメント欄みたいなものだ。
「閉じます」
ヴェルナが即座に言った。
コメント回線だけが潰れる。
接続そのものは残った。
「これは娯楽ではありません。双方の記録です」
エンプティ・リンクが強く反応する。
ユリアとの契約線。
美羽、ここな、ラヴィニア、イリヤーナとの柱。
ヴェルナの灰色の記録光。
クローナが持つ王家立会記録。
全部が、俺を今いる場所へつなぎ止めていた。
それでも、分かった。
一歩踏み出せば、接続が開くかもしれない。
向こうへ届くかもしれない。
あの輪郭へ。
兄貴かもしれない誰かへ。
でも同時に、深層門の傷が広がる。
黒月街へ、ユリアへ、みんなへ、何が流れ込むか分からない。
俺は踏み出さなかった。
諦めたわけじゃない。
会いたくないわけでもない。
自分の責任を捨てて会う形を、今は選ばない。
ユリアが隣へ立った。
引き止める命令は出さない。
ただ、俺が自分で止まったことを見ている。
美羽が静かに言った。
「いつか帰る道が開くなら、その時は全員で条件を確認しましょう」
「今ここにいる選択とは、矛盾しません」
ここなが続ける。
「今選んだことは、未来を縛る契約じゃないよ。今、逃げずに選んだってこと」
ラヴィニアが白金の揺れを見上げる。
「届く保証のない言葉でも、歌や声は残ります」
イリヤーナが影を収めたまま言う。
「私は命令ではなく、自分の意思でここにいます」
ヴェルナが俺を見る。
「記録標識へ、言葉を残しますか」
「届くのか」
「音声としては届きません。選択の波形だけが残る可能性があります」
クローナが一歩前へ出た。
「王家記録として許可する。ただし、聖夜殿個人の言葉として残す。魔国からの宣戦でも、外交通信でもない」
俺は全員を見た。
ユリアは王として立つことを選んだ。
美羽は現実への思いを捨てず、ここで支えることを選んだ。
ここなは本音を拾う場所を選んだ。
ラヴィニアは歌を支配ではなく橋にすることを選んだ。
イリヤーナは越えない境界を選んだ。
ヴェルナは観測端末へ戻らず、ここにいることを選んだ。
クローナは怒りではなく、制度で守ることを選んだ。
俺は何を選ぶ。
王配ではない。
永住を誓っていない。
兄貴の生存も確認できていない。
エンプティ・リンクの危険も残っている。
それでも、今どこで誰と責任を引き受けるかは選べる。
白金の人物影が、わずかに動いた。
俺を見たのかは分からない。
声は届かない。
返答として確定しない。
接続が閉じ始める。
ヴェルナが記録を開始した。
観測価値ではなく、本人の選択として。
俺は白金の光へ向かって言った。
届く保証はない。
救助を求めるわけでもない。
兄貴に俺を選んでくれと言うわけでもない。
ただ、俺の現在地だけを告げる。
黒月と白金の光が分かれていく。
道は消えない。
細い記録痕として残る。
監視室の扉が開くと、黒月街の朝の音が戻ってきた。
市場の声。
修復の音。
ユリアを待つ書類。
壮大な勝利ではない。
選んだ場所で、生活が始まる音だった。
兄貴。俺は、ここで選ぶ
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