第15話 兄弟喧嘩(1頁目)
魔法都市に来て、もう二週間が経った。
聖明は仕事復帰のため、毎日山のような書類を作り、セレスさんからの引き継ぎにも追われている。
あまりの忙しさに、セレスさんも家に泊まり込み、二人で難しい話を続けていた。
……たまに、疲れや苛立ちが積もるのか、言い合いが怒鳴り声に変わることもある。
龍さんはそんな空気をまるで面白がるように、ひょっこり顔を出しては聖明にちょっかいをかけ、満足そうに帰っていく。
アクアさんもよく一緒に来て、僕のことを気にかけてくれた。
そして今日も──
「いや、だから、そんな行事いらないだろ!」
「馬鹿か!お前が思っている以上に、お前の存在は大きいんだぞ! 嫌でもやらなきゃ、エクソシストの牽制にならん!」
また始まった……。
二人は仕事の話になると、どうしてこうも毎回、口論になるのだろう。
「聖明、僕、少し出かけてくるよ」
「ん、いってらっしゃい。……あぁ、念のためリリーを影に潜ませておくから、何かあれば呼んでね」
「うん、行ってきます」
◇
ドアを開けると、そこは魔法都市の中央にある商店街だった。
聖明が作ったゲートのおかげで、家から出るときは好きな場所へ繋がるドアを選べる。
あてもなく、ただ歩く。
商店街は緩やかな坂に沿って続き、登り切った先には、都市を一望できる高台がある。
そこには噴水のある広い公園があり、僕はその場所が気に入っていた。
景色を見下ろせるベンチに腰を下ろし、何もせず、ただぼんやりと息をつく。
「……居場所がないな」
小さく漏らした声が、自分の胸の奥に沈んでいく。
理由もわからぬまま世界に放り出され、聖明と出会い──悪魔が作った人工天使だと知った。
行くあてもない僕に、手を差し伸べてくれたのは聖明だった。
だから、彼についていくと決めた。
けれど、彼には帰るべき場所があった。
僕にとっての居場所は聖明のそばだと思っていたけれど、そうじゃなかった。
セレスさんと並んで仕事をする姿を見ると、「敵わないな」と思い知らされる。
聖明は相変わらず優しく、大切にしてくれるけれど……僕は何も返せていない。
やりたいことはあるのに、今は何をすればいいのかわからない。
まるで、自分だけが迷子になったみたいだ。
「……風真?」
背後から声がして、ゆっくり振り向く。
そこに立っていたのは、綺麗な黒髪をツインテールに束ねた──僕の初めての友達、楓だった。
はっとして、最後に会ったときのことを思い出す。
あの日、聖明とセレスが大学院の広場で言い争っているのを見て、僕は荷物も楓も置いて走り去ってしまった。
「あ、この間は……ごめん! 急にいなくなった上に、荷物のことすっかり忘れてた!」
楓は口元に笑みを浮かべ、くすくすと笑う。
「大丈夫よ、気にしてない。……むしろ、また会えて嬉しいくらい。
あの荷物も、いつか渡せたらと思って取っておいたの」
「本当に……ごめん!」
両手を合わせ、深く頭を下げる。
楓は僕の鼻先に指を軽く当てて、いたずらっぽく笑った。
「そうね……じゃあ、一つ貸しにしておくわ」
「うん、わかった。何かあれば、僕が楓の役に立てるよう頑張るよ!」
「荷物は後で取りに行くとして……どうしたの? なんだか悩んでる顔に見えたけど」
黒い髪をなびかせながら、楓は僕が座っていたベンチに腰を下ろす。
僕も少し姿勢を直して、隣に座った。
楓は僕の初めての友達で、瑠璃の友人でもある。
だから──聖明のことはあまり話さないほうがいい。
けれど、それでも、誰かに聞いてほしかった。
聖明にも、他の誰にも言えないこの気持ちを。
「……なんて言ったらいいんだろう。
僕さ……兄さんがいるって、前に言ったじゃん。
