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昭和奇譚 まことの話  作者: まろ悦
夜の問診
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第二話 夜の問診

千代の問診を夜に移したのは、着任してひと月ほど経った頃である。院長には、虚言症の患者は日が落ちてからの方が作話が濃くなり、その構造を観察するのに都合がよい、と説明した。それは医学的にまったくの出鱈目というわけでもなかったが、本当の理由が別にあったことは、今となっては隠しようもない。


夜の病棟は静かであった。廊下の電灯は半分消され、千代の部屋には卓上の小さな電気スタンドがひとつ点っているだけで、その黄色い光の輪の中に、彼女の白い手と、私の帳面とが並んでいた。


千代は、世間で言う美人というのとは少し違っていた。背は女にしては高く、痩せていて、肩の線が薄い。目は切れ長だがやや離れ気味で、そのせいか顔全体がどこか茫洋として見える。鼻は小さく、唇は薄い。左の耳朶(みみたぶ)の付け根に、胡麻粒ほどの黒子(ほくろ)がある。指は長く、爪はいつも短く切り揃えてあった。私はそれらを一つ一つ、患者の外見の記録として帳面に書きとめた。


千代の嘘は、不思議に美しかった。


或る晩、彼女はこんな話をした。


「或る大きなお家に、立派な旦那様がいらっしゃいました。奥様がご実家へお帰りになった晩のことでございます。夜更けに、裏木戸の蝶番が、きい、と一度だけ鳴りました。あの木戸は油が切れておりましたから、そっと開けても、どうしても一度は鳴るのです。その音を聞きつけた小さな娘が、そっと寝床を抜け出して、渡り廊下の雨戸の節穴から覗きますと、旦那様が提灯も持たずに、女の人の手を引いて庭を横切っていくところでございました。女の人は、藤色の着物の裾を片手でからげていて、白足袋の爪先だけが、闇の中にぽつり、ぽつりと浮かんで見えました。翌朝、娘は縁側の踏み石に、乾いた泥の足跡が小さく一つ残っているのを見つけました。旦那様の足よりも、ずっと小さな」


千代はそこで、湯呑みを両手で包むように持ち替えた。湯呑みの中の番茶が、小さく波立っていた。


「娘がそのことを話しますと、お帰りになった奥様も、ご親戚の方々も、口を揃えてこの子は嘘つきだとお叱りになりました。旦那様は何もおっしゃらずに煙管を一つ、火鉢の縁でこつんとお叩きになっただけでした。娘は罰として、奥の間の押入れに閉じ込められました。押入れの中は、樟脳の匂いが鼻の奥に刺さるようで、襖の引手を探して手探りをしますと、旦那様の冬の外套が吊るしてありました。羅紗の毛羽がちくちくと頬に当たって、角の釦(ボタン)だけが、氷のように冷たいのです。娘は夜が更けるまで、その釦を握りしめておりました」


「その外套の匂いが、今でも鼻に残っておりますの」


千代はそう言って、まるで自分のことのように微笑んだ。


別の晩には、それが或る呉服屋の話になり、また別の晩には、或る村の庄屋の話になった。けれども、筋はいつも同じであった。妻の留守に女を引き入れる男、それを見た娘、娘を嘘つきと呼んで口を塞ぐ家族。私は帳面に「作話の主題、一貫して家長の不貞と、その隠蔽。家族への敵意の投影か」と書きつけ、

自分の分析の鮮やかさにひそかに満足した。


これは後になって婦長から聞いた話であるが、千代は看護婦たちに対しては、ひどくつまらない、すぐにばれる嘘しかつかなかったという。昼の献立が気に入らぬから腹が痛いだの、庭に狐が出たから怖くて眠れぬだの、子供の言い訳のような嘘ばかりで、婦長たちはそれを笑って聞き流していた。あの精緻な、匂いや手触りまで備えた嘘を、千代は私の前でだけ語っていたのである。


そのときの私は、まだそれを知らなかった。けれども、知らずとも薄々は感じていたのだと思う。この娘は、私にだけ心の襖を細く開けて見せている。その隙間から覗くことを許されているのは、私だけなのだ、と。それがどういう意味であったのか、今の私にはよくわかる。


しかし、その頃の私の帳面を読み返すと、分析の文字の合間に、およそ医者の記録とは呼べぬものが、少しずつ混じりはじめているのがわかる。


「患者、嘘を述べる前に、必ず下唇をわずかに舐めて湿らせる癖あり」


「衿足の産毛、スタンドの光を受けて金色に見ゆ。項(うなじ)の白さ、尋常ならず」


「湯呑みの縁に、薄く紅の跡が残る。患者は紅を差していないはずだが」


私はそれらを、患者の挙動の観察として記録しているつもりであった。少なくとも、そう自分に言い聞かせていた。


千代は問診のたびに、自分の急須で淹れた番茶を私にも勧めた。私が湯呑みを口に運ぶあいだ、彼女はやはり、私の手元をじっと見ていた。


「先生は、万年筆を少し右に傾けてお持ちになるのですね」


「そうかね。自分では気がつかなかった」


「ええ。それから、考え事をなさるとき、親指で軸を二度お撫でになりますの」


私は笑ってごまかしたが、患者にそこまで見られていたことに、妙な居心地の悪さと、それと裏腹な、くすぐったいような喜びとを覚えた。


或る晩、問診を終えて千代が寝台へ戻ったあと、私は彼女の座っていた椅子の上に一枚の白い手巾(ハンケチ)が置き忘れられているのに気がついた。端に小さく、「ち」と縫い取りがしてあった。同じ手巾が置き忘れられていたのは、実はこれが二度目であった。一度目のとき、私はそれを翌朝看護婦に渡して、千代に返させている。


私はそれを返すべきであった。前のときと同じように、翌朝看護婦に渡せば済むことであった。けれども私は、それを白衣の内ポケットに滑り込ませ、そのまま自室へ持ち帰った。手巾には、白粉と、番茶と、それから何とも名づけようのない、千代の肌の匂いが染みついていた。


私はその晩、帳面の余白にこう書いている。


「患者の遺留品一点、預かる。治療上の資料として保管す」


今これを書き写しながら、私は自分の字が、どうしようもなく卑しく見えて仕方がない。私はその手巾を机の引き出しの奥に仕舞い、夜更けにそっと取り出しては、顔に押し当てて眠るようになったのである。

医者が患者に溺れていく話を、私はいくつも聞いたことがあった。そのたびに私は、そういう手合いを心の底から軽蔑していた。それだけに、自分がその一人になるなどとは、夢にも思っていなかった。いや、思っていなかったのではない。自分だけは違う、自分のは観察であり研究である、と信じ込もうとしていたのである。

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