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カゴノトリ  作者: 灯夜 雪


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第25話 母の面影(後編)

アクアが聖明を連れて、どこかへ消えていった。

この場に居続けるよりは良いだろう。


護衛としては失格かもしれないが、それはアクアと、影に潜んでいる使い魔に任せるとして──

今は、目の前の“化け物”じみた父親をどうにかするべきだろう。


「──おい」


ドスッ。

背後から、地面を揺らすような足音が響く。


「てめぇ、何ぬけぬけと……死ぬ覚悟できてんだろうな!? コラァアアアアア!!!!!」


拳が振り下ろされた。

咄嗟に避けると、石畳が砕け、地面に深い窪みができている。


「──っ!?」

魔力の気配さえなかった。

素手の一撃でこれ……? 無茶苦茶にもほどがある……!


「うちの聖明を……女装させたのは貴様かァァァアアアア!!」


「ち、違う!」

「犯人は大概そう言うんだよォ!!!!!」


怒声だけで、商店街のスズメが一斉に飛び立った。


イヴァンは前へ詰め寄ると、俺の襟をつかみ、片手で持ち上げる。

もはやヤクザ映画のワンシーンだ。


「貴様、覚悟はできてんだろうな?

我が“娘”にちょっかい出すってのは、どういう了見だ!? あァ!?」


「娘って……」


……キレすぎておかしくなってないか?


「この世で一番かわいい俺の子に!

近づいて! 唇奪って! 貞操ぶち壊してェッ!!」


「はあ!? 捏造だろそれ!!」


そもそも聖明の貞操は、出会った時点でもう──


「じゃあ聞くぞ、てめぇ」


イヴァンが急に声をひそめた。


「……お前、うちの聖明を、愛してるって断言できるのか?」


──何を今さら。

俺は即答する。


「──ああ。誰よりも、心から、愛してる」


一瞬、空気が静止する。

だが、イヴァンは鼻で笑った。


「よく言ったな。じゃあもう一個だけ質問だ。

……それ、本当に“愛”か? 依存と勘違いしてねーか?」


「な……っ」


頭が、一瞬だけ真っ白になる。

確かに──始まりは共依存の関係だったかもしれない。


「気づいてないかもしれねぇがな。

てめぇは聖明に救われて、惹かれて、生きる意味をもらって、それが全部になってるだけなんじゃねぇのか?」


鋭い。あまりに的を射ていて、息が詰まる。


「聖明がいないと自分が壊れる。

そう思ってるなら、それはもう“愛”じゃねぇ。“依存”だ」


俺の脳裏に、過去の言葉がよみがえる。

『頼む、お前がいないのは、耐えられない』


「……うっせぇよ」


確かに俺は、聖明がいない日々に興味なんてない。

それが依存だって言われたら、そうかもしれない。

けど──それでも、俺はあいつを愛してる。


「ちゃんと“相手”を見てるか?

それとも、“自分の拠り所”として見てるだけか?」


イヴァンの拳が、ゆらりと上がる。


「そんなヤツに、うちの聖明は渡せねぇ。

一発かましたるから、覚悟しとけェェェエエエ!!!」


「……うっせぇ親父だな」


ドガァンッ!!!

骨が砕ける音と共に、俺の意識は、暗転した。



ーーー



僕は学校帰りに商店街を歩いていた。

肩には、聖明の大事なテディベア──『パニョ』がしがみついている。


悪魔が都市に侵入した後も、未だ見つかっていない。

なのにエクソシストたちは警戒を解き、僕たちは“日常”へと戻された。

──けれど、本当の標的は聖明だ。

身内である僕も、気を緩めてはいけない。


とはいえ、四六時中護衛がつくわけにもいかない。

そこで、聖明からこのぬいぐるみを託された。


パニョは、ただの動くぬいぐるみじゃないらしい。

浄化の効果に加えて、簡易結界を一度だけ展開可能。

何より聖明と精神リンクしているらしく、危機を察知すれば即時連絡。

持っている者を、聖明のもとへ“強制転送”する機能まで追加されている。


──要するに、下手な護衛よりずっと優秀。


勝手にしがみついてくれるから、学校でもそこまで目立たない。

一人で歩けるのは、今の僕にとってありがたい限りだ。


今日は聖明から借りた魔法医療の本を片手に、

いつもの喫茶店に向かうつもりだった……のだが。


「……なんか騒がしくない?」


人混みの先、妙なざわめきが聞こえる。


少し気になって覗いてみると──


「そんなヤツにうちの聖明は渡せねえ!