仕事の都合で付いてきたはいいんだけど、僕にとってはここは知らない土地で、知り合いもいない。
兄さんはずっとここにいたから、色んな人に囲まれてて……。
なんか僕、邪魔なんじゃないかなって……」
言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が急に苦しくなる。
──あ、僕、捨てられるんじゃないかって思ってるんだ……。
そもそも聖明のそばにいるのは、瑠璃の人工天使として、行き場がなくて、ただ彼の厚意に甘えているだけだ。
それを自覚した途端、恐怖がせり上がり、手が震えているのがわかった。
「そんなこと、あるわけないじゃない」
楓のはっきりした否定に、思わず顔を上げる。
彼女は真剣な表情で、茶化すことなく続けた。
「貴方とは出会ったばかりで、詳しい事情は知らないけど……邪魔なんてことはないと思うわ。
だって、家族なんでしょ? それとも、貴方のお兄さんは風真のことが嫌いなの?」
「……多分、嫌われてはいないと……思う」
確かに、いつも優しい。
本当の家族がいたら、こんな感じなのかなと思う瞬間はある。
でも──自信がない。
僕は聖明の大切な妹、瑠璃の魂で作られた人工天使だ。
本当に大切にしているのは、瑠璃の魂だからかもしれない。
「不安なのね。……そうね、ちゃんと聞いてみたらどうかしら?
勝手な想像だけど、ちゃんと向き合ったら答えてくれるんじゃないかな。
家族って、距離感が近い分、逆に肝心なことを話さなかったりするものよ。
風真が不安だって言ったら、きっと最後まで聞いてくれると思う」
「……そうかな」
「そうよ。それに、私たちは友達でしょ?
知らない場所なら、一緒に冒険しよ。
いっぱい人と関わって、この街のことを知ってくれたら嬉しいな」
楓はやわらかく笑う。
その屈託のない笑顔に、僕もつられて笑ってしまった。
「そうだね。初めての友達が楓でよかった!
不安になってても仕方ないし……ちゃんと話してみる」
──そうだ。僕は、くよくよ悩む質じゃない。
僕は僕らしく、聖明と向き合おう。
二人でなんとなく笑い合っていると、聞き慣れた声が背後からした。
「風真、気分転換に夕食の買い出しでも……」
「……聖明」
胸がドキリと跳ねる。
今の会話のせいもあるけれど──それ以上に、楓の存在だ。
彼女は瑠璃の友達。おそらく、顔見知りだ。
……会わせても、大丈夫なのか?
反射的に、僕は楓を庇うように、その前に立っていた。
「風真? どうしたの?」
楓が不思議そうに首を傾げ、僕の背後からひょいと顔を覗かせる。
「あ──」
時すでに遅し。
二人の視線が、真っ直ぐにぶつかった。
聖明も、楓も、わずかに目を見開いている。
……やっぱり、まずかったかもしれない。
「えっと、これは──!」
慌てて何か言おうとするが、喉が詰まり、言葉が出ない。
そんな僕をよそに、聖明は静かに歩み寄り、穏やかな笑みを浮かべたまま口を開く。
「はじめまして。君は風真の友達かな?」
……耳を疑った。
瑠璃の友達なのに、初対面?
そんなこと……あり得るのか?
違和感を抱きながら楓を見れば、彼女は真っ青な顔で震えていた。
唇はかすかに震え、手足まで小刻みにガタガタと揺れている。
「楓……?」
「楓ちゃんって言うんだね」
僕の口から零れた名を、聖明がそのまま繰り返す。
笑みは崩れないまま、ゆっくりと。
楓はベンチから後ずさり、距離を取る。
「どうしたの? 体調でも悪いかな?」
「……ご、ごめんなさい。わ、私……体調が優れないので、失礼します!」
振り返ることなく、彼女は駆け出した。
あの怯えよう……聖明を、恐れていた?
