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カゴノトリ  作者: 灯夜 雪


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第9話 君が消えるまで(記録2)

「兄さん! 朝帰りってどういうこと!? もう朝の六時よ!」


こっそり家に入り、自室へ戻ろうとしたところ──情けないことに、瑠璃に見つかってしまった。

ドアの前で追い詰められ、私は思わず目を泳がせる。

当初の予定では、遅くても日付が変わる頃には帰るつもりだった。……これでは怒られて当然だ。


「あははは……えっと、仕事が長引いちゃって……さっき終わったばかりなんだよね」


「今日も昼間から仕事あるのに!? そんな疲れ切った顔で大学行く気!?」


そう――このまま通常出勤が待ち構えている。

現実に引き戻され、スケジュールを思い浮かべると頭が痛くなった。


「今日だけだから! 次から気を付けるよ!」


すると瑠璃は制服の裾をぎゅっと握り、視線を落として呟いた。


「……兄さんまで、父さんと一緒で帰ってこなくなりそう……」


「それはない!」


──しまった。

こんな顔、させたくなかった。

ただでさえ父もいないのに、私はまた寂しい思いをさせてしまっている。


「私は絶対、瑠璃のそばにいる。独りになんてしない。……ごめんね、こんなに心配かけて」


小さな瑠璃を抱き寄せると、彼女も背中に手を回してくれた。


「うん……兄さんが側にいてくれればいいの。

ねえ兄さん、今日くらいは教授の仕事、休めない? そんな疲れた顔してるんだもん……しっかり休んでほしいよ」


頭に浮かぶのは、休んだ場合にセレスへかかる負担だった。

彼は准教授という肩書きこそあるが、実質的には私の助手だ。

……さっきまで迷惑をかけっぱなしだったのに、また重荷を背負わせるのか?


しかし、瑠璃は懇願するように見上げてくる。

私はしばし唸った末、観念して口を開いた。


「……わかった。今日は休むよ」


「うん!」


後で通信魔法で休みの連絡を入れよう。怒られはしないだろうが、埋め合わせは必要だ。

そう考えていた時、ふと今日中に提出しなければならない書類を思い出す。


「あ……代わりではないんだけど、学校に行くついでにセレスに資料を届けてほしいんだ。授業後でも構わないから、お願いできる?」


私が勤めているカゴノトリは、医療大学院と繋がっている。

そして、瑠璃が通う魔法学院の高等部も隣接している。

少し広いが、全て敷地内にある場所だ。

せめて、書類だけでも届けてくれると大いに助かる。


「セレスさんね! 任せて!

兄さんは今日は安心して寝ててね。家で仕事もしちゃ駄目だから!」


そう言って、私の背中を押して部屋に入れようとする。


「わかった、わかったから!」


「夜ごはんも私が作るんだから!」


その言葉に、思わず肩が跳ねた。

瑠璃は超絶的に不器用だ。

料理をしようものなら、なぜか蠢く生命体を生成する。……あれを食べる自信はない。


「る、瑠璃……ご飯ぐらいは私が……」


「私だって成長してるもん! 大丈夫よ! だから兄さんはゆっくりしててね!」


そう言い切ると、可愛い笑顔を見せた。

そして私を部屋に押し込み、ドアを閉める。


「……まあ、いいか。瑠璃の笑顔が見られるなら」


私はベッドに歩み寄ると、そのまま崩れるように倒れ込んだ。

……発作がバレなくてよかった。

見える範囲の闇の刻印はどうにか抑えたが、無理やり鎮痛剤と抑制剤を流し込み、今こうしている。


「……くそ、いてぇ……」


胸が痛い。

それは怪我の痛みだけでなく、自分の無力さが突きつける痛みだった。

それでも――私は耐えなくてはならない。



ーーー



昼下がり、両開きの扉が静かに開き、瑠璃が明るい声を響かせた。


「こんにちは!」


ここは魔法都市大学・闇魔法医療科「カゴノトリ」の教授室。

奥中央には聖明の執務デスクがあり、その手前左右に向かい合わせでくっつけられた二つのデスク。

左側にはセレスの席があり、右側は空席だ。さらに前方には向かい合う二人掛けのソファとテーブルが置かれ、背後の壁一面には天井まで届く本棚がびっしりと並んでいる。

セレスの席の背面にはカウンターがあり、紅茶やコーヒー、ハーブティーの茶葉とポットが整然と並び、湯を沸かせる小さな流し台も備えられている。右奥の扉は仮眠室へと続く。


