第一話 着任
私がこれから書き留めようとするのは、一人の女と、その女の嘘とについての記録である。いや、記録というよりは、半ば懺悔であり、半ば惚気であるのかもしれない。読む人があるならば、どうか私を医者の風上にも置けぬ男と笑ってもらいたい。私自身、この数か月のあいだに自分のしたことを思い返すと、我ながら薄気味の悪い男だったと思うのである。
私が湘南の海を見下ろす丘の上の、小さな私立の脳病院へ赴任したのは、昭和某年の梅雨の入りであった。前任の宇野という医師が、或る患者に不埒な真似をしたという噂が立って、ほとんど夜逃げ同然に辞めていったあとの空席を、大学の医局から回されたのである。宇野は私の三年先輩で、学生時代には几帳面すぎるほど几帳面な男だったから、私はその噂を聞いたとき、人は見かけによらぬものだと思ったきりで、それ以上深くは考えなかった。
着任した日、看護婦長の村瀬という四十がらみの女が、病棟を案内しながら私に一冊の帳面を手渡した。
「汐見さんの分だけ、宇野先生が持っていっておしまいになったのでしょう、カルテが見当たりませんの。それで、わたくしが看護日誌から書き抜いておきました」
汐見千代、二十二歳。病名は空想虚言症。入院は二年前の秋で、手続きをしたのは隣県の町に住む叔父、費用は実家の汐見家から毎月きちんと届いている。病状の欄には、婦長の几帳面な字で「虚言甚だし。家人の名誉に関わる作り話を流布するため、親族の希望により入院」とだけ書いてあった。
「名誉に関わる、というのは」
「さあ、存じません。何でも、旧家でいらっしゃるそうで、お父様は郷里でたいそうな顔役でいらっしゃるとか。ああいうお家は、娘が妙なことを言いふらすのがいちばん困るのでございましょう」
婦長はそう言って、少し意地悪く笑った。
「ですから先生、あの方の言うことは、何ひとつ本気になさってはいけませんよ。息をするように嘘をおつきになりますから」
それから婦長は、声をひそめて付け加えた。
「宇野先生のことも、もうお聞き及びでしょうけれど、お相手は汐見さんでございますよ。もっとも、あの方ご自身は何も仰いませんでしたの。ただ、黙って泣いておいででした」
千代の病室は、病棟のいちばん奥の、西向きの小さな部屋であった。私が戸を開けたとき、彼女は窓際の椅子に腰かけて、雨に煙る海の方をぼんやり見ていた。銘仙の地味な袷を着て、髪は束ねただけであったが、振り向いた顔の白さが、薄暗い部屋の中でそこだけ灯を点したように浮かんで見えた。
私が名を名乗り、今日から担当になる旨を告げると、千代はしばらくその場でじっと私を見つめていたが、やがて椅子に腰かけたまま、膝の上に両手を揃えて丁寧にお辞儀をし、それから、ほとんど聞き取れぬほど低い、しかし不思議によく通る声でこう言った。
「存じております。先生には、前にお目にかかったことがございますもの」
私は苦笑した。初対面の医者に向かって旧知のように振る舞うのは、虚言症の患者にはよくあることである。
「それは光栄だが、私の方は覚えがないね」
「ええ、先生はお忘れでございましょう」
千代はそう言って、責めるでもなく、むしろ満足そうに目を伏せた。
私は寝台の脇の丸椅子に腰を下ろし、型通りの問診を始めた。夜は眠れるか、食は進むか、何か困っていることはないか。千代は一つ一つに穏やかに答えたが、私が前任の宇野の名を出すと、ふと顔を上げて、
「宇野先生は、わたくしに何もなさいませんでしたわ」
と、まるで天気の話でもするように言った。婦長から聞かされていた噂の当人が、自分からそれを打ち消してみせたのである。私は一瞬返答に窮したが、すぐに思い直した。虚言症の患者は、都合の悪い出来事をなかったことにするために、平然と嘘をつく。あるいはこの娘は、宇野を庇っているつもりなのかもしれない。いずれにせよ、本気にするには及ばぬことであった。
「それから先生、わたくし、雨の晩は眠れないのでございます」
私はそうかね、とだけ答えて病室を出た。廊下で帳面を開き、「初回問診。虚言三件。典型的な空想虚言症と認む」と書きつけた。
ここで私は、正直に告白しておかねばならぬことがある。私が精神科の医者になったのは、人の心を癒したいという殊勝な志からではなかった。私は子供の時分から、他人の秘密を覗き見ることに、言いようのない暗い悦びを覚える性分だったのである。患者の語る嘘や妄想は、私にとっては、他人の心の襖をそっと細く開けて覗き込むようなものであった。
その晩、自室で帳面を読み返しながら、私はふと、問診のあいだじゅう千代が、書き物をする私の手元をじっと見つめていたことを思い出した。何をそんなに見ていたのか、そのときの私には、まるで見当もつかなかったのである。