背筋が冷たくなり、僕は聖明を見上げる。
「リリー」
変わらぬ笑顔で、彼は僕の影に潜む使い魔の名を呼ぶ。
影の中から、一匹の黒猫が姿を現した。
「承知」
短く応じると、リリーもまた楓の後を追って駆けていく。
嫌な予感が、胸の奥で鈍く鳴った。
「せ、聖明! あの子は楓って言って……初めて友達になってくれた人で──」
聖明の手が、僕の頭を優しく撫でる。
「そう……よかったね、友達ができて」
……優しいはずの声なのに、ひどく怖い。
底の見えない暗さが、その奥に潜んでいる気がした。
僕は思わず、その手を振り払って後ずさる。
「私は急用ができたから、風真は先に家に帰ってなさい」
──急用。
きっと楓を追うつもりだ。
でも、どうして……?
「ま、待って、聖明! 僕も──」
冷たい視線が、眼鏡の奥から鋭く突き刺さる。
赤い瞳がギラリと光り、僕を射抜いた。
初めて向けられた、刃のような眼光。
恐怖で喉が凍り、言葉が消える。
「……うん。直ぐ帰るから、待っててね」
笑顔に戻った彼は、それ以上僕を見ようともせず、ゆっくりと背を向けた。
残された僕は、その場に崩れ落ちる。
膝が震え、力が入らない。
恐怖だけが、身体にこびりついたまま離れなかった。
「……クソ!!!」
駄目だ、このまま座り込んでいたら駄目だ!
僕は自分の太ももを両手で叩き、震える足に力を込めて立ち上がる。
今の僕じゃ聖明を止められない……。
でも、代わりにそれができる人なら──。
脳裏に浮かんだのは、さっきまで家にいた聖明の同僚であり友人の、セレスの顔だった。
彼ならきっと……!
僕は近くの扉に飛びつき、ゲートを開く。
迷う暇もなく家に駆け込み、リビングへ飛び込む。
「セレスさん!!!」
「ん?」
ソファに座って雑誌を読んでいたセレスが、顔を上げる。
「どうした、血相変えて」
「聖明が──!
瑠璃の友達に会って、それで……様子が変で……!」
「聖明が瑠璃の友達と?」
「わかんない……でも楓を追いかけて行っちゃったんだ!僕……すごく怖くて……!」
息が荒く、うまく言葉がまとまらない。
でも、あんな聖明は初めてだった。楓もひどく怯えていた……。
「……わかった。とりあえず急ぐぞ」
セレスは短くそう言い、立ち上がって上着を羽織る。
立ち尽くす僕の肩を、ポンと軽く叩いた。
「信じて……くれるの?」
「そんな顔してんだ、信じるに決まってんだろ。
聖明の場所は闇の気配を追えばわかる。止めるんだろ?」
「……うん!」
僕はセレスの背中を追い、聖明のもとへと駆け出した。
ーーー
人気のない旧商店街跡地。
朽ちたシャッター、割れたガラス。
今は立ち入り禁止になった旧区画を、私はふらふらと歩いていた。
──どうしてこんな場所まで来たのだろう。
走ってきた記憶はある。でも、道中の景色が思い出せない。
ただ必死だった。ただ怖くて、逃げたかった。
頭の中は、疑問と恐怖でいっぱいだった。
「……何で、どうして?」
あの人は──確かに瑠璃のお兄さんだった。
けれど、初めて会ったような顔で「はじめまして」と微笑んだ。
どういうこと?
みんな、どうして瑠璃の記憶を失っているの?
三年前。
ある日、突然、瑠璃が消えた。
私は必死で探し回った。学校も、いつもの商店街も、瑠璃が大好きなお兄さんが通う大学院も。
でも──誰も瑠璃を覚えていなかった。
それどころか、お兄さんまで失踪していて。
瑠璃の家があった場所は、更地になって草原が広がっていた。
まるで最初から何もなかったみたいに。
愕然とした。
確かに、一緒に過ごした日々があったはずなのに──痕跡は、ひとつも残っていない。
笑い合ったことも、喧嘩したことも。
瑠璃がお兄さんのことを幸せそうに語る姿も。
その「当たり前」が、ある日突然消えた。
……私の頭がおかしくなったのかもしれない。
探すのをやめたのは、その恐怖に耐えられなかったから。
だって、あの毎日が幻だったなんて、認めたくなかったから。
「あっ!」
足がもつれ、アスファルトに膝をついた。
鈍い痛みとともに、擦りむいた足から血がにじむ。
痛い。
痛い、痛い、痛い……。
この感情を、どこへ向ければいいの?