一発かましたるから、覚悟しとけェェェエエエ!!!!!」


「……え? オヤジ?」


思わず声が漏れた。

悪魔を追ってからずっと姿を見せなかったのに……なんでここに?


僕は慌てて人混みをかき分け、前に出る。


「──げ」


その光景を見た瞬間、僕は本気で後悔した。


地面に倒れ、血まみれの師匠。

その前に立っているのは、明らかに“ぶっ飛ばした張本人”──我が父、イヴァン。


「チッ、腹立つクソガキだ……今日はこのくらいで勘弁してやるか」


そう言うと、気絶した師匠の胸倉をひょいとつかみ、まるで空き樽を担ぐかのように肩に抱える。

その肩から血がポタポタと、滴る。


「……はあ。放っておいたら、聖明がキレるからな」


吐き捨てるように言うと、オヤジは脚力だけで建物を蹴り、空へと飛び上がった。


「いやいやいや……」


師匠が無残にも倒されるという珍しさと、父の規格外すぎるパワーに、僕はただ呆然と立ち尽くした。


……ていうかさ。

あの二人が喧嘩する時って、毎回、聖明が原因なんだよな。


──何をやらかしたんだよ、師匠。


僕はそっと目を閉じて、踵を返す。


「……見なかったことにしよう。関わるとろくなことがない」


そう呟いて、僕は足取りも軽く喫茶店へ向かった。




ーーー



喫茶店のドアを開けると、チリン──と小さな鈴の音が店内に響いた。

それと同時に、焙煎した豆の香ばしい香りが鼻をくすぐる。


「いらっしゃいませ! おや、風真くん!」


レジにいた店員さんが顔を上げて、僕の名前を呼んだ。


「こんにちは。今日もコーヒーとケーキお願いします!」


「うん、わかったよ!

マスター、コーヒーとケーキのセットお願いします!」


「うん、わかったよ」


いつもの明るいやり取りに、小さく微笑んでから、席を探して店内を見渡す。

──そして、すぐに視線が吸い寄せられた。


いつも聖明と座っている奥の席。

そこにいたのは、どこかで見たことのある女性。

黒く長い髪、穏やかで妖艶な表情──そして、赤い瞳。


彼女がこちらに気づき、微笑んだ。


「……あ、風真」


僕の心拍が跳ね上がった。

目元が柔らかく緩み、嬉しそうに微笑む彼女。

その声は、聞き覚えがある声だった。


──え?もしかして、聖明!?


すると向かいの席から綺麗な青髪がちょこっと姿を覗かせた。


「お、風真じゃ!こっちに座るのじゃ!」

「あ、アクアさん、こんにちは」


言われるがままに隣に座ると、問題の“彼女”──いや“彼”が、視線を逸らしながら両手でカップを持ち、そっと口をつけた。


……いや、本当に聖明?

確信が持てず、確認のために名前を呼んでみる。


「聖明」


その瞬間、ピクリと肩が震えた。


──あ、本当に聖明だ。


怖いくらい“女性”に見える。

ていうか、完成度が高すぎて怖い。


「な、なに、風真」


少し控えめな感じで返事をする聖明。

その姿に、家で飾られている聖明の母親の写真を思い出す。

似てるとは思っていたけど、見間違えるぐらいになるとは思わなかった……。


「やっぱり母親似なんだね」

「へ……?」

「いや、写真で毎日見てるからさ、そっくり過ぎて本当に聖明なのか不安になった」


これは本当。

事実、瞳の色こそ赤いけれど、あまりに印象が違いすぎて混乱した。

写真の中の人がそのまま出てきたみたいで、現実味がない。


「そんなにそっくりに見えるんだね……」


聖明ははにかんで、ちょっと照れくさそうに笑った。

嬉しそう……そりゃそうか。

大好きだった母親に似てるって言われて、嬉しくないわけがない。


「うん。まあ、でも、僕はいつもの聖明のほうが落ち着くかな」

「風真……」


聖明が、いつものような甘える表情でこちらに身を乗り出そうとする。

──だめだ、抱きつく気満々の顔だ!


