北辺にて、決断の記憶
昼の陽光で溶けた雪が、夜の冷え込みで氷結している。
(さすが「氷尖眼」。巨大な邸だ。)
|巴雷醒袖屯《ハライ‐セイシュ―トン》は、呪軍占辮邸の庭園を騎馬で進む。裏門から邸の搦手口までゆうに百mある。
渤方特有の針葉樹が夜空を突き、その梢が三月の三日月に照らされて、まさに剣山の如し、鋭く連続していた。幾何学的に剪定された樹々の間に、奇岩が屹立し、変化を与えている。
(この庭園は、ここの主人が乗り移ったのか。あの人そのものだ。)
北の辺境にある大渤帝国は、その版図がすっぽりと亜寒帯に属し、三月はまだまだ寒い。今宵は雪こそ降らねど、北の向渤高地からここ帝都寥林に吹き下ろす風は痛いほど冷たく、凍った根雪と相まって、必要以上に庭園が冴え冴えと見えた。巴雷醒袖屯は筆で引いたように細くて形の良い眉を、思わずハの字にしかめながら、熊毛皮の外套をかきよせる。
花崗岩で仕上げられた巨大邸宅の前で下馬し、待ち受けていた侍童に誘われて入館すると、醒袖屯は毛皮を渡して、石廊を延々と進む。袍がひるがえる度、細く引き締まった身体の線がうかがえる。
「来る頃だと、思っていた。」
主人の居室に着くや、矍鑠と立ちはだかる老人が凛とした声を投げかけてきた。
巴雷醒袖屯は無意識に、背筋を正す。
「これは老龍眼っ。お元気そうで何よりで御座います。そんな、私などにそのような、どうかお座り下さいませ」
「たわけ。まず、わしは元気ではない、病は深い。しかし、州都相を迎えるに礼が出来ぬようなら、死んだがまし。醒袖屯殿こそ、そこへ座られよ。」
パキパキと木の枝を折るように話す、この老人こそこの豪邸の主人、呪軍占辮である。大渤帝国建国の功臣、|呪軍掠掠《ジュグン‐リャクリャク》の嫡流にして、帝国の第一大臣、絶大な権限を有する「老龍眼」。
かつて隆々と盛り上がっていた大胸筋や上腕の筋肉はさすがに細くなっているものの、針葉樹のように直線的な立ち姿は健在で、確か齢七十四になる筈だが全く歳を感じさせない。高い頬骨で影になった落ち窪んだ小さな目は、炯炯と光る薄茶の瞳を潜ませて、まったくこちらの緊張を高めるばかりであった。
巴雷醒袖屯は強張る体をきしませながら、指示に従って炕の上に座る。座面は暖かいが、心はまったくほぐれない。
「親子げんかは済んだか?」
呪軍占辮は、醒袖屯が座るのを見届けてから自らの席に腰を下ろし、侍童に目配せをした。
「いえ、父は最早言葉が分かりませぬ。」
「そうか。」
茶が湯気を立てて運ばれてきた。素早い。呪軍占辮は針のように目を細めながら、頷いている。それを横目に見ながら巴雷醒袖屯は茶に目を奪われる。
「お。原方の乳酪茶ですか。これは美味そうな。」
「支配はせずとも、モノは手に入る。帝国が無理をせんでも、商人が山を越えてくる。」
茶碗を掴む老人の手は、皮膚がすすけていたが、節くれた指は骨太で相当な握力が想像できた。この指が差し示す方向に従ったお陰で、我が北辺の帝国は道を過たずに歩いて来れたのだ。そう思うと同時に、廃人と化した父の顔が脳裏をよぎる。巴雷醒袖屯は、ぴちゃり、とわずかな音を立てて乳酪茶をすすった。
(呪軍占辮は確かに冷淡だが、それを「氷尖眼」などと罵って憎んでいた父はどうだったか。とても帝国を任せられる器量ではなかった。)
呪軍占辮の目が、もう一段冷たさを増した。
「で。」
「あ、はい。」
巴雷醒袖屯は茶碗を置いて唇を舐めてから、居住まいを正し、鋭い目で本題に入るように促した呪軍占辮に、正対した。
「先月の同盟締結、いつもながら迷いなく果断、敬服致します。」
「庇州との盟約だな。」
呪軍占辮の目は窪んだまま瞬きせず、醒袖屯を睨みつけているように見える。
「はい。尼乎磊は傑物です。」
「そう思うか。で。些帝は如何おっしゃっている?」
「大渤帝国の為、最善の判断とのお言葉です。」
「む。」
呪軍占辮がまぶたを降ろし、小さな目が針のように細くなった。
「早々に尼乎磊は因州、秦州を併呑しました。かの『穣界皇』美獣公もこれ程の速度はありませんでした。やはり諸国流浪で舐めた艱難辛苦が、かの貴公子を鍛え上げたのでしょう。」
額の皺をぎゅっと寄せ、呪軍占辮が唸る。