「……瑠璃」
懐かしくて、愛しくて、どうしようもない名前が、涙と一緒にこぼれ落ちた。
「……やっぱり、記憶は消えてなかったんだね」
返事の代わりに、男の声が背後から落ちてきた。
聞き覚えのあるその響きに、心臓が一瞬で冷たくなる。
振り返った先──そこには、黒髪に赤い瞳を宿した瑠璃のお兄さんが立っていた。
肩には一匹の黒猫。
視線は、私を見下ろすように冷たく射抜いてくる。
……私が知っている、あの優しい人とは違う。
先程までの恐怖とは違う、もっと深く、底の見えない何かが背筋を這い上がってくる。
逃げなきゃ、と足に力を込めようとするのに、震えが止まらない。
「……記憶が消えてないって、どういうことなの……?」
自分でも、声がちゃんと出ているのかわからない。
けれど、その言葉を聞き流すことなんてできなかった。
「はぁ……だから嫌だったんだよね。エクソシストに任せるのは」
男はため息をつき、淡々と続けた。
「あいつらは記憶操作もまともにできやしない。……まあ、仕方ないか。本来は私の管轄だ」
「どういうことなの!?ねぇ、答えて!!」
私は恐怖よりも先に、込み上げる疑問と焦りに突き動かされていた。
瑠璃のことを……この人は、何か知っている。そう確信して。
縋るように彼のズボンに獅噛みつく。
必死に問い詰める私を、彼は感情の見えない笑みで見下ろした。
「……どうせ、忘れるんだ。知らなくていい」
そう言って、私の目の前にそっと手を翳す。
その瞬間、気付く。
──そうか。瑠璃を知らないんじゃない。
みんな、忘れさせられたんだ。
胸が熱くなり、涙が頬を伝う。
良かった……瑠璃は、本当に存在してたんだ。
……けれど、その私の涙を見たとき。
彼の表情は、ほんの僅かに曇った。
──その顔は、とても辛そうに見えた。
「聖明!やめて!!!」
鋭く響く声が静まり返った旧区画に木霊する。
その声の主──風真は背の高い赤と青のオッドアイの男を伴い、息を切らして立っていた。
「……風真」
「帰ってろって言ったはずだ」
「ふざけんな!今、楓に……何をしようとしてたんだ!!!」
風真の声は震えていた。
怒りか、恐怖か──それともその両方か。
血が滲むほど拳を握りしめ、真っ直ぐに聖明を睨みつける。
聖明は変わらぬ笑みのまま、淡々と告げた。
「……エクスシアは国家機密だ。
瑠璃が死んだということは、エクスシアを失ったということだ。
国の混乱を避けるため、エクスシアに異常、もしくは喪失が発生した場合──それに関わる一般人の記憶は、操作され抹消される。
……三年前も同じ処置が行われたはずだ。
だが記憶の操作は難しい。
私ならまだしも、エクソシストのお粗末な精神魔法では……関わりの深い者の記憶を完全に消すことはできない。
結果、この子のようなイレギュラーが残ってしまった。
……私は法に基づき、責務を果たそうとしているだけだ」
その説明を聞き、風真は目を見開いた。
「……は?何を言ってんだよ。
記憶の抹消?
それ、あんたの大切な妹……瑠璃の記憶じゃないのか?
それを平然と言うのか?
しかも楓は、瑠璃の友達だろ?