「急に「お母さんだよ!」とかいい出しそうで怖い。抱き着かないでね」

「えええ!?」


涙目でショックを受けている。


……いや、いつもの姿なら冗談で済むけど、今のその顔でやられると罪悪感がすごい。


何となく、オヤジと師匠が喧嘩してた理由が分かった気がする。

オヤジ……義母さん大好きだからな……。

家にいる時は毎朝必ず墓参りに行くし、出かける時、帰ってきた時には写真に向かって絶対に一言伝えていく。

その表情がどれだけ愛していたか物語っているぐらいに今も愛していると思う。


そんな義母さん瓜二つの聖明が、師匠と並んで歩いていたとしたら……一回はオヤジに殺されるだろうな。

というかさっき死んでたと思うし……。


僕の思考を割くようにアクアさんの声が耳に入る。


「どうじゃ、私の自信作じゃ!」


アクアさんがドヤ顔で聖明に手を添えてくる。やっぱりこの人の仕業か。


「やっぱりアクアさんだったんだ……」


「他にもたくさん着せ替えを楽しませてもらったぞ!風真も今度、着せ替えをさせてほしいぞ!」


「えー……僕はいいよ。もう十分もらってるし、聖明もいろいろ持ってくるしさ……」


正直、部屋の半分が服と靴に侵食されている。

着てはいるけど、そろそろ収納が限界。


「聖明、おぬし、自身には無頓着のくせに風真は着飾らせておるんじゃな……!?」


「だって、風真だよ!? 折角、可愛いのに着飾らなきゃ!」


いや……あんたが今その姿で言うのは説得力なさすぎる。


視線で無言の圧を送りつつ、ふと店員さんがやってきてコーヒーとケーキを置いてくれた。


「お待たせしました。ゆっくりどうぞ」


「ありがとうございます!」


僕は気を取り直して、香ばしいコーヒーを一口。

続けてケーキ。口の中で広がる甘さと酸味が絶妙で、思わず笑みが溢れた。


すると目の前の聖明がドキッとするぐらいの優しい表情で僕を見つめていた。


──聖明なのに聖明じゃないみたいで、落ち着かない。


「聖明、その顔であまり見ないでよね」

「へ!?どの顔!?」

「ああ、そうか、眼鏡ないから印象が余計に違って見えるもしれないのう!」


アクアさんの台詞にハッとする。

そう言えば眼鏡してない!