左側の席から顔を上げたセレスが、少し驚いたように声を掛けた。


「お、瑠璃か」

「セレスさん、資料を渡してほしいって兄さんから頼まれまして!」


「ありがとう。まぁ、散らかってるが入っておいで。せっかくだし、紅茶でも飲んでいきな」

「ありがとうございます!」


瑠璃は案内されるまま部屋のソファーへ腰を下ろす。セレスはカウンターへ向かい、湯を沸かし始めた。


「聖明の調子はどうだ? 昨日は大変だったらしいからな」


「そうなんですよ、セレスさん!

兄さんったら酷い顔色で帰ってきたんですよ!」


湯気が立ち上る中、セレスは瑠璃の前に紅茶を置いた。瑠璃はカップを手に取りながら、眉を寄せる。


「兄さんは昔から無理ばかりするから、無理やりでも休ませないと駄目なのよ!」

「それは同意だな」


 セレスも立ったままカップを手に取り、一口啜る。

 瑠璃は少し間を置いて、真剣な眼差しを向けた。


「……セレスさん、兄さんが何の仕事してるか知ってますか?」


その問いに、セレスは心の奥で小さく息を呑んだ。だが表情には出さず、平静を装って答える。


「聖明は闇を操れる堕天使だからな。他の天使ができない仕事も多い。……俺もついつい頼ってしまっているんだ。今後はもっと気をつけるようにするよ」


「そうですか……セレスさん、堕天使って何でしょうか」


意外な問いに、セレスの動きがぴたりと止まる。


「目が赤いこと、闇を扱える天使だってことは知ってます。それに……不老不死や発作のことも」


 瑠璃は淡々と、しかしどこか切ない声音で続けた。


「兄さん、隠してるつもりだけど無理があるんです。

闇魔法を沢山使ったあと、顔に闇の刻印が出ます。血を吐いているのを見たこともある。顔色が悪い時は、触れるといつも身体が熱い……日記も、読んだことがあるんです。

そこにどれだけ苦しいか、全て書いてありました……」


「……あの馬鹿」セレスが低く呟く。


「でも、兄さんは私には話してくれません。

優しいから、きっと心配かけたくないんだと思います。

だから、私は知らないふりをして笑うんです。……私、不器用で魔力は多いのに上手く魔法が使えません。兄さんのためにできることなんて、笑顔でいることぐらいなんです。

でも、それじゃ駄目だって思いました。最近の兄さん、以前にも増して何か隠してます。仕事が増えて忙しいのかと思ってましたが……発作の回数が増えてるんです。

幾ら不死でも、絶対に死なない保証なんてないじゃないですか!