その記憶を消すってことは、瑠璃の存在を否定するってことじゃないのかよ!」
声は震え、もはや悲鳴に近い。
街での日々、笑い合った時間、瑠璃が大切にしていた絆──それら全てを「なかったこと」にするなんて、冒涜だ。
気付けば、風真の頬にも楓の頬にも、そして──聖明の頬にも涙が伝っていた。
「……聖明。もうやめておけ」
後ろに控えていたセレスが、静かに歩み寄る。
「その子の記憶を消したところで、誰も救われやしない」
そう言って聖明の頭を肩に引き寄せる。
張り詰めた糸が切れたように、聖明の腕から力が抜けた。
「楓……!」
その隙を見て、風真は聖明たちの脇を抜け、楓へ駆け寄る。
彼女は泣きながら震えており、風真はその手を握って落ち着かせようとした。
「風真……瑠璃は……死んじゃったの……?」
「……ごめん、楓。話さなきゃいけないことがある」
その一言で、楓は全てを悟った。
もうあの笑顔を見ることはない。
「瑠璃……瑠璃……」
楓は風真にしがみつき、嗚咽を上げた。
──瑠璃、いつものように笑って、会いに来てよ……。
ーーー
重たい空気が沈黙となって部屋を満たし、時間だけがゆっくりと流れていく。
僕たちは聖明の家のリビングで、テーブルを囲んでいた。
最初に沈黙を破ったのは楓だった。
「……ねぇ、教えてほしい。瑠璃に……何があったの?」
その問いは、彼女が一番知りたいはずのこと。
けれど真実を告げれば、ただ「死んだ」という事実以上に、もっと重く、もっと残酷な現実を背負わせることになる。
それに──僕自身の存在についても触れざるを得なくなる。
「……三年前、瑠璃は私のせいで闇に侵食され、それが原因で死んだ」
聖明のその言葉に、僕は思わず立ち上がっていた。
まるで事実を捻じ曲げたような言い方に、胸の奥で怒りが爆発する。
「聖明!お前!!!」
「事実だろ?瑠璃は闇に一切免疫のない、特異体質の天使だった。
私が闇を暴走させた時に傷つけ、それが原因で──」
「いい加減にしろ!!!」
気付けば僕は聖明の胸倉を掴み上げていた。
「それとも何だ?君は自分が何者なのか……言えるのか?」
カッとなった次の瞬間、拳を振り抜いていた。
鈍い音とともに、聖明は頬を押さえながら、不敵に笑ってこちらを見上げる。
──こんなに腹が立ったのは、生まれて初めてだ。
「……こんな陰険な奴だったなんてな。
絶対に許さない!聖明なんて、大嫌いだ!!!」
「……最初から、好かれようなんて思ってないよ」
いちいち神経を逆撫でする物言いに、胸の奥で煮えたぎるものが更に膨らむ。
平然と立ち上がるその態度が、なおさら癪に障った。
「お前ら!いい加減にしろ!」
低く響く声が空気を断ち切った。
座ったまま眉間に皺を寄せたセレスが、僕たち二人を鋭く睨んでいる。
「……聖明。お前も殴られて当然だ。
言いたくないにしても、言い方ってもんがあるだろ」
そう言いながら、セレスは聖明の腕を引き、無理やり席へ戻す。
その間、楓は俯いたまま、両手を固く握りしめて震えていた。
……僕も、彼女を怖がらせてしまった。
怒りに任せた自分の態度が、途端に重く伸し掛かる。
セレスはそんな空気を一瞥し、深く溜息を吐いた。
湯呑を手に取り、一口お茶を啜ってから口を開く。
「……はぁ。
第三者の目線で話したほうが早ぇな。
ただし──俺は真実しか話さない。
それを聞けば、お前らはそれぞれ、受け止めきれない何かを抱えるだろう。
でも、どうせ話さなきゃ進まない。
覚悟を決めろ。
……一度話し始めたら、俺は止まらないからな」
再び沈黙が、部屋を支配する。
それは──誰もが、自分の覚悟を決めるための沈黙だった。
「……教えてください。
