残虐の小窓
眞暦1819年8月。
虫州州都、蟠の城市は雨に包まれていた。
貧民窟のうらぶれた酒家、その屋根裏に隠れる蠍妍には好都合である。真夏の屋根裏など、普通なら居れる場所じゃないし、もし賊兵が踏み込んできた時、汗が階下に落ちたら賊兵どもに気づかれてしまう。
(蛋條さんは大丈夫かしら。)
彼女は青白い、痩せこけた顔を曇らせながら、いつも自分に目をかけてくれた酒家の主人のことを思った。自分を屋根裏に押し込んだ酒家の主人は、下の店内にいる筈だった。
蠍妍は小窓から、街を覗く。
蟠は虫州の州都で、大都市であった。街を取り囲む城壁、縦横に走る大路、小路、王府や諸官庁の威容、小さな民家の密集などは、雨に煙る中に普段と変わらない。
だが、平時なら街路に溢れている筈の隊商、露天商、城市民、王府官吏らの姿は、今は無い。
雨音をつんざくように、
「うあー」
「やめろー」
「そこを壊せー」
「きゃー」
という咆哮と怒号、悲鳴と絶叫が、今は乱れ飛んでいた。
城門を破り、城壁を超えてくる敵の大軍を前に、この虫州都たる蟠の城市はもはや、虐殺と暴行と掠奪の巷と化していた。
(「反抗虫王」もさすがに敵わなかったのね。)
無理だろう。
街路には無数の幟旗が駆け巡っており、それは、美・芥・莞包・异・薙・掬・閥…、などと読める。
これ、因州王・美獣が引き具す一大連合軍であり、城主である「反抗虫王」閥野翫がこの城でどんなに頑張ったところで、対抗し得る筈がない。これが本当に閲血平で一敗地に塗れた奴らと同じ軍隊か、とただ瞠目するばかり、号して十万、美獣の連合軍は今や強大な軍勢に変貌していた。
雪崩れ込んだ連合軍は、色とりどりの旗を靡かせて駆け、雨の中、大きな水しぶきを到る所で舞わせている。
因州の美軍はともかく、芥軍等の葬州兵は荒くれともっぱらの評判であったが、小窓から見ていると、どの部隊も同じように暴虐の限りを尽くしていた。因州も捻州も葬州も無い。蟠の籠城軍や、城市の市民の首や腕がそこかしこで吹っ飛び、血飛沫が吹き上がる。屍はバシャリ、バシャリと水たまりに倒れ、転がり、鮮血はその水たまりを真っ赤に染めていく。血塗られた剣を拭くことなく次の獲物を探す美獣の正規兵もいるし、血の海に浸る行商人の死骸から海金剛の首飾りを引きちぎる薙扁買の親衛隊も見える。
(ああ。蟠の街が喰い尽くされる。)
蠍妍は、少し声を出していたかもしれない。
こう小声で呟きながら、心の中では、蟠の城市に対して思ったほど愛着を持っていない、と感じていた。彼女の高い鉤鼻が、その横顔をひどく冷たい印象としていた。
小窓から、蠍妍が勤めていた妓楼「蟠順閣」が見える。
この大店は、裏社会と事を構えることが日常茶飯事で、暴漢がしばしば襲ってきたが、躯体が堅固で、門扉や鎧戸等建具も頑丈に造られていたから、そういう乱暴者を跳ね返し、安定した経営で城内随一の繁栄を見せていた。
だが、その強固な妓楼も、美獣率いる攻城軍の前では蟷螂の斧にも劣り、あまりに無力であった。
ぱーん、という軽々しい破裂音がしたかと思うと、堅牢を誇った楼閣の門は突破され、顔を上気させた兵隊たちが続々と店の中に侵入していった。
(ああ。蟠順閣も。。。)
この言葉は、声に出なかった。
いや、出せなかった。
友人の迩事理が、五階の窓から落ちたのである。
いつものなまめかしい紗の衣装ではなく、乗馬服を着けていた。逃走する為、活動的な服装にしていたのであろう。窓の中、店内の暗がりに、半裸の兵隊が立っていて、そいつの舌打ちが聞こえたように感じた。
迩事理は、暴兵に犯されるのを潔しとせず、投身して、自ら命を絶ったのか。それとも単に逃げ回りながら、転げ落ちたのか。
蠍妍が小窓に食いついて妓楼の惨劇を観察していると、ふいに足元にドドン、という大きな音がした。
階下の酒家の扉が蹴倒されたのである。
「おらあ!閥養軍だっ。金をだせ。」
「当店にはもう何も残っていませんっ。」
荒々しい胴間声に応えたのは、店の主人である蛋條の声であった。このところの籠城戦で城主・閥野翫の徴収は酷く、貧しい店には確かに何も無かった。
