篇外雑記 6 〜 職制
第二八篇「褐剣髯起動」掲載後から本編の小説をしばしお休みして、諸々の設定などをお話しする試み、これまで五回お送りしてきましたが、今回の第六回でいよいよ最後でございます。
前回は文明や国家について紹介致しましたが、今回のお題は、職制です。これまでの短編でも、色々な肩書きが事あるごとに出てきたと思います。ここで一度、種々の役職を系統立てて、ご説明したく思います。
お話しくださるのは、これらの職制の頂点に君臨していた女硯前帝です。君臨していた ― と過去形なんですが、下記の短編に描いたような事態があったのです。宜しければご参照を。
>> 皇太子の鮮血 (平成二七年七月二八日公開)
>> 惨落の果ての微笑す (平成二七年八月十四日公開)
うーん。悲惨ですな。
それでは女硯前帝、宜しくお願いいたします。
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朕は・・ ではなかったな、「わし」は前の皇帝、女硯である。不徳の致すところで、皇帝の座から追われた身じゃが、だからこそこのような場で軽い話も出来よう。今や人様に居候する一老爺じゃ、嗤って聞くがよろしい。
今日は職制について語れとのこと。宮中のことはあまり想い出したくないのでな、話しを手早く切り上げるぞ。
歴代王朝が採用する官制を、百大臣の制という。
多くの官吏が集う時に「百官」と言うこともあるが、職制としての「百大臣」は、本当に百人の役職者がおる。
まず、第一 ~ 三大臣は別格で鼎龍臣、略して鼎龍と称すこともある。
そして上位十大臣までが、主な大臣であり、これは拾閣臣、拾閣などと言われる。帝国の拾閣といえば大陸の人臣の最高峰で、わしも妖州に下って初めて知ったが、郷に一人拾閣が出れば、周辺数百郷に恩恵がある。それ程な権勢を持てるのじゃ。
次の第十一 ~ 二十大臣は事務次官で、準殿臣略して準殿などと呼ばれる。各拾閣の下に居て、実務方の最高位となる。
二十一大臣以降は準殿下の官僚だったり、州王などに付与される名誉肩書きだったりする。雲臣とも言う。その為、百大臣を招集する百大臣議は、百人揃ってないことが殆どじゃ。だが、各大臣の部下も居並ぶ為、人数は千人近くもなる。
さて、帝国の中核を成す拾閣と準殿の役割について、それぞれの大臣府ごとに整理してみよう。
なお、「 = 」の右は通称だが、準殿である第十一 ~ 二十大臣はこっちの通称で呼ばれることの方が多い。
龍眼府 - 皇帝参謀
第一大臣 = 龍眼 第十一大臣 = 龍眼代
龍牙府 - 軍部
第二大臣 = 龍牙 第十二大臣 = 龍牙代
龍鱗府 - 内務(産業・流通)
第三大臣 = 龍鱗 第十三大臣 = 龍鱗代
都相府 - 禁軍師団長
兼・都州城衛の統率、都州司法
第四大臣 = 都相 第十四大臣 = 都相代
祭相府 - 祭祀・暦
第五大臣 = 祭相 第十五大臣 = 祭相代
経相府 - 財務
第六大臣 = 経相 第十六大臣 = 経相代
交相府 - 外交 兼・州王監視
第七大臣 = 交相 第十七大臣 = 交相代
作相府 - 土建
第八大臣 = 作相 第十八大臣 = 作相代
法相府 - 司法
第九大臣 = 法相 第十九大臣 = 法相代
文相府 - 文部 兼・官吏採用
第十大臣 = 文相 第二十大臣 = 文相代
そして、これら拾閣準殿の上に君臨するのが皇帝じゃ。
建前はな。
というのも、龍眼等の鼎龍はこの拾閣準殿の中でも特に絶大な権限を持たされており、この三役に野心家が就任した場合、皇帝を傀儡化する可能性が高い。
朕・・ わしは、それで良いと思う。優秀な閣僚が充実した行政を運営しておればこれに勝るものはなく、皇帝は単純な承認機関であればよい。皇帝みずからが出張って行政に首を突っ込むのは、避けるべきだ。
ただ。玉睨という役職は廃止すべきと思う。今、わしと入れ替わりで妖州から上洛した風来坊が、この職におさまってるらいしいがな。懿兄もかわいそうじゃ。
