第9話 君が消えるまで(記録1)
三年前の出来事が明かされる。
私は妹の瑠璃と、穏やかな日常を過ごしていた。
母は瑠璃を産んで三年後に亡くなり、父は男手ひとつで私たち兄妹を育ててくれた。けれど、年を重ねるにつれ父は仕事に追われ、今ではほとんど家に帰ってくることはない。
二十歳になった今、私は表向き“闇魔法医療科 《カゴノトリ》教授”という名誉ある肩書を得ている。
と言っても、実力で勝ち取った座ではない。
私はクロスロード・ナイトメア生まれ変わりで、生まれた瞬間から彼が座していた椅子に……カゴノトリのトップとして立つことが決められていた。
カゴノトリのトップと言うことは教授としての仕事だけでなく、軍事業務もある。
そのせいもあり、緊急の呼び出しも多く、昼夜逆転の生活が当たり前になっていた。
「兄さん、何を書いているの?」
振り返れば、愛くるしい笑みを浮かべる自慢の妹・瑠璃が立っていた。
私は日記を閉じ、彼女に微笑みかける。
「日記だよ。瑠璃との毎日を書き留めておきたくてね、ずっと続けてるんだ」
「な、なんか恥ずかしいよ」
頬を赤らめ、指先で裾をつまむ瑠璃。私はその頭をそっと撫でる。
「私も見られたら恥ずかしいから、見ちゃ駄目だよ?
……さて、もう行かないと。仕事に行ってくる」
夕方――少し変な時間だと自分でも思う。
「最近、お仕事忙しすぎない? 教授ってこんなに大変なの?
夜勤も増えてるし……無理してない? 私、心配だよ」
その声は穏やかだったが、どこか不安の色が混じっていた。
「……ごめんね、心配かけて。大丈夫だよ。疲れたら瑠璃に甘えさせてもらうから。
そうだ、次の休みは瑠璃の行きたい場所に行こう」
「……うん!」
満面の笑み――それだけで、私はまた頑張れる。
「いい子だ」
必要な荷物をまとめ、リビングを出る。
瑠璃も見送りのため玄関へついてくる。
「あ、兄さんっ……!」
「……?」
不意に、瑠璃は立ち止まり、戸惑ったように視線を泳がせた。
「……なんでもない。気を付けてね」
「ん、わかった。夕食は作ってあるから、ちゃんと食べて寝るんだよ」
「うん」
その返事を聞き、私は玄関を出た。
――あのとき、すでに気付いていたのかもしれない。
いや……気付きたくなくて、見ないふりをしていたのかもしれない。
ーーー
無機質な廊下を、案内役に導かれ黙々と歩く。
ここは表向き“魔導具生産工房”とされているが――実態は違う。
公にできない実験を行う、堕天使専用の研究施設。
地下に主要区画があるため、今歩いている廊下に窓はない。
白い壁と白い床、そして魔石灯の淡い光だけが、息苦しいほど無機質な空間を照らしていた。
「聖明、こっちだ」
「ん」
幼馴染の龍に促され、私は白い通路を進む。
足音が反響する中、龍が重い口を開いた。
「……聖明、こんなこと、もうやめにしないか?」
それは何度も耳にした言葉だった。私はいつも通り答える。
「何を今さら。これは望んだことだし、私には選択肢なんてないよ」
苦虫を噛み潰したような顔の龍に、笑顔を返す。
一瞬、泣きそうな表情を見せた彼は、すぐに冷静を装い、重苦しい鉄と魔石でできた扉を押し開けた。
中には二つの部屋がある。
ひとつは魔導機械が並ぶ広い部屋。白衣を着た研究員が六人、それぞれの持ち場で忙しなく動いている。
中央のソファには、金髪と翡翠の瞳を持つ大天使──ミカエルが、王のようにふんぞり返り、不敵な笑みを浮かべて私を見た。
もう一つの部屋は、ガラス越しに見える実験室。
白を基調とした内部、その中央に、人を拘束するための椅子が据えられている。背面からは複数の管が伸び、天井を伝って研究室側へと繋がっていた。
──私が、これから繋がれる椅子だ。
「お連れしました」
龍が緊張した声で告げ、一礼する。ミカエルは片手を挙げ、龍を側近のように立たせた。
「やあ、今日も律儀に来たね、クロス」
その呼び名に、胸の奥がざらつく。
「……前世の名で呼ぶな。私の名は聖明だ」
彼は私を“見よう”ともしない。だから私も、前世と同じく呼び捨てで返す。そうでもしないと、彼は反応すら寄こさない。
「今の名なんて興味はないさ。さて──今日も有益な堕天使の肉体で実験を始めようじゃないか」
ミカエルが関わる時は、ろくなことがない。
冷や汗が背筋を伝うが、表情には出さない。弱みを見せれば、彼は喜ぶだけだ。