しかし、賊兵にそんな物言いが通用する筈がなかった。
「うそつけぃ!」
続けて、ぎゃあー、という声、重い何かの物体が石床に倒れる音がした。
(ああ、蛋條さん。)
蠍妍は骨張った右手で口を抑えて、辛うじて声に出すのを堪えた。蛋條があげた断末魔の絶叫は鼓膜に刻み込まれ、斬撃された身体が転がる様子はきつく閉じた瞼の裏に鮮明な画として、浮かんだ。
涙も耐えた。
天井板を伝って階下に落ちたら、賊兵に見つかってしまう。
「なんだ、シケていやがる。本当に何もねえのか。奥に何か隠してねえか。」
閥軍の兵士は、胴間声で独り言を言いながら、ガサガサと店の中を引っ掻き回している。
「屋根裏か。」
蠍妍の心臓が、一瞬で冷えた。
(見つかったら。。。)
犯され、殺される。
火を見るよりも明らかな事実の前に、思考停止する。ただ、黙って、気配を消すしかない。
呼吸を止める。荒い軍靴の音がすぐ下まで来た。
「お。ここおかしいな。」
店の奥、埃っぽい床を踏み越えると、朽ちた木箱が転がっており、彼女はそれを踏み台に、この屋根裏に昇ってきた。
(あの箱。)
彼女が踏んだ時、木箱の一部が割れた。割れた面が新しいから、最近、箱を踏んで上に上がったことは、すぐ分かる筈だ。
「ふふ、嫁か、娘か隠しているのか。」
ぎしっ。賊兵が木箱を踏んだ。直後、傍らの天井板が浮く。真っ赤な血に濡れた太い指が四本、ビタッ、と屋根裏に侵入する。蠍妍の裾に、中指の先が触れた。
「おおい、藺凡童!いるのかあ?」
より大きい別の胴間声が、店の入り口辺りに響いた。
「え?あ、あ、はいぃ!」
しゅるっ、と四本の指は引っ込んだ。
藺凡童とやらの上官だろう。
「こんな小さい店に押し入ってどうすんだ。何もねえだろう。」
「はっ。ま、そうですな。何も無かったですわ。」
「獲りっぱぐれるぞ。そろそろ閥野翫の邸がこじ開けられそうだ。」
声が遠ざかっていく。
雨の音。
まだ、蠍妍は息を止めている。
助かった、という安堵はそれ程なかった。
阿鼻叫喚の声は、街にいよいよ高まっているのだ。
小窓から蟠順閣が見える。
先ほど朋友が転落したのと同じ五階の窓に新たな風景が展開していた。
(葵並?)
いつの間にか、五階窓の手摺を一人の女が両手で掴んでいる。体をゆさゆさと規則的に揺らしながら、その表情は苦渋の表情である。女の背後の暗がりに、恍惚の表情を浮かべた男の顔がぼんやりと見える。男も体を激しく揺さぶり、それは前面の女の動きと連動していた。
「うふふ。あっははは。」
蠍妍は、笑った。
薄い朱唇を大きく開き、その鉤鼻は更に冷たく、哄笑が屋根裏に響く。
彼女は、葵並が大嫌いだった。互いに悪い噂を流し、物を隠し、客を奪い合った。落籍される話を潰された時、夕飯に毒を混ぜて死ぬ一歩手前まで追い込んだこともあった。
「ははは。なんだい、あの顔!ふふ、満更嫌でも無かろうに。汚い女だよ。」
葵並は歯並びの良い口を食いしばり、賊兵に背後から蹂躙されている。それを見て、蠍妍は笑い続ける。
「あははは」
そして、笑い止んだ。まだ蟠順閣五階の暴行は続いているのに。
雨は激しくなり、城市の地獄絵図も止む気配がない。
「ふぅー」
もう階下を気にすることもなく、大きくため息をつく。
閥野翫はさっさと逃げたろう。私ももう、この街は嫌だ。このまま、死なずに済んだら、こんな街、出て行こう。
今、蠍妍は青白い凍ったような横顔のまま、小窓の外を虚ろに眺めている。
大雨の下、いつまでも無数の興奮と絶望が交錯していた。
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前年の墨夏夜炎で坡州王・塊協半が衰えたと見た因州王・美獣は、攻勢に転じ、庇州を調略した後、連合軍を率いて虫州に侵攻した。
連合軍は号して10万、塊協半からは勇将・地十の援軍があったが、虫州の支配者だった閥野翫は結局支えきれず、蟷器、蛔藩という要衝を失った上、眞暦1819年8月、牙城の蟠も捨て、虫州西部の山岳地帯に引き籠った。
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虫州