私は……瑠璃に何が起きたのか、知りたい」
楓の声は、涙を堪えるせい微かに震えていた。
「オッケー。他の二人は?」
軽い調子のセレスの言葉に、胸の奥でわずかな苛立ちが灯る。
それでも、僕は頷いた。
聖明も、無言のまま小さく頷く。
「わかった。それじゃ──三年前のあの日の話をしよう」
そこから語られたのは、僕も一度は聞いたことのある出来事。
だが今回は、セレスの視点で、淡々と……それでいて一切の誤魔化しのない真実が告げられていく。
堕天使実験。
瑠璃のこと。
エクスシアの正体。
悪魔教徒による襲撃事件。
聖明の暴走。
そして──実の兄を愛した少女が、自ら命を絶ち、悪魔へと転化したこと。
その転化の際、聖明の介入で魂が裂け、その片割れから僕が生まれたこと。
……全てが語られ終えたとき、再び長い沈黙が訪れた。
セレスはその沈黙に頓着せず、新たに茶を淹れ、それぞれの前へ置く。
楓はそのカップを受け取り、そっと息を吹きかけ、口に含んだ。
「……あの馬鹿……なんで相談してくれなかったのよ……」
震える声。
カップを握る手に、自然と力が入るのがわかった。
「お兄さんのこと大好きだって知ってた。
でも……悪魔になるほど追い詰められてたなんて……一言くらい、言ってくれれば……」
その頬を、涙が一筋伝う。
「なんで、何も知らなかったんだろう……。
あんなに傍にいたのに、私……何一つ知らなかった。
毎日、あの日々が続くとばかり信じて、疑いもしなかった……。
……そんな私が、一番馬鹿だわ……!」
僕は、言葉を失っていた。
僕には楓と瑠璃の記憶はない。
二人がどんな日々を過ごし、どんな会話を交わし、どんな関係を築いたのかも知らない。
それに──僕は瑠璃の魂を持ちながら、瑠璃ではない。
どんな顔で彼女に向き合えばいいのか……わからなかった。
「……ごめんなさい。
覚悟はしていたけど……どこから飲み込めばいいのか……。
少し、一人になりたい」
「……わかった」
セレスは短く答えると、立ち上がり、無言の聖明の肩を引っ張り上げる。
「こいつの家ではあるけど……まぁ、ゆっくりしてろ。
何かあったら呼べ。俺たちは二階にいる」
そう言って二人は、リビングを出ていった。
僕も席を外そうと立ち上がりかけた、そのとき──服の裾をつかまれる。
「……風真は残って。お願い」
「……うん」
彼女の切実な言葉に、僕は再び席に戻る。
楓は涙を服で何度も拭い、必死に泣き止もうとしていた。
その姿が痛々しくて、胸がきゅっと締めつけられる。
「……ごめんね、泣いてばかりで」
「そんなことない!それに……僕のほうこそ謝らないと。だって僕は──」
言いかけた瞬間、楓が一本の指を僕の唇にそっと当てた。
「……謝らないで。風真は、何も悪くないじゃない」
困ったように、それでも無理に笑ってみせる楓の顔に、胸が詰まる。
僕は彼女の手をそっと握った。
楓も弱々しく握り返してくれる。
「正直ね、まだ何一つ飲み込めてないの。
話が壮大すぎて、感情が追いつかない。
……瑠璃がいなくなって寂しい。
頼ってくれなかったことに、憤りを感じてる。
瑠璃の親友だと思ってたから、余計に悔しい。
……でも同時に、変な希望も抱いてしまってる。
瑠璃が転化したことは、死より惨いことだと思う。
それでも……また会話ができるんじゃないかって。
悪魔になった時点で別物だって、わかっているはずなのにね……。
風真は、瑠璃の魂を半分持っているんでしょ……?」
「……うん。でも僕は、イレギュラー的に生まれた人格で、瑠璃とは別なんだ」
言葉にして、胸が苦しくなる。
魂の半分を持っていても、僕は瑠璃じゃない。
「そうね。風真は瑠璃にそっくりだけど、男の子だし、性格も違う。