今日の朝だって発作が起きてた……だからせめて休んでほしくて……」


 瑠璃は強くカップを握りしめ、まっすぐにセレスを見据える。


「……セレスさん、本当はもっと何かあるんじゃないですか!?」


堕天使についての詳細は、一般人には公開されていない。

混乱を避けるため、国家機密として厳重に扱われている。家族であっても、知ることは許されない。特に聖明に関する実験の事実を知る者は限られていた。


「……ごめん、言えない」

「……兄さんに口止めされてるんですね」


「すまない」

「……いえ。きっと事情があると思うから」


瑠璃は俯き、少し震える息を吐いた。セレスは視線を逸らさず、静かに言う。


「言えないけど、俺がどうにかする。……俺があいつを助ける。約束する」

「……!約束ね!……兄さんは幸せ者ですね。

こんなに思ってくれるお友達がいるなんて」


「……その笑顔だ。君のお兄さんは、瑠璃の笑顔が大好きだっていつも自慢してる。あいつに、思いっきりの笑顔を見せてやれ。それだけで、あいつは救われる」


優しい言葉に、瑠璃は目を丸くした。


「……セレスさんって、時折、本当の兄さんみたい」


セレスは思わず固まる。


「兄さん……?」

「あ、えっと……変な話だけど、兄さんの兄さんみたいな……!」

「んー……?」


ふと眉間に触れるセレス。いつも寄っている皺のせいかもしれない。


「兄さんの兄さんなら、私の兄さんってことでもあるね!

セレス兄さん!」

「聖明が焼きもちを焼くから、それは勘弁してくれ」


「ふふ、ではそろそろ帰りますね!

兄さんがおとなしく寝てるとは思えないから、早く帰らなきゃ。

美味しい紅茶、ありがとうございました!」


「頼りないけど、話ぐらいは聞くからいつでも来い。気をつけて帰れよ」

「はーい!」


瑠璃は立ち上がり、扉を開けて部屋を出る。すれ違いざま、一人の女性と目が合った。囁くような声が耳に届く。


「手遅れになる前に、お兄さんのところに行きなさい」


「え……?」


 不思議な気配に振り返ると、そこには誰もいなかった。


「誰……?」



ーーー



 気怠い腕で鍵を回し、扉を開ける。

 そこに立っていたのは、青髪に青い瞳を宿した少女──アクア。息を整えながら胸元から封筒を取り出す。


 彼女は大天使ラファエルの直系にして一人娘、そして私の幼馴染。見た目は十二歳ほどの幼さだが、私と同い年で成人している。


「聖明、すまんな。休みのところを」

「アクア? いや、いい。それより、どうしたの?」

「ラファエル父様から至急報告したいと言ってな。この手紙を預かってきた」

「……手紙?」

「直接渡したかったそうじゃが、昨日お主に会えなかったらしくてな。多忙ゆえ、私が駆り出されたのじゃ」


 聖明は封を受け取り、しばし無言で眺める。指先で封を切る音が、静まり返った室内に小さく響いた。中から数枚の資料を引き抜き、目を通す。


「……は? 瑠璃の、マナバランスの乱れ……?」


 そこには学院内の健康診断の記録が記されていた。


> 貴方の妹・瑠璃のマナバランスに乱れが見られます。

ごく微量ながら、闇の残留を確認しました。

彼女にとって少量の闇は命を落としかねない要因となります。

詳しい話は後程。


追伸 これを見ても慌てませんように。




 一瞬、息を呑む。次いで、手が小さく震えた。


「そんなはずはない……全て、私が引き受けて……!」

「どうした、聖明? そんな血相をかいて」

「今からラファエルに会いに行く」

「ま、待つのじゃ! 今は家におらぬぞ!」

「……多分、ミカエルのところだ」


 短く言い捨て、聖明は家を飛び出した。アクアも慌てて追うが、その声は聖明の耳に届かない。

焦燥に突き動かされるように歩幅は広がり、やがて二人の距離はじわじわと開いていった。



ーーどういうことだ?