玉睨というのは非常勤職で、そもそも、穎の始祖・穎眞帝が始めたものだから歴史は古い。龍眼とは別に自らの後見・監視として臨時に軍師を付け、皇帝の玉座の後ろに席を設けたという。以降、玉睨は皇帝の背後に座るようになった。誡でも建国時に、誡果が悩んだ末、自らは鼎龍に就かず、代わりに甥を玉睨に就けて、夫である飛叡帝の監視をさせた。姚でも兄弟相克で勝ち残った女恭帝が、自らの戒めの為として、鼎龍と四名連署で軍師の佐壺を玉睨に就けた。
前例は以上。穎眞帝以来、約千八百年の歴史の中でわずかに三件じゃ。そしてどの例でも皇帝自身が一個の英雄であり、穎眞帝も飛叡帝も帝国を創業した王朝の始祖、女恭帝も皇統変更を成し遂げた大事業者だ。つまり、英傑であるが故に暴走した場合の被害もまた大であり、もはや鼎龍拾閣の程度では帝に諫言し、その抑止力になり得ないから、皇帝が誤った場合の歯止めをかける役として、別格上位に置かれた臨時職なのである。現玉睨とはまったく意義が異なると言えよう。
皇位を簒奪された者と、皇位を奪い取りながらも玉睨の傀儡と化した者。いずれが悲惨なのかのう。
ふう。だから、宮中のことは語りたくなかったのじゃ。話を急ぐぞ。
この百大臣制は大姚帝国のみならず、各州にても採用されている。前回講義をした滎胴巡という者は、炎州の交相代だっただろう?かの州の準殿で、第17大臣ということになる。陸島の使節に応接してたのは外交を担う職だからだ。なお、姚の交相府は州王の監視も役の範囲だが、州王府では州内の貴族や豪族が監視対象になる。
さて、あとは首試のことを言っておかねばな。
百大臣は、膨大な官吏群の一握りじゃ。そしてその官吏になるのもまた、狭き門で、首試という試験に通らなければならん。これは実力があれば家柄に関係なく官吏に登用されるので、帝国にとっては優秀な人材を集める素晴らしい制度といえる。
この首試はそもそも・・・
あ、首試の成り立ちを語ろうと思うたが、そうか、その為には仲教のことを知らねばならんか。しかし、ここで話す時間はないな。
仲教というのは穎の頃に始まり、やがて帝国の国教となった最大の宗教のこと。それだけを言っておこう。いずれ誰かが斐界の宗教について概説するじゃろうから、詳細はその時にな。
首試の創始は七百年ほど前。
眞暦1100年頃に遡る。当時の帝国は姚の前の誡の時代だが、制度が生まれたのは誡ではなく、隣の剣国であった。まだ剣州ではなく、別国だった頃の話じゃ。
国王・烈風首は、仲教が目指す秩序が整備された理想の政治を実現しようとした。そして仲教の教義を出題する国家試験を提唱し、首試という名でこれを実施したのだ。そして在野も含め、人材を広く獲得することに成功する。誡は百年以上遅れて、眞暦1252年に国家試験制度を導入し、試験の名も烈風首が付けた首試という名をそのまま踏襲した。
ち・・ わしは、遅れたりとは言え、誡が面子を捨てて首試を取り入れたことを評価する。明らかに行政の運営力はこの官吏登用制度で向上したからな。
とまれこの首試により、数多くの優秀な官吏が登用されて国を運営し、そして帝国という巨大組織の上層には百大臣が、そしてその中でも拾閣準殿が頂点にあって、姚を動かしている。今回わしが話したのは、そういうことである。
と、まあ、こんなものかの。もう宮中のことは想い出したくないのでな、話を終わらせてもらおう。
ただこの職制については、今後もこの物語で頻繁に登場するはずじゃ。わしはもうこの先長くは無いが、どうか読者諸君は末永く斐界群史をご覧頂き、わしの今日の話もたまには思い出してくりゃれ。
では、失礼する。
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はい、前帝陛下。どうも、ありがとうございました。
都州帝城のことはもう、忘れたいんでしょうけども。そんな中、詳細に解説下さいまして恐縮でございます。
さて、六回を数えた篇外雑記はこれにて終了です。お読み下さった方には、お付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。
それでは次回より再び本編に戻って、大陸の短編小説を発表して参ります。女硯前帝もおっしゃってましたが、どうか引き続きお目通し下されば、作者として幸甚でございます。
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大陸全図




