賦創避難考
四月の空は曇天で、港町賦彼は至る所に憂鬱な影を作っていたが、海沿いの石畳を歩く人々に物憂げな者はおらず、みなせかせかと忙しくしていた。
「あんた、本当かい?財育が?」
瞑三椿はとっさに声を低めた。
「そうよ。瞠牝姐さんも早まったものねえ。妖天につくなんてえ!」
対する頒純は、敷き布の上で売り物の干し魚を並べ直しながら、いつものように大声で言う。瞑三椿のような配慮が無い。というか、気になるのは上空から干し魚を狙うカモメの方らしく、ちらちらと上を見ている。確かにカモメたちはいつでも降下できるよう、低空で小旋回していた。
カモメが舞う向こうには、海峡がある。
そして海峡の向こうは剣州だ。
「いや、でも、財育が分かれたんだから、瞠牝様は嬉しい筈でしょう。州王家に一枚岩でいられる方が大変なんじゃない?」
「そうでもないわよ。財育が好き勝手にやれるようになるわ。」
「州王家で宰相やってた時だって、好き勝手やってたじゃない。」
瞑三椿は、最近少しシワの出てきた目元に手をやりながら、小声で囁く。だが小声の割には、ずいぶん思い切ったことを言っている。
ふうっ、と湿った海風が二人の奥さんの頬をなでた。
「そういうんじゃないわよ。動かせる兵隊の数が格段に増えるじゃない。なんせ、今度は総領になる訳だからっ!あ、いらっしゃい。」
「そ、そうね。。。」
頒純は満面の笑みで、脇から顔を出した固太りの老翁に干し魚を売った。老人は無表情に魚を鷲掴みにし、ちゃらりと銅銭を投げると背中を向けて立ち去った。
「ちょ。ちょっと、頒純。今のじいさんはまあ、大丈夫かもしれないけど、声をもっと小さくしなさいよ。だいたい領主様をつかまえて、『姐さん』はないわよ、あんた。」
「あら。ごめんなさい。まあでもね、これで類州はまずいわね。バラバラの群雄割拠に突入よ。」
「州王さんが僚敞様の時はねえ。というか、妖天が上洛する前は平和だったのにね。」
「別に僚敞が何かやってたわけじゃないでしょ。都に入りびたりで類州には殆どいなかったじゃない。賦彼は剣州との交易があるから栄えているけど、他の街なんて。農村なんかもっと悲惨よ。そりゃ、ずっと前からの話よ。色々先送りにしての、たまたまの平和だったのよ。」
瞑三椿は目をあげた。
類州の東端にあるここ賦彼は、今も栄えている。多くの貿易商が港の至る所で、椅子があれば腰掛けて、なければ立ち話で、「じゃ、ウチの船の中で」などとも言いながら、商談をしている。「旦那、御商売ならたばこ吸ってすっきりした頭でやったらどうです」なんていう、物売りもそこらじゅうに立ち回っている。
だが。
この城市の領主である瞠牝が、二ヶ月前の眞暦1806年2月、妖天に籠絡されて類州王に叛旗を翻した。そのせいで類州王僚敞が都州に戦死した訳だが、今後、瞠牝が戦乱に巻き込まれるのは間違いない。瞑三椿のような商家の主婦にまで、これらのことは知れ渡り、危惧している。
「ここもいよいよ、危ないわね。瞠牝姐さんじゃあ、あの腹黒宰相相手に喧嘩できないでしょ。」
「しっ。まったくあんた、ここが都だったら、都州城衛にとっくにしょっぴかれてるよ。
しかしあんたがそう言うんだったら、考えるかねえ。この街結構好きなんだけど。」
頒純は、ここではじめて声を落とした。
「あたし、明後日街を出るよ。『向こう』に行くのさ。家の者、みんな準備済み。あんたもそうなさいよ。」
瞑三椿は海峡を眺める。
「向こう」は、剣州の港町、創稷。
うっすら、剣州の山脈が見える。ここからでは街はうかがえないが、彼女は夫の商用について何度も対岸の街に行ったことがある。
さすがもともと別国だったこともあって独特の雰囲気があり、異国情緒を感じたが、同じ海を眺める港町、強い親近感の湧く街だった。
「さすがの財育もこの海は渡ってこないよ。烈風家に喧嘩売る訳にいかないもんね。」
頒純はまだささやき声を続けている。
(確かにそうね。)
陰鬱な春の曇り空を映す賦創海峡を、大小の船が行き来し、その上を白いカモメが点々と舞っている。
瞑三椿は夫をどう説得するかに考えを進めていた。
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類州周辺