瑠璃の闇は毎日欠かさずチェックしている。すべて私が吸収してきた。……見逃しがあったのか。それとも、身体に異変が出始めたのか。

一刻も早く身体測定の記録を──。


「聖明様」


背後から、聞き覚えのある含み声。

振り返った瞬間、鈍い衝撃が後頭部を打ち抜いた。視界がぐらりと揺れ、ふらついた足はそのまま地面へ崩れ落ちる。


「っ……」


「おやおや、やはり昨日の影響が出ていますか。こんなにもあっさり倒れてしまうとは」


背中に重みがのしかかり、身体が床に押しつけられる。

顔を上げれば、二人の男がこちらを見下ろしていた。


「貴様……昨晩、いたな」

「ええ。貴方が弱る瞬間を、ずっと待っておりました」


先頭の男が薄く笑う。


「私はダクネ。あの栄光ある実験で確信したのです。貴方こそ世界を統べるに相応しい──その闇で悪魔を操り、世界に真なる幸福を齎す方だと!」

「……悪魔信者かよ」


発作の余韻が残る身体は、うまく力が入らない。


「偶然にも、家まで迎えに行く手間が省けました。こんな状態で一人でうろつくとは……不用心ですよ」


油断していた。瑠璃のことばかり考え、警戒を緩めてしまっていた。

いつも狙われていると知っていながら──何という失態だ。


「早く麻酔を」


押さえつける男の手に、鈍く光る注射器。


(……まずい! 意識を奪われるわけには──)

