夢章二 26 『全夢状態』
避けられるか?
こんな距離じゃ、確実に頭を撃ち抜かれる。
時間的に間に合わない。こんな至近距離で、真正面から飛んでくる弾丸を避けられる人間なんて、どこにもいない。
死ぬ。あの映像と同じ結末だ。夢の世界で、このまま死ぬ。
しかし、予想していた痛みは訪れなかった。
(……?)
弾丸の速度が、突如として失速した。半空中をゆっくりと前進するその表面には、街灯の光が金色の細長い弧として凝り固まり、微動だにしない。
(遅い……)
自分の目と鼻の先まで迫った弾丸を見つめながら、真夢は心の中で呟いた。
同時に、身体の異変も感じ取っていた。四肢が硬直し、神経が発した命令は確かに届いているのに、筋肉がそれに応えられない。身体の制御速度が著しく低下していた——まるで、あの弾丸と同じように。
目は動く。身体は遅い。脳は、活発に働いている。
(時間が……引き延ばされた……?)
そう気づいて、真夢は眼球だけを横に動かした。夢映の顔が、一コマ一コマのスライドのようにゆっくりとこちらを向いている。その瞳が徐々に見開かれ、驚愕の表情が浮かび上がる。数本の髪の毛が空中に浮いたまま、肉眼で追えるほどの低速で揺れている。
カクも同じだった。猫耳がわずかに後ろに倒れ、首を捻るその動きも、同じように不自然なほどに引き延ばされている。
(まさか……俺だけの時間が遅くなっているのか……?)
その可能性に気づき、真夢は身体を横に傾けようとした。全身を分厚い繭でも包み込まれたかのような硬直感が襲う。関節を曲げるたびに、かすかな抵抗が指先にまで伝わってくる。
そして、身体が傾いたのと同時に、弾丸の速度が変化した。さっきまでの極めて緩慢な動きから、少しずつ加速し始める。
その瞬間、真夢は身体をピンと張り直し、一切の動きを止めた。
案の定、弾丸の速度は再び落ち込み、弾頭は再びあの停滞にも似た緩慢な動きに戻った。
(なるほど。)
動かなければ、時間は限りなく停止に近づく。しかし、少しでも動けば、時間は再び流れ始める。
そして今、この間隙の中で自由に動かせるのは、目と脳だけだ。身体と弾丸は同じ一本の糸で繋がれていて、共に進み、共に止まる。
(この能力……まさか……?)
夜に飲んだ薬を思い出し、真夢ははっとした。
クローリアが言っていた。この薬は【全夢】の状態に到達させ、精神の安定性を高め、身体も完全投入の水準にまで引き上げる——と。この能力はおそらく、その薬効が夢の中で形を変えて現れたものだ。
(でも、このままじゃ埒が明かない……なんとかしなければ。)
身体はすでにわずかに横へ傾いている。この流れのまま上半身を捻りきることができれば、弾道の端をかすめて抜けられるかもしれない。
しかし問題は、彼の移動速度と弾丸の加速速度が連動していることだ。全身を同時に動かし、一気にオフセットを決めなければならない。そうしなければ、弾丸に追撃の隙を与えるだけだ。
(ならば————)
真夢は全身の筋肉を一気に解放した。特に上半身に集中させる。まず肩を前に送り、続いて腰を捻る。すると、彼の上半身はほとんど常識を逸脱した角度で横へと歪んだ。
背骨が曲がる感覚と共に、背中に微かな牽引が走る——まさに弾道の境界をすれすれでかすめるように。
弾丸が彼の頬をかすめ、空気中に灼熱の軌跡を残した。気流が皮膚の表面を裂き、かすかな傷跡を一筋刻んだ。
「真夢さん————!」
「真夢————!」
夢映とカクの悲鳴が、時間の回復と共に炸裂した。
「はぁ……危なかった……」
生還した実感と共に、真夢は長く息を吐き出した。手を上げて頬を撫でると、指先に温かな血が少しだけ付着していた。幸い、表皮が気流で裂けただけのようだ。