「……わざわざ哀れな姿を見に来たのか? ミカエル」
「まるで私がお前ごときに興味があるような言い方だね。憎たらしい。私は大天使の一人であり、この施設の責任者だ。たまには現場視察もしなくては」
白々しい。普段は何があっても関与しないくせに──。
「ミカエル様」
龍が相槌を打つように声を掛けると、ミカエルは軽く手を振った。
「すまないね、時間を取らせた。構わず始めてくれ」
その合図で、白衣の研究員が一人、私を実験室へと案内する。
「紅教授、こちらでお着替えを」
「……ああ」
更衣室などない。動物を観察するような視線に晒されながら、白いワンピース型の病衣へ着替える。
ため息を押し殺し、監視付きの実験室中央──あの椅子に腰を下ろす。
すぐに三人の研究員が入り、手足をベルトで固定。左右の腕に、それぞれ点滴針が刺さる。
管や魔導機械の作動音が、静寂に重く響いた。
バインダーを抱えた研究員が、私の前に立つ。胸元には、黒い両翼と中央の赤い宝石──堕天使実験科学班の徽章が光っていた。
皮肉すぎて、吐き気がこみ上げる。
「聖明様。本日は血液サンプル採取後、闇のマナを直接体内に注入します。
今投与した一本目は鎮痛剤。もう一本は、魔導機構で量と速度を管理した闇マナです。状態に応じて調整します」
「……わかった」
──濃縮闇マナ。注射一本で動けなくなるほどの発作を引き起こす代物だ。
今日はそれを、機械管理で“好きなだけ”流し込めるようにするという。
……やはり、ただでは帰れない日だ。
ガラスの向こうで、ミカエルが足を組みながらこちらを見ていた。
「魔力暴走を起こした時の準備は、してあるのかな?」
現場監督と思しき男が、腰を低くして答える。
「もちろんです。部屋全体に対堕天用の結界を幾重にも張っております。異常を感知すれば、即座に魔力遮断と制御の術式が発動する手はずです」
遮断と制御──魔力を封じ、吸収する仕組みか。
これをやられたら、確かに何もできないだろう。
「結構」
ミカエルの口元に浮かぶのは、嫌な笑みだった。
現場監督が前へ出て、声を張り上げる。
「これより闇への耐久測定を開始します! 悪魔は今や最大の敵。我々が光と闇、相対する存在として戦っても、勝敗は平行線のまま……。この状況を打破するため、悪魔の根源たる闇を知らねばならない。堕天使という希有な存在のおかげで、我々は悪魔以上に闇を探求できる。そしていつか、天使も堕ちることなく闇を御する日が来るでしょう!」
……茶番だ。
私の周囲にいたエクソシストは部屋を出て、ガラスの向こうに下がる。現場監督が合図を送った。
「よし闇マナを流せ」
「……っ!」
冷たい闇が、血管を這うように全身へ侵入してくる。
同時に鼓動が激しくなり、手の甲に闇の刻印が浮かび上がった。
鎮痛剤など気休めにもならない。
身体が──熱い。
「5%…10%…」
「脈拍・体温上昇、闇の刻印を確認」
「15%」
「聖明様、まだいけそうですか?」
冷や汗をかきながら顔を上げる
私の限界なんてどうでもいいくせに。
「さっさとやれ」
この返答を聞いた瞬間、更に一気に闇が入り込む。
「かはっ!」
発作が起き始め、直ぐに吐血をする。
血管があちこちで弾けるのがわかる。
その度に身体が再生を繰り返す。
ああー……視界が揺らぐ。
「45%」
「脈拍危険域です!」
自身の闇が制御できず部屋に漏れ出始める。
茨の形をした闇が、私を中心に蠢いているのがわかる。
ダメだ……制御できてない……。
「ちっ!ここまでか!魔力遮断を……っ」
「待て」
現場監督の声を遮るミカエル。
「あいつは不老不死だ。もう少しいけるだろう。1回心臓が止まっても問題ない。」
その言葉を聞き流石に血相を変えた龍は声を荒げる。
「ミカエル様!お待ちください!聖明が完全に暴走すれば、周囲一帯吹き飛びかねません!」
彼の抵抗も虚しくミカエルは鼻で笑うように言い返す。
「我が息子よ、私を誰だと思っている?私がいるんだ。暴れれば、クロスの制御ぐらいしてやろう」
龍が慌てた様子で私を見る。
視線が、合った気がした……。
「続けなさい」
無情な命令が私の耳にも届く。
「は、はい!では、更に徐々に上げろ!」
「46…47……48……」
容赦なく入り込む闇に頭が破裂しそうだ。
視界がぐるぐる回る。
私は何をしているんだ?
