銀矢、閲血平の宙空を翔ぶ
戦場は酷暑。
眞暦1815年8月。
(閲血平か。血を閲せるが、まさか因軍とはっ。)
闔州東部、緩やかに波打つ丘陵地帯である閲血平は、当代の二大雄藩によって戦場に選ばれた。
咒斯は小さな体で跳ねるように、乱戦の只中を行く。小さな目をしょぼつかせ、平べったい五角形の顔が、険しい。
(州王は?州王はっ。)
真夏の陽の下、流れる汗が目に入るも構わない。因州王美獣を血眼になって探す。因州では「咒銀急矢」と呼ばれ、州王近衛の特殊弓手に抜擢された自分が、肝心の州王警護をしくじるなど、あってはならないことだった。
「援軍は暹命匠だったようだぞ!」
「證州王諳幟の軍もだ。」
「遜・證両王連合軍、十万が来援だあっ。」
そんな敵兵の喚きが耳に入り、咒斯の目の前が一瞬真っ暗になる。
「坡軍は勝ったぞ!」
というよく通る声が耳をつんざきもした。
だがここで咒斯は、萎える気持ちを一瞬で奮い立たせた。
背の高い歩兵が右から槍を繰り出してきたが、これを剣で払い、足をかけて蹴倒す。左から流れてくる矢を視界にとらえて、咄嗟に避け、鏃が兜に当って、カン、と乾いた音を立てる。頭上に偃月刀を旋回させて突っ込んできた肥満した歩兵は、素早くしゃがんで股間を蹴り上げ、牛蛙のごとく地に転がした。
自軍が劣勢だろうと、萎えている場合ではないのである。
咒斯は白銀をまぶした矢をぶち込んだ箙を背に輝かせて、敵をいなし、ひたすらに美獣を探した。
二大雄藩とは、因州王美獣と坡州王塊協半の勢力のことであり、両陣は同盟国を引き具して来たから、ここ閲血平は一大合戦場と化した。
美獣は妹の秦州王・穂佑聯、定州王・窶房長といった州王勢の他、掬巴且の捻州軍、芥揚・异粽の葬州軍、そして号炸蹉蹉率いる大渤帝国の援軍まで巻き込み、号して三十五万、驚異の大軍勢で乗り込んできた。一方の塊協半は八万、かなり少ないと見えたが、戦の半ばで先ほど聞いたように遜州王と證州王の新手が現れ ― 援軍は十万もいないようだが ― とにかくこちらも連合軍を形成していたのである。
いつしか、美獣陣営の敗色が濃厚になっていた。
踏まれ、折れたまま捨てられる旗幟は、「美」だの「因」だの、「渤」や「秦」。。。皆、美獣連合の旗印ばかり。
行き交う味方は、狼狽し、負傷し、紙のように真っ白な顔で、いずれも敗兵そのものであった。他はともかく、穣界随一の精強を謳われる因州美獣軍も例外ではなく、その混乱ぶりは、かの「剣髯狩坦」の夜も凌ぐのではというほどで、途中まで優勢だっただけに咒斯の愕然たる思いは一入であった。
「新手を繰り出す機が、絶妙だったよなあ!」
すでに勝った気で軽口を叩く坡州兵が、憎い。
咒斯は、死守すべき因州王美獣の姿を探す。敵の鋭鋒をただ払い、避け、進んでいく。冷静を保ち、乱戦の中、ただ、ただ、主を探す。
だが、背の箙を掴まれそうになった時、その形相が変わった。
敵兵は左後方から猿臂を伸ばしたが、それと気づいた咒斯は左手を素早く振り回し、硬く張った人差し指と中指を彼の目庇の下に突っ込んだ。目玉を潰した感触が両の指に生々しく、衝撃と共に伝わった。
箙に詰めてある白銀の矢 ― 総粉銀矢 ― は、彼の命であった。
「触るなあっ」
つい、口から出たその大喝に、周囲の敵味方、数多豪傑どもが気圧されて、一瞬手を止めた。
直後。
頭上、一本松の向こう、三百mの先の傾斜地に、紅雪旗を発見した。
赤地に銀の細粒を散らした因州軍の大将旗。その下には、我が主、美獣がいた。必死に馬を走らせているのが分かる。
(うっ)
しかし、思わず咒斯は息を飲んだ。美獣の命運が風前の灯火だったからである。
丘の頂上に向けて駈ける美獣と、その背にはためく紅雪旗。
そしてこれを追う、二つの影。
いずれも手に長剣を握りしめ、大馬に鞭を打ちつけている。
影は、一つは茶褐色で、もう一つは黒かった。黒い影の方は、この距離から見える大きさとして、余程巨大である。
(褐剣髯だ!)