しかし、心の奥底の緊張はまだ解けていない。背筋に冷たいものが走る。ここで死ぬことは、決して良いことではないと、改めて思い知らされた。
「誰だ、そこにいるなら出てこい!」
真夢は体を正面に戻し、前方の白い霧に向かって鋭く叫んだ。
すると、白い霧がゆっくりと晴れていく。その奥からいくつもの影が輪郭を現し、次第にその形を鮮明にしていく。中央に立つその影は、常人よりも頭一つ分は高く、ゆっくりと霧の中を歩いてくる。
数人はその場に立ち、それらの影に視線を注ぐ。
やがて、その主たちが月明かりの下に晒された。
「うふふ~本当に驚いたわ。弾丸の速度に反応できるなんて……ごめんなさいね、私のおもてなしが少し『行き過ぎ』てしまって。どうかお許しを。」
声は女性のように聞こえる。しかし、その体躯はどう見ても正常ではない。
全身が白い。人型ではあるが、健康的な体躯とは程遠く、そのプロポーションは歪んでいる。顔には頭の後ろまで裂けた口だけがあり、両腕は鋭い刃と化している。月明かりがその刃面に落ち、冷たい光を二筋に反射している。
間違いない。これがクローリアが言っていた存在だ。
「このクズ野郎————!!」
その姿を認めた瞬間、カクの感情が一気に爆発した。毛が逆立ち、声には抑えきれない怒りが満ちている。
「久しぶりね、カク。あなたに会いたくて、毎晩どうしようもなくなるのよ。心臓が止まりそうなくらい、ドキドキしてるの。」
「ちっ……お互い様だ。俺も毎日お前のことを考えてる。このクズがいつ地獄に落ちるかってな。」
夢喰いの甘い言葉に、カクはさらに毒々しい返答を投げ返す。しかし相手は全く気にした様子もなく、むしろその敵意を楽しんでいるかのようだった。それどころか酔いしれているようにさえ見える。
「今のお前はまさに袋の鼠だってのに、よくもそんな口が叩けるものだな。その度胸、どこから湧いてくるんだ?」
「くそっ……」
状況は明らかに不利だった。前方には様々な武器を手にした十数体の人型実体、そしてその中央に立つ夢喰い。
しかも、この夢喰いは明らかに通常の個体よりも知性が高い。少なくとも完全に会話が成立する。その分だけ危険度は一段、また一段と上がっている。
「おっと、すまないすまない。つい旧友と話し込んでしまって、君たちを忘れるところだったよ。」
夢喰いの視線が真夢と夢映に向けられ、そして作り物めいたお辞儀がなされた。刃の腕が月明かりの中で一瞬煌めく。バランスの崩れた体躯にこの動作が組み合わさり、その異様さが一層際立った。
「改めて自己紹介をしよう。私はヴィラ・ブレイク。ヴィラでもブレイクでも好きに呼んでくれていい。まあ、君たちの目にも明らかな通り、私は怪物だ。だから怪物と呼んでも構わない。」
ヴィラと名乗る夢喰いは顔を上げる。口だけのその顔に、冷たい笑みのようなものが浮かんでいるように見えた。
「でも、君たちが何と呼ぼうと、もうどうでもいい。なぜなら——」
彼女は一歩前に踏み出し、両腕を広げて何かを抱きしめるかのような仕草を見せる。
「——君たちの死期が近づいているからだ。」
ヴィラの視線が数人をゆっくりと這う。
「あまりストレートに言いたくはないけど、君たちが死ぬのは事実だよ。夢の中で死ねば、現実の君たちも同じようになる。だから、まだ時間があるうちに遺言を残す時間をあげる。さあ、誰から始める?」
その言葉を聞いても、真夢の心にはほとんど動揺がなかった。
彼はゆっくりと一歩前に出て、ヴィラの数歩手前で立ち止まった。
「その前に、いくつか質問をしてもいいか?」
この男の度胸に少し興味を持ったのだろう。ヴィラは首をかしげ、しばらく彼を観察してから、腕を下ろした。
「もちろんいいわよ。度胸のある人間は好きだからね。」
「よし……」
