皇太子の鮮血
「何卒、何卒っ」
眞暦1804年11月。
都州内城にある皇帝の宮殿、禁宮。その中でも皇帝が百大臣を招集する朝堂を皇金堂といい、さすが壮大な建造物であったが、その堂内で、悲痛な懇願の声とゴンゴン、という硬いもの同士を打ち付けるような音がしていた。
「新帝陛下の御憐憫を!」
女麦は、そんな兄の声を朦朧としながら聞いていた。
兄・彰と二人土下座して、冷たい堂の床に額をひたすら打ち付けている。もう何回ぶつけただろうか。
一瞬、目の先の玉座にふんぞりかえってる女懿の姿が見えた。
身体は全体的に肥え、顔面の脂ぎった表皮もだらしなく垂れ下がっているが、二重の大きな目は精力に満ち、見ているこちらが飲み込まれそうになる。「脂権大帝」とはよくいったものだ。
そんな女懿が、あきらかに困惑の表情を浮かべていた。
それはそうだろう。都相(第四大臣)の郿令を始め、十数人の大臣と密議を行なっている最中、突然先帝の息子たちが堂に押しかけてきたのだから。
いや、最初の段階の表情は覚えているが、明らかに敗北者を見下して悦に入っていた。床に頭を叩きつけ始めてからは良く見てないが、抑揚無く「止め給え」と言っていたものの、その実、きっと脂ぎった顔でニヤついていただろう。憎き裏切り者、郿令なぞは乱杭歯をきらきらさせて笑顔をつくっていただろう。
兄、女彰はつい先日まで皇太子だったのである。女懿も龍眼(第一大臣)だったから、すでに位人臣極めていたが、それにしても皇太子は同格以上の存在だった。それが今、自分の前で文字通り叩頭しているのだ。奴の性格からして身震いするほど嬉しかったに違いない。
だが我ら兄弟は、しつこかった。
それはそうである。父の命がかかっているのだ。白青大路を馬車で駆けている時、都民が「硯帝惨落」を至るところで話題にしていた。いや、惨落どころではない。父君は、先日までの皇帝陛下は弑されようとしているのだ。
「もう、止め給え。」
女懿の声は不機嫌そうに変わっていた。大臣たちの手前もあり、もう止めて欲しいはずだ。
ここに同席する大臣たちは、みな日和見で、変わり身の早い連中ばかりだ。女懿に忠なるものはおらず、性根は座っておらず、そんな奴らの前で、先日までの皇太子が身体を投げ出して、懇願しているのである。
「女彰殿、女麦殿。何を勘違いしている。先帝陛下共々、これから妖州王のもとに御隠棲され、好きな大然学をされ… 」
「運河の庇類州境付近で我らは事故死します。」
女彰が遮るように強く言うと、女懿は思わず「うぐ」と声を漏らした。小さな声だったが大臣たちは聞き取った筈だ。
「父、女硯はいまや生ける屍。この先に生きていて何ができるでしょうかっ。」
女麦はふと左横を見た。女彰は口から血飛沫を飛ばし、叫んでいる。額からの出血は自分より多い。少し前頭部が変形している。
女彰が叩頭を止めたので女麦もならい顔を上げると、周りを目だけで見回す。大臣たちの顔色は良くない。半端な良心が咎めているのだろう。郿令なぞ、真っ青である。これぐらいで同情するような器量か。
(悔しや。)
ならば、どうせあの時の決断も浅慮。禁軍師団長が浅はかに大謀叛を成功させ、あげくに女硯帝の一統は葬り去られようとしている。
女懿はうつむいて床を見つめている。
「新帝陛下。父女硯も私達兄弟も、陛下に何の叛意もありませぬ。この先誰かが我らを担ごうとしても乗りませぬ。」
女懿はぴくりとも動かない。
「陛下にとって何の害もありませぬ。何卒、父、女硯の命をお助け下さい。」
反応がない。
(脂権大帝は、もう動かんな。)
このまま出血がひどくなって気を失った我らを宮中で「事故死」させ、急ぎ運河を北上中の父の一行も「事故死」させる。それまではもう何も言わず、じっとしている気だ。確かに兄もフラついているし、自分の出血もひどく、脳もやられたか、視界がぐにゃりとして像を結ばない。このままでは、倒れる。
女麦は突如、叫んだ。
「陛下、我らの首を捧げまする。硯の系統はこれで最早何もできませぬ!」
立ち上がり、右へ走った。
視界はぼやけているが、つい先日まで自分の家だった所である。柱一本の位置まで身体が覚えている。幼い頃、誰もいない皇金堂で女彰とよく鬼ごっこしたものだ。
女麦は、衛士の帯剣を抜くや、素早く首にぶっ刺した。
薄れ行く意識、騒然とする大臣、立ち上がり動揺する女懿が、反対に走っていく兄に気付く。とっさに止めようとしたように見えた。
それが最期だった。
首からほとばしる鮮血で何も見えなくなり、みずからの挙で事が成るのかどうか分からぬまま、女麦は絶命した。
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都州
都州帝城