……うん、眼鏡外しちゃいけない顔だ。

何となくそう思った。


「眼鏡……アクアの家に置きっぱなしだった気が……」


聖明は目を細めて、前を見る。

伊達かと思ってたけど、割と真面目に目が悪いらしくて家でも基本的に外さない。

たまに眼鏡を探して壁にぶつかっていることもあるぐらいだ。


「そうじゃったな。後で取ってくるかのう。すまなかったな」

「うん、ありがとう。助かるよ……このまま歩いてるといつかは何かにぶつかる」



再び喫茶店のドアが開き、澄んだ鈴のような音が鳴る。


「オヤジ!コーヒー1杯頼む!」


視線を向けると、まさかのオヤジの姿だった。

彼はため息をつきながらカウンター席に腰を下ろす。


その姿を確認した聖明が、すぐに席を立ち、声を荒げた。


「父さん、セレスは?」

「聖明、あいつだけは好かん!今すぐパートナー変えろ!」


血走った目で訴えるオヤジ。

どれだけ嫌いなんだよ……。


「クソ!何でお前は嫁にそっくりなんだ!!もっと俺に似ておけよぉぉぉ!!!男だったのが救いか!?」


様子がおかしい。

その異様さに、聖明も驚いたようで声が震える。


「と、父さん……落ち着いて……」

「落ち着いていられるか!お前、あいつと──」


オヤジが何か言いかけたところで、聖明が腕で首を絞めて口を塞ぐ。


「父さん、勘弁して……!」

「んんんんっ!!」


……何があったんだ本当に。

僕は横のアクアさんに小声で尋ねる。


「アクアさん、何があったの?」

「青春じゃよ、青春」

「はあ……」


何も伝わらない。でもアクアさんが楽しそうなのはわかった。


「父さん、それで、セレスは?」


聖明の声が低くなる。あ、怒ってる。


「……病院送りにした」

「はああ!?」


分が悪そうな顔で言い逃げるオヤジ。

さっきの様子を見てたからわかるけど……まあ、病院行くレベルではあった。

というか、ちゃんと連れて行ったのか……。


血相を変えた聖明がすぐさま動き出す。


「私、様子を見に──っ」

「行かなくていい!」


オヤジがその腕を掴んで力任せに足を止めさせる。


「ちょっと父さん、離して!」

「他の男のところに行くなんて……俺が、耐えられるわけないだろ……っ!」


急に半泣きになるオヤジ。

見ていた僕も驚いて、ケーキを食べる手が止まる。


「オヤジ……様子おかしくない?」


「親父殿、聖明を見て嫁と重ねて錯乱しておるのじゃろう。そっくりだからのう」


「父さん、私は息子だよ!しっかりして!」


「……葵…」


情けなく名前を呼ぶ声。

義母さんの名前だ。


今の聖明は、本当に瓜二つだ。

愛してやまなかった人の面影を見て、混乱してしまうのも無理はないのかもしれない。


その様子に、聖明も苦しそうに目を伏せる。


「父さ……」


その瞬間、オヤジの脳天を分厚い本が直撃した。

ドンッ!という鈍い音に、僕も聖明もびくりと肩を揺らす。


「あまり子供を困らせるんじゃないよ」


マスターだった。

本を振り抜いた姿が、やけに堂々としている。


「このバカオヤジ!何しやがる!」


「はい、コーヒーね。聖明くんも困るだろう。まったく君は、昔から葵のことになると前が見えなさすぎる!」


「当たり前だろ!葵のことだぞ!」


「いいからコーヒー飲んで落ち着きなさい!」


「なあああんだとおおおお!」


言い合いながらも、どこか漫才のような掛け合い。

オヤジが言い負かされそうな珍しい雰囲気に、聖明もたじろいでいる。

マスター、意外と怖いかもしれない……。


そんなふうにやり合っている間に、聖明はため息を吐いて席に戻ってきた。


「はあ……セレス、大丈夫かな……」

「師匠ね……」


僕も思い返して言葉を詰まらせる。

あれは確かに……骨折で済んでれば良い方だよな。


「父さん、化物すぎるんだよ……」


「まあ、セレスも本気は出せんかったじゃろうしな。後で私が様子を見てくるわ。聖明は親父殿を見張っておくのじゃ。お主が病院に行ったら、逆に親父殿が暴れかねんからのう」