口ではそう答えながら、真夢の頭の中では秒単位のカウントが進んでいた。ヴィラが姿を現した瞬間から、クローリアは彼の手に印を顕現させ始めている。だがそれには少なくとも一分が必要だ。
だからこそ、この一分間——真夢が発する一言一言、一瞬一瞬の間が、数人の命を繋ぐための窓になっている。
「なぜ俺たちを追ってくる?」
ヴィラは刃の先を自身の顎の位置に当て、二秒ほど首をかしげて考え込んだ。
「うーん……大きな理由はカクのためね。でも、もう一つ気になることがあるの——」
刃先が真夢に向けられ、口元がさらに大きく裂けた。
「……俺?」
「そうよ。君は独特な『香り』がするの。しばらく様子を見ようと思ってたんだけど、その香りがあまりにもたまらなくてね。だから先手を打ったってわけ。」
「つまり……さっきの銃弾は……」
「あれは私があいつらに命じて撃たせたのよ。だって、そんな香りがする人間が、ただの火薬銃で簡単に死ぬわけないでしょ? さっきの様子を見て、やっぱり私の目は間違ってなかったって確信したわ。」
カクが言っていた「死の悪臭」とは違い、ヴィラは「独特の香り」という言葉を使った。どうやら敵陣の立場の違いによって、知覚にも違いが生じるようだ。
真夢はその点を心の中に記録した。
「つまり、目的はカクを見つけて、俺たちを皆殺しにすることか?」
「うふふ、でも、君の対応は私の想像以上だったわ。もしも私に懇願するなら、命だけは助けてあげてもいいわよ。だって君には、確かに掘り下げる価値があるもの。私は興味があるの……どうやって今まで生き延びてきたのか、ってね。」
ヴィラの態度は最初の軽蔑から、ある種の賞賛へと変わっていた。ただし、その賞賛は真夢だけに向けられている。その目はまるで収蔵品を見るかのように真夢を捉えていた。
夢喰いが現れることは予想していた。戦力差があることも想定していた。しかし、自分が敵の興味の対象になるとは、一度も考えたことがなかった。
「結構だ。敵に懇願するぐらいなら、さっきの一発でとっくに土下座してるさ。」
「くくく、本当に頑固な奴だね。ますます興味が湧いてきたよ、真夢。」
「……お前、俺のことを知ってるのか?」
「知らないよ。ただ、君の友達が叫んでいたその声から名前を貰っただけだ。真夢……いい名前だね。」
ヴィラは舌で唇の位置を舐めた。そこにはただの裂け目しかないのに、その動作には不快な満足感が滲んでいた。
この時、印の模様が現れるまで、あと十数秒ほどだった。
今、何を尋ねるべきか?
十数秒あれば、ヴィラが駆け寄って彼らの首を刎ねるのに十分な時間だ。もし彼女の背後にある勢力や自身の能力、カクとの因縁など、踏み込みすぎた話題を口にすれば、相手を怒らせて最後の数秒も無駄にするだろう。かといって、何も話さなければ、刃を免れることはできない。
「質問がなければ、先にあの娘さんの命をいただくわよ?」
「え……?」
ヴィラは後ろ足をわずかに沈め、突進の予備動作を取った。刃先がゆっくりと夢映の方へと向けられる。
夢映はその場に立ち尽くし、何が起こっているのかも分からず、ただ両脚が震えて止まらない。それでも、一歩も後退はしなかった。
「待ってくれ、なぜ彼女が先だ?」
「簡単なことよ。さっきの会話で君に興味が湧いたから、君はひとまず置いておくことに決めたの。まずは邪魔な人間を片付ける。君が望もうと望むまいと、私はそうする。」
言葉が終わる前に、ヴィラは地面を蹴り、白い残像を残して夢映へと直進していた。
「まずい————」
真夢はその場に硬直した夢映の腕を自分の背後へと引き寄せ、そして前に駆け出すヴィラに向かって手のひらを掲げた。
印が完成するかどうかは、もはや問題ではなかった。もしこの場で誰か一人でも倒れれば、残りの全てが取り返しのつかない方向へと滑り落ちる。
