第83歯 完璧より、自分なりのヒーローであれ
美しい光景だった。
維千の長い袖丈が凍り、刃となる。彼は襲いかかる怪物の手足を袖で断ちつつ、怪物の前方から間合いを詰めていく。
怪物の背後で、イルカが番傘を前へと振る。
大波が生まれ、うねりを増しながら怪物を呑み込もうと広がっていく。
『ガアアアア!』
怪物は背中に生えた無数の手を一斉に伸ばした。
掌に裂けた口が波に食らいつき、水を、力を、貪欲に呑み干していく。
『ゲップ』
水を腹に満たした怪物は、得意げに口元を歪めた。
たぷん、と波打つその身体へ――
音もなく、維千が舞い降りる。
「あなたは……愛されようとする前に、自分を愛するべきでした」
心がないと囁かれてきたその瞳に、一瞬だけ虚ろな色が宿る。その眼差しは、冬空のように高く、どこまでも澄んでいた。
維千は、そっと怪物に触れる。
「また、お会いしましょう」
夜の静寂に、甘い声が溶けていく。それは彼らしからぬほど穏やかで、まるで子守唄のようだった。
次の瞬間、維千の眼に力が籠もる。怪物の肥えた体内で水が凍りついた。無数の氷の針が内側から肉を貫き、破壊の音もなく、確実に命を裂く。
『アガアアアア!』
「サラくん!」
浦島は居ても立ってもいられなかった。
ウニのように逆立った怪物の身体をよじ登り、絡みつく腕を必死にかき分ける。
「浦島くん。邪魔です。退きなさい」
「嫌っす!」
必死の形相で見上げる浦島を、維千が涼しげに見つめ返す。
維千はわかりやすく、社交辞令の考える素振りをする。
「そうですか……」
そして、すぐさま刀を抜いた。
「残念です」
「いやっ?!そこは抜いちゃダメっしょ?!」
維千に冗談はない。浦島はサッと青ざめた。
「手加減?何故?」
維千に理解できるはずもなく、彼は不思議そうに首を傾げた。
「あなたの選択を尊重したまでです」
その様子が5番目と重なる。
浦島はどんびきしたが、イルカは堪えきれずクスクスと笑った。
「維千。強みのない人間はいないのでしょう?」
イルカの言葉に、維千がわずかに眉間を寄せる。
「僕はサラを信じています。維千も浦島くんを」
「信じる……ですか」
浦島の身体に化け物の腕が絡みつく。
引っ掻かれ、白い腕に血が滲む。
それでも目線を前に向けたままの浦島に、維千はふっと体の力を抜いた。
「……見つけたっす」
涙のように光るサラのピアス。
だが、その手に力はなく、瞳は朦朧としていた。
触れた身体は冷たい。
雷の熱も、内側で荒れ狂っていたはずの魔力も、深い水底へ沈んでしまったかのようだった。
「……サラくん……聞こえるっすか」
耳元で囁く。返事はない。ただ、指先がわずかに震えた。
……生きている。
それだけで胸が詰まった。しかし同時に、背後から軋むような音が響く。
『……ガ……ァ……』
氷の針に貫かれた怪物が、なおも蠢いていた。
体内で凍りついた水が砕け、黒い肉塊が砂のように崩れ落ちる。
だが、それらは再び形を成し、無数の小さな怪物として生まれ変わる。
「こいつら。サラくんを“核”にしてやがるっす」
魔力源を手放すまいと、それらはサラに群がった。
「しつこいっすね……幸せってのは」
浦島はサラを抱き寄せ、這い上がる怪物を手で振り払う。
「……失う覚悟がないと、掴めないもんでしょ!」
愛に飢えた怪物たちは、乾いた音を立てながら這い回り、この優しい少年に縋りついて離れない。
「……もう、いい……」
消え入りそうな声。
悲しいほどに優しく細められた目。
微かな震えが、浦島に伝わる。
「怯えているんすか?」