どうしてこんな……。
茨から薔薇の花が咲き乱れ始め形を形成していく。
「ぁああっ、くっ…あ……ッ!」
息ができない。寒い。熱い。
痛い、苦しい。
茨から咲き乱れる闇の薔薇──その光景に現場監督は恍惚と震え、龍は怒声を浴びせる。
「美しい……!」
「この変態が……!」
しかし、耳には届いていない様子。
「ふ、随分耐えるじゃないか」
ミカエルが立ち上がり、ガラス越しに低く囁く。
「本気を見せろ──クロスロード・ナイトメア」
次の瞬間、呼応するように闇が爆ぜ、床に亀裂が走り、ガラスにヒビが入る。
そして、闇の茨が聖明を包むように動くと椅子や管、床の一部までも消し去り、その場で立ち尽くしている。
先程の苦痛に歪んだ顔は消え、虚ろな目で、歪んだ笑みを浮かべた。
明らかに普通ではない。
「まずい!今すぐ魔力遮断しろ!」
現場監督は危機感を感じ慌てて指示を出す。
しかし──
「機器が反応しません!」
闇の薔薇で機器は破損しており、魔力遮断も制御も機能していない。
「バカが!お前らエクソシストだろ!堕天使制御用の魔法を発動しろ!」
現場監督声を荒げながら指示をすると、ハッとしたようにその場にいる全員が聖明に向け魔法の詠唱を始めるが、その一人が闇の茨に弾かれ絶命する。
「ひいいい!」
他の研究員は驚き、恐怖をし、腰を抜かし始めるものも出始める。
その様子にミカエルはニヤリと笑う。
「おやおや、流石に私の出番か?」
ミカエルが魔法でガラスを割り、闇の中に踏み込む。
そして、聖明に手を伸ばし一言。
「崩れろ」
重力が圧し掛かり、私は地面に叩き落とされた。
「あ"ぁ"っ……!」
「なあ、クロス。それとも小僧のままか?この体の中に君の欠片は残っているのか?」
そう言いながら、黒髪を乱暴に掴まれ、顔を上げさせられる。
「み、か……える……」
「うん、私だよ。クロス」
「……地獄に落ちろ」
「………こんなやり方じゃ駄目か」
ミカエルは聖明を躊躇なく壁へ叩きつけた。
鈍い衝撃音とともに、壁に深い亀裂が走る。
気を失ったのか、闇は徐々に薄れ、暴走が止まった。
「聖明!!!」
龍が駆け寄り、抱き起こす。
刻印が全身に浮き、血に塗れたまま、かすかに口が動いた。
「聖明、しっかりしろ!」
「……りゅ……う……」
龍と聖明の様子を横目に、ミカエルは溜息をつき、現場監督へ向き直る。
「今後は闇は四十五%までに設定しろ。
実験時は堕天使の身体に魔法制御装置と拘束具を追加しろ。ないよりはマシだ。……それと、この施設は暫く使えん。次の実験の準備は滞りないか?」
現場監督は敬礼し、声を張った。
「は、はい!同等のラボがもう一つと、現在建築中の対闇特化の幽閉施設がございます!完成すれば悪魔の尋問にも活用できるかと!」
ミカエルは愉快そうに笑う。
「そうだったな。できるだけ建設を急がせろ」
「承知いたしました、ミカエル様!」
鼻歌交じりに部屋を出ようとしたミカエルは、ふと足を止め、振り返った。
「ああ、そうだ。この実験は国家機密だ。こんな非人道的な実験が外に漏れた日には、君たち全員の死をもってしても足りぬ。口外は一切禁ず」
研究員たちは青ざめながらも、死者一名を除き整列して敬礼する。
「そ、それは重々承知しております!命を落とすことも覚悟の上で志願しておりますゆえに!!!」
ミカエルは満足げに頷く。
「ならば良い。……龍」
名を呼ばれた龍は、視線を向ける。
「そいつの面倒は任せた。流石にこのまま返せば、愛しの妹君が心配するだろう。君のラボで看病してやれ」
「……はい」
そこへ、慌ただしく一人のエクソシストが駆け込み、敬礼した。
「ミカエル様!ラファエル様が至急お目通りを、と!」
ミカエルは深く溜息をつく。
「……どうせ、いつもの抗議だろう。大天使の一人だ、無下にはできんのが面倒だ」
