嫋嫋酒家
妖州の街、嫋は夜も更け、酒家の灯がずらりと点っている。
眞暦1805年4月、春とはいえ内陸の妖州だから、まだまだ夜の風は冷たい。だが、ここ嫋は猟州へ向かう街道の出発点で隊商が多く、また州西南部の中核都市でもあり、小さいながらもそこそこ賑わいのある城市だったから、寒い夜にも往来が途絶えることはない。月あかりの下、多くの人が街路を闊歩していた。
なかでも特に荒れた一角、市軍もあまり手を出さない治安の良くない街区に、嫋嫋酒家はあった。
街路には強欲そうな商人や、西域帰りの砂だらけの兵士がたむろし、多くが酔って騒いでいる。だがそんな外の騒音をかき消すかのように、嫋嫋酒家からはより大きな喚声が聞こえてくるのである。
「今しかねえな、天さん。」
如堯峰が、突然呟いた。
今日も嫋嫋酒家は満員だ。店内はどの卓にも客がひしめいている。地元も他所者も混じっているが、どいつもこいつも遊侠の徒だった。その内の一つに男三人、女一人の卓があり、他の卓のように騒いでなく、歳の割にどこか斜に構えた雰囲気があったが、如堯峰はその内の一人であった。他の者より頭一つ抜け出ており、その異様に長細い顔が店内どこからも見えたが、ずいぶん上背が有りそうである。
ガシャーン。
店内のどこかで喧嘩が始まり、卓をひっくり返したか、悲鳴とともに食器の割れる音と怒声が響いたが、如堯峰は聞こえないかのように顔いっぱいに狡猾な笑みを浮かべ、正面に座る男を見ている。
その男は、何も言わない。
だが薄い笑いを如堯峰にかえす。白磁のように艶のある肌で、なかなかの優男だ。さっきから周辺の女客がちらちらこちらを見ているのは、朱の袍が目立っているだけではあるまい。
男の姓は妖、名は天。
狡猾といえば、如堯峰などよりこの妖天のが数段上ではないか。妖天は静かに酒を舐めているが、その目は楽しく仕方がない、という感じで、とんでもないことを次々に思いついているように見えた。風貌と正反対で、その瞳に酷く下卑た光が宿っていた。如堯峰は脇に汗をかいたが、何とか笑顔を保った。
「しかし、毘覇の花梨酒は美味いな。どの銘柄でも外れがねえ。」
「小嫋伯。あんた、その酒でこないだ大失敗してるだろ。たいがいにしなっ。」
如堯峰は少しほっとしながら、左に座る嫋害の肩を叩く。嫋害の体も少し湿っていたから、こいつも妖天が怖かったに違いない。
隣の卓の一人がおや、とこちらをうかがった。
多分、今の如堯峰の一言が耳に入ったのだろう。いかにもこの嫋害は嫋伯の次男、「小嫋伯」であり、こんな所に出入りするような身分ではないのである。嫋伯は、妖州王から任命された嫋の城主職であり、嫋伯・嫋下規が彼の父であった。嫋害が着る少し汗ばんだ袍は絹地に緻密な刺繍が施されているが、多分、この酒場の誰のものよりも高価であろう。
「そうだよ。甘っちょろい酒飲みやがって。あんたみたいなヤツが漠方の果実酒をちろちろ飲んでるのが、一番腹たつんだよ。」
「ほう。それで衫嫂さんはどろどろの地酒をお飲みになってんですか。嫂さんこそ、花梨酒飲んでもう少し甘い言葉をちろちろと吐けるようになった方がいい。」
「はたくよ。あんたの頭の中はどろどろだろうがね、あたしの脳は論理明快、爽やかなもんさ。伯公子だか何だか知らないが、黒い陰謀をこねくり回すヤツが一番嫌いだよ。」
如堯峰の右にいる若い女が、嫋害に絡む。絡んでいるが、目の焦点が合っておらず、嫋害の後ろのあらぬ方を見ながら悪態をついていた。その目はひどく陰湿で、何もない遠くの宙空をさまよっており、育ちの良い嫋害と比べて、どうにも爽やかに見えない。
姓は門東、名は衫。
斜に構えた三人の男らはどんなに酔っ払っても、この女の二字姓を口走りはしないだろう。妖州王媼家のお膝元では余計だ。歴史を知らない者でも、ピン、と来る名である。
それはともかくとして、門東衫はとにかく酒癖が悪い。なるべく放っておき、男らは話を再開した。
「媼蠱さんとは十分話せる。念の為、嫋伯や天さんの妹に含めとけば万全だ。」
もう、隣の卓の客は聞き耳を立てない。というか立てられない。如堯峰たちはこんな酒場での謀議に慣れていたから、話が漏れないよう、しかし密談相手にはきちんと伝わるよう話すことができるのである。
如堯峰の言葉に少しづつ妖天が応じ始める。
「峰。餌は、二月に王府へ『惨落』召された爺いが一番だよな。」
「ああ。媼蠱さんなら乗るだろ。さすが媼家の嫡男だ。本人がその餌をどう利用しようか頭を巡らせているはずだ。」
「若いくせに、穣界附類の現況を良く分かってやがるからな。それと。」
妖天が、真っ直ぐ縦に通った鼻梁を少し俯けながら、酒で口を湿らす。
「機は今だな。」
「古びた前帝一人運ぶのに穣界の列強は何を慌てる。あいつら大したことないぞ。閥養・穂泉煎は新帝派と言いながら、女懿からは何の利もない。前帝派の尼竺・壘渋・閃言彫は戦で負けた上に、金まで騙し取られ、恥を天下に晒している。」
嫋害がニヤニヤしている。如堯峰に言われると、穣界の諸侯も形無しだな、とでも思っているのだろう。騒々しい店内でも、彼は仲間の話をしっかり聞いている。
「俺らの目的だがな。」
妖天が盃を干し、手酌した。ここへきて酒が速くなってきたか、目も少し赤い。
「おう。大事だな。」
「都でよ。美味いものを腹一杯食って、いい女をたらふく抱こうぜ。あ、嫂さんはいい男をな。」
聞こえているのかどうか、門東衫はじっとりした目を周りに這わせながら、ぶつぶつ言っている。
「へっへ。面白え。天さん、正直な目標だな。」
「そうだ。天下臣民の為とか、間違っても言うんじゃねえぞ。」
ガタン!
突然、嫋害が赤らんだ頬で立ち上がり、盃を中空に突き上げた。
「我等、ただひたすら私欲が為、上洛す!」
妖天と如堯峰も席を立ち、盃を頭上にかかげた。
「私欲の為に!」
「あたしはあ!」
門東衫が、妖天と如堯峰の言葉にかぶせるように絶叫した。
嫋害らの行動でさすがに店内はこの卓に注目していたが、門東衫の叫びには驚愕して、騒然とした。
「あたしは、恭流の皇室を引っ掻き回してやるんだあ!」
そうぶちまけて彼女は立つと、仲間三人の首根っこをまとめて引っ掴んで、何度も飛び跳ねた。
月が、乾燥した嫋の街を白々と照らす。
夜が更けても嫋嫋酒家は眠ることなく、騒音を撒き散らす。月光の下、店の前に通りがかった人はいつもの喊声に異様な興奮が付加されているのを感じたが、首をかしげるまでもなく、皆、通り過ぎて行った。
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妖州