「……」
サラの睫毛が微かに揺れる。
浦島はその孤独を映す目が、痛いほどに嫌いだった。
「……怖い……のかも」
「君が諦めたら、俺たちはどうしたらいいんすか」
歯を食いしばる。
平凡な自分には、サラのように、自分を犠牲にして誰かを救う選択肢はない。
誰かを犠牲にする覚悟もない。
「マジでカッコ悪りぃ」
それでも。傍観者にはなりたくない。
自分はこの孤独なヒーローを救う。それが、無力な自分なりの――ヒーローだ。
「サラくんを助けて、世界が壊れたって……俺たちは縋るしかできないんすから」
浦島の悲痛な声が、サラに重くのしかかる。
「俺は…病気になったから、強くなってしまった。生きて世界を背負う強さは……ない」
「——ッ!」
浦島が言葉を呑む。彼はサラを強く抱きしめ、徐に立ち上がった。その勢いに、群がる怪物が跳ね飛ばされる。
浦島の早い鼓動が、サラの鼓膜を急かすように揺らした。
「……助けて…くれるの?」
世界から拒絶されながら、世界を背負わされた少年の絞り出すような声。
朝日のような赤目が浦島を見上げる。
「自分は、自分にできることをしているだけっすから」
浦島の頬が赤くなる。
少し離れた場所で、維千は刀に手をかけたまま動かない。
天色の瞳が、怪物でも、浦島でもなく——サラを見つめている。
呼吸が一拍遅れる。
「……結んだ縁に」
維千が口を開く。
独り言のような声が、夜に溶けた。
「責任を……持つ……ですか」
無数の怪物たちが一斉に嘶く。小さな叫びが重なり、満たされない飢えを嘆く。
浦島はサラを左腕に抱いたまま、深く息を吸う。
「サラくん……絶対、連れて帰るっす」
その声が暗闇を切り裂くように響き、浦島は無意識に右手で鎖金棒を回すと、低い唸り声をあげた。
金属が滑る音が、重く響く。
サラの頬に一筋の赤い雫が落ち、それは彼の皮膚を涙のように、静かに伝った。
まるで、彼の命の灯がその一滴に集約されているかのようだった。
浦島の腕は、這い寄る怪物たちに咬まれ、痛みが肉体を貫く。それらは無数の群蟻のように、次々と彼の魔力を貪り始めた。
魔力が、音もなく吸い取られ、浦島の身体がその重圧に抗うように軋む。
「俺に…力さえあれば…ちっくしょう…」
浦島の声が覇気を失っていく。
サラに伝わる鼓動が、徐々に弱くなっていく。
魔力で満ちた怪物の身体が、翠色に輝き始める。
幻想的な光景は、ただの戦闘の場面を超え、まるで現実と虚構の境界を崩してしまったかのようだった。
「世界なんか……知るものか」
サラの顔に浮かぶ苦しみと決意は、まるでその言葉だけで空気を重くした。
「助けたい人がいるんだ。抱きしめたい人がいるんだ。俺は……まだ生きたい」
サラの声が震える。
命を燃やすような赤目が、一点を見つめる。
浦島は胸を締め付けた。
サラは浦島の服を握りしめ、奥歯を噛み締めた。
「こんなもの、いくらでもくれてやる!」
その言葉が、雷鳴のように夜を切り裂いた。
サラの身体が限界を超えて、魔力を絞り出す。
その力が暴走し、あたりの空気を震わせ、破裂音のようなものが響く。
「サラ!」
イルカの制止もサラには届かない。
怪物たちはその魔力に呑み込まれるように、次々に弾けて消えた。
「……サラ……くん?」
ふいに訪れた静寂に、浦島の不安が広がる。
怪物はドロドロに溶け、わずかに生き残った個体でさえ動けずにいる。
その中心で、サラは浦島の胸に顔を埋めたまま、微動だにしない。
「行かないで…」
イルカの手から番傘が落ちる。
乾いた音。
何かが、確かに壊れた音がした。