うん、容易に想像がつく。


「私の父が……本当にすまない」

「僕もいるし、まあ、これ以上は暴れないんじゃない?」

「はああ……」


言い争っている二人を見る。

さっきまで大騒ぎだったのに、どこか楽しげに見えた。


知らない家族の一面を見たような、不思議な気持ち。

聖明に視線を向けると、彼もまた穏やかな顔で眺めていた。


僕は義母さんに会えなかった。

でも、もしここにいたら──


聖明のように、微笑んでくれただろうか。

僕のことも、受け入れてくれただろうか。


きっと、聖明と並んで笑ってくれていたんだろうな。

……そんな気がして、むず痒い気持ちになる。


たまには、こんな日があってもいい。

ただ、コーヒーの味だけはどうにも苦くて、美味しかった。



ーーー



翌日。

病院のベッドに横たわるセレスに、私はひたすら頭を下げていた。


「セレス…ほんっっっっっとうに、父が申し訳ないことをした!!!」

「……気にするな。俺も挑発するような言い方したからな」


さすがに不死の肉体だけあって、死ぬことはないけど、全身の骨にヒビが入っており、念のための検査入院中だ。


堕天使は不死でも、地味なケガの治りは人並みだ。

回復魔法もあくまで自然治癒力の補助にすぎず、無理に早めると身体への負担が増してしまう。

それだけに、今はしっかり静養してもらうしかない。


「でも、こんなにボロボロになるほどって……どれだけ殴ったの父さん……」


思わず目を伏せる。

あまりにも申し訳なさすぎて、涙が出そうになる。


「そんな顔するな。それに……可愛い姿が見られたから、結果オーライだ」


そんなふざけたことを言いながら、セレスは私の頬に手を添えてきた。

セレスは本当に、私に甘すぎる。


「昨日のも良かったけど……やっぱり、いつもの聖明が好きだな」

「もう……なにそれ」


微笑む彼につられて、私も思わず笑みがこぼれる。


「安心するんだよ。……聖明が、そばにいると」

「……わ、私も……セレスがいてくれた方が、安心するから……早く治ってね……?」


いつも一緒にいるからだろうか。

彼のいない部屋は、妙に静かで少し寂しい。


当たり前のように隣にいる存在。

そうなっていたことに、自分でも驚く。


「セレス……いつもそばにいてくれて、ありがとう」


自然と、心からの言葉が零れ落ちた。

セレスは目を丸くし、それから優しく微笑んだ。


「聖明、好きだ」

「あ、セレス、無理に動かない方が──」


体を起こしながら、彼の顔が近づいてくる。

私は恥ずかしさを堪え、目を閉じた。


──柔らかな感触が唇に触れる。


その瞬間。


「おおおおおおおいッ!!昨日のだけじゃ足りなかったのかァァァ!?」


勢いよく扉が開き、聞き覚えのある怒号が病室を切り裂いた。

セレスがびくっと震え、「ひっ」と情けない声を漏らす。


「イヴァンさん!落ち着いて!!」


その背後から、必死に抱きついて止めているのは龍だった。


「聖明!お前も止めてくれよ!!こいつ本気でセレス殺しに来てる!!!」


「離せ龍!!俺はあの色ボケ小僧を成敗せにゃならんのだァァァ!!!」


「もー!父さん、やめてよおおおお!!病院で暴れないで!!」


龍とともに父を抑え込もうとする。

まったく、こんなとこで暴れられたらたまったもんじゃない。


「聖明!止めるな!!」

「……父さん、そんなに暴れると……母さんの真似、するよ?」

「……は?」


予想外の一言に、父はぴたりと動きを止めた。


私は眼鏡を外し、軽く咳払い。

声を整えて──


「あー、あー……これくらいね」

「「「……は?」」」


その場の空気が固まったのを感じるが、気にしない。

私は父の顔を覗き込み、義母の記憶をなぞるように微笑んだ。


「イヴァンさん、おいたはダメですよ?病院では、静かにしましょうね?」


──その瞬間。

父はその場で崩れ落ち、四つん這いになって震えながら叫んだ。


「あ、あおいいいいいっっっ!!!」

そのまま床に突っ伏して号泣。


よし、止まった。


「龍、今のうちに連れてって!」

「聖明、お前……えぐいって……どこからその声出してんの!?」

「ん?気合」


龍は引き攣った顔で父を引き摺って退場。

病室の静寂が戻った。


……と思ったら、セレスがひときわ眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。


「聖明……その声で甘えたりしないでくれよな」

「ん?普段から出すわけないだろ?喉痛いし」

「……俺はお前の可能性が怖い……!」


羽虫でも睨むような目で訴えるセレス。

なんだろう、この敗北感。


「どういう感情で言ってんの?」

「……可愛すぎて困るってことだ!」

「?」


よくわからないが、まあ、いいか。

セレスが無事で、ほんとによかった。


「セレス、治ったら……その、お詫びに……私にできることなら、何でもするから。何か考えといて!」


「な、何でもって──」

「じゃ、私、仕事戻るから!」


セレスの言葉を遮り、私は思わず病室を飛び出した。

背中がじんじん熱い。

顔が火照っているのが自分でもわかる。


さて。今日も、仕事を頑張ろう。


彼が戻ってきたとき、負担にならないように。

今の私にできることはまだ少ないけれど、彼のために、私なりに報いていこう。


あのとき彼を道連れにした後悔が、少しだけ、ほんの少しだけ──和らいだ気がした。


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