彼は一度だけ、気絶している聖明を見やり、静かに呟く。
「愛しいクロス……また会おう」
軽快な足取りで、鼻歌を響かせながら実験室を後にした。
ーーー
──遠くで……誰かの声がする。
意識が朦朧とする中、全身に激痛が走った。
また吐血したのだろうか、口の中は鉄の味が広がっている。
息がうまくできない。
「……! …!」
……誰? ごめん、よく聞こえない。
「……くそ、後で文句言うなよ!」
唇に柔らかな何かが触れ、喉に冷たい水が流れ込んできた。
どうやら口移しで水を飲まされているらしい。
だが次の瞬間、急激な吐き気が込み上げ、そのまま吐き戻す。
視界がわずかに明るくなり、ようやく目を開けた。
「……ぁ……れ? セ、レス……? ぐ……っがッ!?」
再び胃から血がこみ上げ、咳き込みながら吐き出す私。
そんな私の背を、嘔吐物を浴びながらもセレスは必死に擦ってくれる。
「もう大丈夫だ、吐けるだけ吐け!」
「お湯持ってきたぞ!」
廊下から桶を抱えた龍が慌てて飛び込んできた。
「けほ……りゅ、う……?」
目が合うと、龍は桶をテーブルに置き、その場にへたり込む。
「っ! あーーーもう、心臓に悪い!」
……かなり迷惑と心配をかけたようだ。
霞む視界を細め、私は周囲を見渡す。
血で汚れたベッド。
右にはソファー、左には見慣れた円形テーブル。
窓はカーテンが閉ざされており、まだ夜らしい。
ああ、ここは──
「俺の家だぞ。少しは意識、はっきりしてきたか?
本当は龍のラボに搬送される予定だったらしいけど……」
「それはやめた。俺のラボはミカエル様の監視下だ。
そんな場所にお前を置けるかよ……」
涙目で訴える龍。
それを見たセレスは溜息をつく。
「……だそうだ」
「あ、れ……?」
目は覚めてきたが、なぜこうなったのか思い出せない。
頭を働かせようとしても、ガンガンと痛みが響き、思考が絡まる。
「無理に考えるな。まだ熱が下がってない」
そう言って、セレスは血で汚れたシャツを脱ぎ捨てた。
自分の手元を見ると、点滴が刺さっている。
鎮痛剤と抑制剤の袋がスタンドにぶら下がっていた。
……そうだ。私は実験で、発作が起きて……。
「聖明、大丈夫か?」
心配そうに覗き込む青と銀の瞳。
それを見ると、不思議と胸が落ち着く。
「……ありがと。息、できてるから……多分、平気」
「なんだそれ。……まあいい、無理すんな」
困ったような笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でるセレス。
彼はタンスから服を取り出し、シャツを着替えると水差しからコップに水を注ぎ、手渡してくれる。
「とりあえず口をゆすげ。血で気持ち悪いだろ」
促されるまま、医療トレーに吐き出す。
口の中が少しだけすっきりした。
「龍、聖明の着替えは?」
「ラボから持ってきた……これだ!」
龍がカバンから衣類を取り出し、棚に置く。
その時、改めて自分の姿を見下ろす。
……酷い。
何度も吐いた血で全身がぐっしょり。
病衣の白さなど、どこにも残っていない。
「動けるか? 可能ならシャワーぐらい浴びたほうがいいが……」
セレスの提案に頷くが、手足は重く、上体を起こすのがやっと。
痺れと震えで力が入らない。
刻印もまだ浮き出たままで、発作が完全に止まっていない証だ。
「……ごめん、立つのは……無理かもしれない」
「しゃーない。後で身体を拭いてやるから、その後で着替えろ」
「……本当に、ごめん」
「気にすんな。……と言っても、毎回これだと肝が冷える」
眉間に手を当て、苦い表情のセレス。
龍も同じように疲弊した顔をしていた。
……どれだけ心配をかけているのか。
そう思うと、涙がこみ上げそうになる。
「で? 何でこんな惨状になった。……過去一番酷い発作だったぞ」