「や、やめろ!」


「お前ら、何をしておる!!!」


鋭い声とともに、氷の刃が空を裂いた。アクアだ。

氷魔法が押さえ役の男に直撃し、注射器が床へ転がる。


「聖明、立てるか!?」

「……何とか」


頭から血を流しながらも、ふらつく足で立ち上がる。


「おやおや、タイミングが悪いですね。ラファエル様のご令嬢ではありませんか」

「どこの部署の者だ!? 父様の加護下にある者に手を出すとは、万死に値するぞ!」

「所属など意味をなさない。我らは悪魔信教徒。……それに、加護ねぇ。守れもせず、堕天使実験体にしておきながらとは、笑わせますね」


「実験……?」

「聞くな、戯言だ」


これ以上、私のことで誰かを巻き込みたくない。


「ともあれ、その実験のお陰で貴方は悪魔に献上する最高の贄となった。……いや、言い方を変えましょう。貴方が悪魔に力を与える支配者になるのです」

「……は?」


「あれ、兄さん? こんなところで何やって──」


背筋を冷たいものが走る。聞き慣れた声。

振り向く前に、ダクネが素早く瑠璃の腕を掴み上げた。


「きゃあ!」

「瑠璃!」


「おや、妹君でしたか。ちょうどいい。これで貴方は従わざるを得ない」

「なんと下劣な!」


「……生きて帰れると思うなよ」


瞳が赤く揺らぎ、肌に闇の刻印が浮かび上がる。


「安い挑発に乗るな! 闇を容易に使ってはならぬ!」

「おや、怖い怖い。その殺気をお沈めください。さもないと──」


ナイフが瑠璃の首をかすめ、一筋の血が流れた。

その瞬間、頭の奥で何かが切れた。


「殺す」


闇から伸びた棘の茨が一瞬でダクネを絡め取り、瑠璃は解放されて前へ倒れる。棘はためらいなく肉を裂き、血を滲ませた。


「そのまま千切れろ」


「兄さん、駄目!」

「聖明、駄目じゃ!」


鼓動が跳ね上がり、次の瞬間──吐血が喉を焼いた。


「……ごほっ」


喉の奥が焼けるような咳とともに、辛うじて押しとどめていた発作が再び牙を剥いた。


「く……っ!」


膝が勝手に折れ、足元が揺らぐ。同時に、闇の魔法は霧のように掻き消え、ダクネの拘束が解ける。


「間一髪でしたね」


ダクネが冷ややかに笑う。


「そんな状態で闇魔法を使うからですよ。……これに、ほんの少し闇を足して差し上げれば──発作で完全に動けなくなるでしょう」


影の中からもう一人のエクソシストが現れ、掌には闇のマナが詰まった瓶が何本も握られている。

胸を締め付けられるような痛みが走り、聖明はその場に崩れ落ちた。


「聖明!」


アクアが駆け寄る。続こうとした瑠璃の腕を、聖明がかすれた声で制した。


「……だ、めだ……今、私に近寄ったら……瑠璃を汚染してしまう……」

「大丈夫よ! それより兄さんが──!」

「駄目じゃ、瑠璃!」


アクアが遮る。


「今すぐ逃げて龍とセレスに伝えるのじゃ。ここは私がどうにかするから安心せい」

「でも──!」


「君たち二人とも……逃げるんだ……」


その言葉と同時に、二人の足元に淡く光る魔法陣が浮かび上がる。


「……お主、まさか私たちを転送テレポートするつもりか!?」

「……瑠璃を頼んだ」


「兄さん!」


瑠璃が叫ぶ。その視界の端で、兄はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。

光が弾け、二人の姿が掻き消える。


「助かるかもしれないのに、お二人を逃すとは……お優しいですねぇ、聖明様」

「……うるさい……」


 無理やり顎を掴まれ、顔を上げさせられる。


「これでも飲んで、大人しくしていてください」


闇のマナが口の中に流し込まれ、喉を焼くように落ちていく。発作は一気に全身を襲い、神経が悲鳴を上げる。視界が揺れた。


「念のため、堕天使用拘束具を」

「はっ!」


(……瑠璃……泣いてるだろうな……)

(……あぁ……君の笑顔が……見たい……)


視界は暗く沈み、意識は闇に攫われていく。

遠くで鎖が軋む金属音がした。

その響きが、やがて波に呑まれるように静かに遠ざかっていく──。



ーーー



教授室には、静かな紙の音とペン先の走る音だけが満ちていた。

セレスは机の上の書類を一枚めくり、視線を上げる。


「……実験を止めることはできないのか?」


書類を抱えたまま、対面の龍へ問いを投げる。

龍は眉間に深い皺を刻み、吐息をこぼした。


「……難しい。これは国との取引でもあるんだ」


淡々とした口調だが、その奥には諦めの色が滲む。

龍の説明は長く、重かった。


瑠璃のように闇を一切持たない“光の化身”──エクスシアと呼ばれる存在。

光のマナは大天使をも凌ぎ、ただ生きているだけで土地を浄化し豊かにする。

だが、その代償はあまりにも残酷だった。闇への耐性がなく、わずかな影でも命を削られる。

守るためには完全に隔離された光の環境で生きるしかなく、それでも二十歳を迎える前に衰弱して死ぬ。


「セレスも知ってると思うけどさ……それを聖明は、特例措置で救おうとしてる。堕天使の力で瑠璃ちゃんの闇を管理し、延命できるか賭けてるんだ」


「どう足掻いても実験を止めるってことは……」


「そう。瑠璃ちゃんの命を諦めるってことだ。聖明には、そんな選択……できない」


セレスは、唇を噛みしめた。

胸の奥に、怒りとも悲しみともつかない熱がこみ上げる。


「……なんであいつの人生には、まともな選択肢がないんだ」

「聖明だけじゃない。堕天使は皆、何かしらの誓約を強いられる。同意しなければ封印措置だ」

「共存じゃなく、押さえつけることしか考えないのか……」

「わからない力を持つ者は排除する。それが叶わなければ首輪をつけて管理する。……人の弱さと愚かさだな」


その時だった。

足元に、淡い光の魔法陣が浮かび上がる。


「……ん?」


問いかける間もなく、頭上から光が弾け、二つの影が降ってきた。

アクアと瑠璃──二人は勢いよく龍とセレスの上に落ち、そのまま四人が床に倒れ込む。


「アクア!?」

「……瑠璃?どうして……」


瑠璃の頬に、透明な涙が一筋。

息を震わせながら、彼女は絞り出した。


「兄さんを……助けて……!」


その言葉が空気を裂く。

アクアは唇を噛み、怒りに震えていた。


「私が付いていながら……! 聖明は悪魔信教に!」


セレスは即座に立ち上がり、ドアへと向かう。

しかし龍が腕を伸ばして制した。


「待て! まずは状況整理だ!」


セレスは足を止め、深く息を吐く。

泣きじゃくる瑠璃に歩み寄り、その肩をそっと掴んだ。


「大丈夫だ。必ず助ける」

「……うん」


瑠璃の涙に濡れた頬を見た瞬間、セレスは息を詰めた。

淡い光の下、彼女の肌に薄く闇の刻印が浮かび上がっていたのだ。


(……自らの闇で身を滅ぼす……時間が、ないかもしれない)