褐色の影は見違える訳もない。
いまや時代の寵児、坡州王の「褐剣髯」塊協半である。がっしりした体に褐色の甲冑、遠目で分からないが髯も褐色の筈である。
黒い方の影も、熊の如き巨漢で、ひとかどの武将たること、一目瞭然だが、とにかく両人とも身のこなしが速い。二人の屈強なる武人が、見る間に美獣との距離を詰めていく。周りに因州兵もいるが、みな主君の危機にまったく気付いていない。
先に美獣自身が気づいた。
ふいに振り向き、褐色のがっしりした男を視界にとらえると、馬上、右手の大刀を振りかざした。その動きは電光石火、虚をつかれた塊協半は右手の長剣をだらりと大馬の腹の下に垂らしていたから、瞬間的に無防備な脳天をさらしてしまっていた。
だが美獣は、塊協半に伴走する巨大な武人に気づくのが遅れた。
真っ黒な甲冑に身を包んだ熊の如き武人は、音もなく、美獣の左から突きの体勢である。
夏の蒼天に剣を掲げた美獣が、左の黒い巨漢に気付き、顔面が蒼白となった。
ここで。
咒斯が馬手をねじり、背の箙から総粉銀矢を取ると同時に弓手に弓を構え、小さな目をカッ、とこぼれる程に見開いて狙うが速いか、即射した。
― これ、全てが刹那の出来事である。
夏の陽を照り返し、白銀の一矢が、高速で飛んでいく。
三百m先の丘の上、我が主を救う為に。
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眞暦1852年、葬州において当代歴史叙述に執念を燃やした葷史罫の『獣髯記』が発表され、巷間で大いに流行した。この軍記物には当場面も描かれており、ここに一部抜粋する。
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時は眞暦1815年、炎熱の盛夏。
閲血平に乱軍横溢す。
精強比類なしと言われた渤因軍は四分五裂し、穣界無双の勇猛を誇る坡州軍は功焦り統率を欠く。
坡州王褐剣髯に味方せる遜州王暹命匠と、證州王諳幟の突撃をもって、この一大会戦の趨勢は俄かに決す。
(中略)
渤因の巨大なる連合軍は全て敗兵と化し、坡州兵は、夏草を刈るより易く、渤因の将兵が首を斬り、飛ばし、見れば戦場の屍山血河は今や、全て美獣や号炸蹉蹉、穂佑聯の手の者にて成る。
ここに一兵有り。
背は矮小、五角の顔は扁平で、鼻は上向き、目は芥子粒の如し、風采上がらぬ徒立ちの小兵に過ぎぬが、背に負う箙、中に白銀の箭を押し詰め、肩の長弓は青く塗られ、その弦は余程強く張られたるもの。弓矢ばかりが上等なり。
然もありなん、この者姓は咒、名は斯、因州で「咒銀急矢」の咒斯と言えば知らぬ者なし、弓箭の腕は穣東随一、因州都相府は州王禁衛軍にあって特殊弓手の任に就き、因州王美獣を守護する役を負う。
「美獣公は何処なりや!」
なれどこの乱戦の中、彼は主君を見失い、自軍が雪崩を打って敗走せる波に逆行して、決死の探索す。討ちかかる坡州の強兵を薙ぎ払い、斬られ、彼我の血に染まり乍ら、閲血平の丘を奔る。
そしてついに一本松の先、遥かの距離をおいて、目指す主君とその背の紅雪旗を見出した。
なれど喜びは束の間、美獣を追う二人の荒武者に気付き、「嗚呼、已んぬる哉。褐剣髯自ら美獣公を追うとは。そして供は、『塡保三巨熊』の一、地獨に相違無し。」とて、慄然とす。
美獣気付きて、振り向きざま、背後の褐剣髯に大刀を叩きつけんとす。だが、同時にその死角から地獨が長剣でもって美獣の脇腹を狙った突きを繰り出す。
一瞬もおかず、咒斯箙より銀矢を抜いてつがえると、小さな目玉がこぼれ落ちる程、くわっ、と見開き、狙うが速いか、
「救えぇぇぇぇぇぇ」
と雄叫び一声、強靭な弦を鳴らし、ひょう、と射る。
これ「咒銀救矢」と称し、穣界皇絶体絶命の危機を防護せる壮挙なり。
さて、咒斯は銀矢の翔ぶ先を見ずに背を向けたり。己が放ちぬる一矢が過たず地獨の長剣を撃つこと、射出の瞬間より明白で、確認不要なる為なるが、そしてまた、もし見ようにもそれには能わず。
坡州兵、咒斯が一挙の間に、ひたひたと彼を重囲す。蟻の這い出る隙も無く、背低き咒斯の視界は四方閉ざされし。
一転して絶体絶命なるは、咒斯と相成るが、かえって彼は冴え冴えと微笑す。
「この一矢、我が生涯最上の総粉銀矢なり、もはや此処に骸晒して何らの悔い無し。因州都相府は特殊弓手隊筆頭、『咒銀急矢』咒斯、見事仕遂げたりっ。」
そう喚いたが、絶叫の半ばは言葉にならず。重囲狭まり、咒斯は叫びながら、膾の如く斬り刻まる。
かくて炎天の下、美獣公は九死に一生を得、穣界皇たる身を拾うなり。
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闔州東部