「やけに肩を持つ。塊家も美家も、まだ残党が残っておる。闔州の若造も力が有りおるし、それこそ尼乎磊の奴にはまだまだ艱難辛苦が待ち受けておるぞ。」
「老龍眼。」
巴雷醒袖屯は少し冷めた乳酪茶を舐めると、ふと勇気が湧いて、老人の冷たい目を覗き込んだ。
「なぜ、因州を獲りませんでしたか。」
「なに?」
「かつての盟友国を踏みにじるのは道義にもとりますか。」
思い切って言ってみた。しかし、呪軍占辮は怒りはせず、一瞬不思議そうに醒袖屯を見つめたが、すぐに、
「わしを試すか。そんなことをしたら大渤の信は地に堕ちる。まあ、そうは言っても、美家のことは見殺しにしたがな。」
と言って、笑った。
いや、正確に言うと、顔はしかめ面のままだが、声が少し弾んだようだった。
「かつて亞帝が穣界に侵攻して戦場の露と消えられた事を、大渤帝国は未来永劫忘れてはならぬ。豊族のことは豊族に任せること。」
「そして、原方のことも、原方に任せること。」
「そうだ。」
茶碗を傾け、老人はのどを鳴らす。喉仏を上下させながら、また眉根を寄せた。
苦しげであった。
「醒袖屯、此度の渤庇同盟は、私の最期の決断になるだろう。」
「そんな。」
弱気になったか?
氷の如く冷たい老龍眼が、こんな湿っぽい言葉を吐くのは醒袖屯が聞く限りで初めてだ。
「ふっ。」
老龍眼は無表情のまま、吐息だけで笑う。
「貴殿の父君に『氷尖眼』と賞賛されたこのわしも、老い先短く、最早帝国の舵を握れぬ。」
「ですから、そのような。まだまだ我らを指導下さい。」
「来月より、貴殿が龍眼ぞ。」
「え、え?」
巴雷醒袖屯は驚きの表情を浮かべた。本当に驚いたのだが、先日皇帝に謁見した際の空気感から、鼎龍のいずれか、そう、龍牙あたりに就くのでは、と予感はしていた。
しかし、龍眼とは。
「貴殿は巴雷家らしく、武勇に秀でている。その一方で、非常に素直な目を持っている。目が曇らず、惑わされず、ものの本質のみを目の前に抜き出すことができるのだ。わしにはもう、できぬ。」
「私はまだ三十四です。経験ある呪軍占辮様の後を継ぐにはあまりに器量が不足。」
「二千年の歴史も一気に崩壊する時勢ぞっ。」
この老人、弱ってなぞいない。
呪軍占辮の凍てつくような目線を受けて、一瞬でも老人を見くびった自分が悔しかった。体が金縛りにあったように痺れた。
「経験なぞ通用せぬ、いや過去の実績があればある程、その者の滅亡は早い。そんな世の中になったのよ。あの『穣界皇』がたった一日で奈落に落ちていったのだぞ。よいか、貴殿をおいて龍眼の後継者はおらぬ。」
「はっ」
「大渤帝国の為に柔らかく。柔軟にな。些帝とともに、決断。決断。じゃ。」
そう言うと呪軍占辮は、急に起ちあがって醒袖屯の手を握った。醒袖屯も慌てて立ち上がる。
(決断か。あの時、父の幽閉を決断したのは、この俺だ。)
父、巴雷埃甲屯は、原方・葬州東部からの撤退に反対し、嫡男である醒袖屯はこれを封じ込める為、父を幽閉した。眞暦1821年2月のことで、今が1826年だから、もう五年経つ。
「決断、ですね。はい。些帝とともに。」
老人の手は思った通り、かなりの握力だった。ガサつき、節くれだって、醒袖屯の手のひらに刺さるが如く痛い。
「呪軍占辮様は、建国からこの方一衣帯水の関係だった因州王美家との盟約を破棄された。この果断、帝国への愛ゆえと思います。」
巴雷醒袖屯は、優しく手を握り返す。しかし老人はいよいよ太い手指に力を込め、手を離さぬ。
どこまでも力強い意志をお持ちの方よ。
醒袖屯は、筆で引いたような細く優美な眉を、ふっとほころばせ、言った。
「ははっ。まったく、老龍眼には敵いませんな。分かりました、呪軍占辮様のご意志を継いでこの巴雷醒袖屯、大渤帝国第一大臣、龍眼の重職を謹んでお受けいたします。」
はっきりとした新龍眼の言葉を聞いて、老人は握る手に一層力を込めた。そして、素早く2回瞬きをした。
炕から立ち上がっている為か。身体中に鳥肌が立つ。
北辺の首都は、晩冬の夜にしんしんと冷え続けている。
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渤方 (中南部)