その緊迫を破るように、扉がノックされた。


「失礼するよ」


低く落ち着いた声と共に、扉が開く。

入ってきたのは、アクアと同じ髪色と純白の衣を纏う大天使ラファエルだった。

ラファエルは静かに一歩踏み入れた。

その金色の瞳が、部屋の全員を順番に見渡す。


「……事態は良くないようですね」


その声は穏やかだが、空気を揺らすほどの重みがあった。

アクアが立ち上がり、緊迫した声で告げる。


「父様、聖明が……!」


ラファエルは頷き、掌に光を集める。そこに現れたのは、くたびれた茶色のぬいぐるみ──パニョだった。


「……おおよその事態は把握しています。あの子自身からの伝達がありました。意識を失う直前、闇を媒介に人形を送るとは……器用なものです」


瑠璃はその人形を見るなり、駆け寄って抱きしめた。

「パニョくん……!」

ぬいぐるみは小さく震え、瑠璃の腕の中で足を動かす。


ラファエルはそれを眺めながら口を開いた。


「この人形は面白いですね。言葉は交わせませんが、聖明と意思を繋げる力を持っているようです。ただ、今は深く意識が沈んでおり、直接の交信は不可能でしょう」


アクアは息を整え、続けた。


「ダクネとか名乗る悪魔教信者が……あの口振りだと、聖明を悪魔に引き合わせるつもりだと思うのじゃ。しかも変な奴が言っていた……“悪魔に力を与える支配者”だと」


その言葉に、ラファエルの眉がわずかに動いた。


「……過去に、天使から大悪魔へと変化した者がいました。彼の名はルシファー。悪魔となってからはサタンと呼ばれ、最も神に愛された存在でした」


セレスは眉をひそめる。

「……ルシファー……」


ラファエルは淡々と続けた。


「五百年以上前の天地戦争で消滅しました。しかし彼の名を信奉する者は未だ多く、闇の世界では今も密かに戦争が続いている。恐らく連中は、戦況を変えるべく“第二のルシファー”を人工的に生み出そうとしているのでしょう」


「そんなことが可能なのか」セレスが問う。

「不可能でしょう」ラファエルは首を振る。


「そもそもサタンは転化したのではなく、神によって地に落とされた。私たちが言う“堕天使”とは根本的に異なる存在です」


そこで龍が静かに口を挟んだ。

「……だとしても、彼らが勘違いしているのなら、まずは転化させる必要がある。闇が暴走しても感知されず、しかも継続的に闇を流し込み続けられる場所……」


「……都市内にそんな場所があるのか?」ラファエルが低く尋ねる。

龍は一拍置き、口を開いた。

「……対闇幽閉施設」


「なんじゃ、その物騒な施設は」とアクアが眉をひそめる。


龍は、少しだけ言いにくそうに説明を始めた。


「軍事部で建設中の施設だ。本来は悪魔を即座に浄化・消滅させるけど、それだと情報が集まらない。

だから、一時的に幽閉して拷問し、情報を引き出そうという……。

聖明の実験でラボが何度も壊れているから、完成後は試験的に使おうという話も……」


「おい」セレスが低く唸り、即座に龍の口を塞ぐ。

「この馬鹿……実験のことは言うな」


しかし、瑠璃の瞳はすでに揺れていた。

「……実験って、何……? 兄さんに、何をしたの……?」


龍が言葉に詰まった瞬間、ラファエルが咳払いをした。

「……今は救出が先です。全てが終わったら、私から説明しましょう」


その声音に、反論できる者はいなかった。


セレスは小さく息を吐き、龍の頭を軽く叩く。

瑠璃は唇を結び、頷いた。


ラファエルは、迷いのない声で指示を出す。

セレスと龍は先行し、アクアは指揮を。瑠璃はラファエルと共に残る。


「兄さん……どうか、無事で……」


瑠璃の小さな祈りは、白い羽音と共に静かに空へ溶けていった。



ーーー

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