だから彼は賭けることにした——クローリアが約束したあの印が、きちんと彼の手のひらに現れることを。
………………
…………
……
幸い、彼の賭けは当たった。
ヴィラの臂刃の先端は、真夢の首の前、指一本分の距離で止まっていた。頭が転がるはずの場面はなく、血が飛び散る音もない。ただ、一振りの刃先が、皮膚のすぐ手前に止まっていた。
「お前……」
ヴィラの視線が、真夢の開かれた手のひらに固定された。そこに——正確には、そこに浮かび上がった印が——彼女をその場に縫い止めていた。
「これが何か、分かっているんだろう?」
「このクズが……なぜお前がそんなものを——!」
印を見た瞬間、ヴィラは猛然後退した。着地の足取りは少し不安定で、来た時よりもさらに遠くへと跳び退いた。
「どうした? 俺たちの命を奪うって言ってたわりに、俺の手のひらが怖いのか?」
「ちっ……」
真夢の言葉には明らかな挑発が込められていたが、ヴィラは反撃の素振りすら見せず、むしろさらに距離を取った。
「真夢さん、これは一体……」
「後で話す。今は目の前のことを片付ける。」
小声で夢映の問いに答えた後、真夢は素早く頭の中で次の計画を練り始めた。
今のところ、ヴィラは確かに印に怯えている。効果は彼の予想よりもはるかに大きかった。しかし問題は、その周囲にいる操られた人型実体たちの存在だ。特に銃手たちは常に最も直接的な脅威であり続ける。
もしヴィラが逃げれば、これらの者たちが新たな追手となるだろう。彼らが自我を保持しているかどうかは定かではないが、今の様子からすると、おそらくまだ操られ続けている。
「ふん、無理はしないわ。置き土産を残してやるから、おとなしく楽しんでな!」
その言葉を残すと、ヴィラの姿は一瞬で後退し、霧の中へと消えた。跡形もなく、音すら残さずに。
「待て、このクズ————!」
ヴィラが逃げるのを見て、カクは猛然その方向へと突進した。
「くそっ、逃げられた!」
しかしカクが駆け寄った頃には、霧はすでに静まり返り、土埃一つ残っていなかった。
ところが——周囲にいた人型実体たちが、まさにその時、一斉に動き始めた。彼らは静かに武器を構え、黒々とした銃口を最も近い標的へと向ける。
その標的は、いまだ憤りに浸るカクだった。
「あと少しだったのに……」
カクは小さく呟きながら、その視線はまだヴィラが消えた方向に釘付けだった。自分に向けられた銃口が、すでにその角度を微調整していることには、まったく気づいていなかった。
「……ちっ、真夢、お前——」
振り返ったその瞬間、カクの視界に黒々とした二、三の銃口が飛び込んできた。
「……え?」
その時になって、カクはようやく自分の無謀が包囲網の真ん中に飛び込んだことを認識した。
武器を構えた影たちを前に、彼の脳は一瞬、真っ白になった。
「ぼんやりするな、走れ!」
真夢が一気に駆け寄り、カクを地面から掬い上げるように抱え上げ、そのまま前へと駆け出した。夢映はその後ろにぴったりと張り付く。
背後で、それらの人型実体たちも動き始めた。異様なまでに整った歩調で、数人を追跡し始める。
足音が入り乱れる——重々しいもの、焦燥感のあるもの、軽やかなもの、虚ろなもの……フロサスの通り全体が、この雑多な音響で満たされ、夜と霧の包み込む中で拡散していく。
「真夢さん! これからどうすればいいの?」
「とにかく引き離すんだ、できるだけ怪我はするな。クローリア! まだここから出られないのか?」
真夢は走りながら手を上げ、こめかみに指を当てた。
「北通りの三つ目の角だ。灯りのついた店がある。そこが安定した出口だ。」
「分かった。」
真夢は頭の中でルートを広げ、夢映とカクを連れてその方向へと走り出した。背後から足音が執拗に食らいつき、どんどん近づいてくる。