瑠璃だったら……お兄さんを殴ったりできないもの」
「それは……あいつが……」
「……風真は瑠璃じゃない。
でも確かに、ここにいる。
瑠璃のことは悲しいけど、風真と出会えたことは後悔してないの。
だって瑠璃がいなければ、私たち友達になれなかったでしょ?」
小さく震える手から、彼女が無理に気丈さを保とうとしているのが伝わる。
今の僕にできるのは、その気持ちに応えることだけだ。
「楓……ありがとう。友達になってくれて。
瑠璃にはなれないけど、僕にできることなら協力する。
それに……楓と瑠璃の話を、もっと聞かせてほしい」
きっと今の僕にできるのは、知ることだ。
楓のことも、瑠璃のことも、自分自身のことも。
何かを選ぶためには、まず知るしかない。
「ええ、いっぱい聞いてほしい。
……風真、これからも、私の話を聞いてくれる?」
「もちろん。僕も……自分のことを話そうと思うから。だから、いっぱい二人で話そう」
「……約束ね」
「約束だ」
何も解決していない。
それでも、僕たちは生きるために前を向くしかない。
こんなに頑張っている彼女のためにも、僕は僕のやれることを探そう。
「……ねぇ風真、今更だけど……その……手を離してもらえる?」
はっとして慌てて手を放す。
「ご、ごめん!」
「ふふ……瑠璃にそっくりな顔なのに、ちゃんと男の子ね」
「なっ……!僕はちゃんと男だし、きっとすぐ背も伸びるんだから!」
「……きっとそうね」
◇
笑い声と、少し真面目な会話が階下から聞こえてくる。
それを盗み聞きしている大人が二人──聖明とセレスだ。
二階の聖明の部屋。
ベッドの上で体操座りして丸くなっている聖明と、床に腰を下ろし、ベッドに背を預けているセレス。
小さな魔法陣からは、リビングの音が鮮明に流れてくる。
「……若いねぇ」
「セレス、盗み聞きはどうかと思う」
軽く窘められても、セレスは耳を傾けたままだ。
「お前が死にそうな顔してるからだろ。
どうせ記憶を慌てて消そうとしたのも、二人を傷つけたくなかったからだろ。
記憶を消せば、彼女はこれ以上苦しまないし、風真も知らずにいれた」
「それは……」
「お前には悪役は無理だな。
迫力はあるけど、実際は泣き虫で、臆病で、自分を犠牲にしてでも解決しようとする馬鹿だし」
「……うるさい」
「まぁ、あれだけ風真を怒らせたんだ。嫌われる覚悟はしとけよ」
「わかってる!」
聖明は枕を抱きしめ、いじける。
泣きそうなその横顔は、どう見ても子供が拗ねたような顔だった。
「たまには喧嘩しとけ。
お前、俺以外と喧嘩したことないだろ。
ま、変に守ろうとするから空回りすんだ」
返事のない相棒に、セレスは苦笑しながら立ち上がる。
不貞腐れた頭にわざとらしく手を伸ばし、ぐりぐりと撫で回した。
「おい!」
「後は俺がどうにかするから、お前は寝とけ。
身体に闇の刻印が出てる。悪化する前にな」
「……これぐらい……」
「発作起こして俺に面倒かけさせたいのか?寝ろ!」
押し込むように布団をかけると、セレスは部屋を出ていく。
「……もう……何なんだよ……」
一人残された聖明は、胸の奥に渦巻く感情を抱えたまま、窓の外の空を見上げた。
夕暮れの空は、朱と群青が滲み合い、ゆっくりと夜へと変わろうとしている。
雲の切れ間から、かすかな星がひとつ顔を覗かせる。
──届きそうで、まだ遠い光。
その小さな輝きに、どうしようもなく胸が締めつけられた。
伸ばせば届くのか、届かないのか。
答えはわからないまま、聖明はただその光を目で追い続けた。
部屋に広がる静寂の中で、外の風がカーテンを僅かに揺らす。
やがて夜が訪れるまで、彼はずっとその空を見つめていた。
ーーー