セレスの声には、はっきりと怒気が滲んでいた。
龍はバツの悪そうな表情を浮かべ、重い口を開く。
「今回はミカエル様が指揮を取ったんだ。
いつもなら危険域に達する前に止めてる。
……だけど今回は、聖明が暴走するまで止めなかった」
その瞬間、セレスは棚を思い切り殴りつけ、木材が派手な音を立てて割れた。
その音に、私も思わず肩をすくめる。
「何なんだ、あいつ……! 何がしたいんだよ!」
「……ミカエルは、私の前世に固執している。
堕天使は不老不死だけど、極稀に転生する。
私の前世は──クロスロード・ナイトメア。
ミカエルの親友だった人の魂を受け継いでいるからだと思う。
クロスはミカエルに黙って、私と魂を融合させた。
……だから、私の中の彼を探しているんだろう」
その証拠に、ミカエルは私の名を一度も呼ばない。
呼ぶのは、いつも「クロス」だけ。
「ふざけるな!
堕天使は悪魔との戦いの切り札だなんて歌っておきながら、
実際は私利私欲で、こんな非人道的なことをしてるだけじゃねぇか!
何が“闇の解明”だ、“不老不死の解明”だ!
……これじゃ、どっちが悪魔かわかんねぇだろ!」
セレスの怒りに、私は何も言えなかった。
龍もまた、苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。
それに気づいたセレスは、はっとして壊した棚に修復魔法をかけた。
「……悪い。お前らに言っても仕方ないな」
「いや、巻き込んだ私が悪い。……ごめん、二人とも」
龍は何かを決意したように、私の傍まで歩み寄る。
「聖明……ミカエル様の犬である俺が言うのも何だが、このままじゃお前、肉体どころか精神が壊れる。
……できれば、逃げてくれ。頼む」
龍はいつも、私が逃げることを望み、そう口にしてくれる。
でも──
「ありがとう。でも、それだけはできない……ごめん。
……知ってるだろ? 瑠璃のためにも、私はここに残らなくちゃいけない」
瑠璃は、ここ以外では生きられない。
平穏に暮らすためには、私が犠牲になるしかない。
それが、私と国との契約だから。
「……なあ、妹を連れて出ることは無理なのか?」
私は静かに首を振った。
「瑠璃は……天使の中でも稀有な、光属性の塊みたいな存在なんだ。
この魔法都市は外界と違ってマナが浄化されてる。
それでも、日常の中にある小さな闇でさえ瑠璃には毒だ。
私がそばで闇を引き受けているからこそ、隔離施設に幽閉されずに普通の生活を送れている。
……私は、瑠璃に普通の生活をしてほしい。
ただでさえ短命なんだ。……私のエゴだってわかってる。
でも、この身を犠牲にしてでも守りたい」
──私には、瑠璃がすべて。
大切な、たったひとりの妹。
セレスは桶にお湯を汲み、タオルを絞った。
「……今はまだ、付き合ってやる」
そう言って私の横に腰を下ろし、顔をガシガシと拭いてくる。
「んぐっ!?」
「……だけどな、これ以上は許容できない。
俺はお前のパートナーだ。こんなクソみたいな国より、お前のほうが大事だ。
今度、こんな姿で戻ってきたら……俺は聖明を選ぶ。
エクソシストに追われてもいい。ここから連れ出す」
そう言い終えると、再びタオルを絞った。
……セレスの想いは痛いほどわかっている。
だから、私はただ頷くしかなかった。
──私は、なんて酷い人間なんだろう。
こんなにも皆を不幸にしているのに、どうしてもその手を振り払えない。
「ったく、考えても仕方ねぇ! 暗い話はここまでだ。
さっさと身体を綺麗にして、治療魔法をかけるぞ。
腐っても俺は医者の端くれだ。朝には帰らないと妹が心配するんだろ?」
「……ありがとう」
本当に、彼らには敵わない。
こんなどうしようもない私に、優しくしてくれる。
だからこそ……心が、より痛かった。
ーーー




