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冒涜祭礼


 壮大な都州帝城(としゅうていじょう)に、初夏の不安定な曇天が覆いかぶさっている。


 南北十km、東西は二十kmにも及ぶ大(とう)帝国の巨大な首都にあって、その最奥に皇帝の宮殿が鎮座する。これが禁宮(きんぐう)であり、帝国による大陸政治の中枢でもあった。

 禁宮は数多くの殿舎から構成されているが、その中で最大の建造物を皇金堂(こうこんどう)という。拾閣臣(じゅっかくしん)以下が招集され、皇帝の御前に朝議する、まさに核心中の核心たる議事堂であった。


 今、その皇金堂前の院子(なかにわ)に、廷臣や衛兵、女官なぞが整然と居並んでいる。

 三万㎡の巨大な院子は、普段であれば幾何学的に敷き詰められた(せん)が美しく、見る者を圧倒するのだが、今はそれも見えぬほど人々で埋め尽くされ、ただただ帝国の威を誇示していた。


 院子の中央、十数名の近衛(このえ)兵に守られている男がいる。

(ようやく、(わし)もここまで来たか。)

 金襴緞子(きんらんどんす)長袍(ちょうほう)(まと)うその身体は、丸々と肥え、垂れ下がる顔面の肉はギトギトと脂ぎっていた。

 余程の大官であろう。

 この男の位置から数十m先に須弥壇(しゅみだん)があり、その背景として皇金堂が(そび)えている。

 この肥った大官は、二重(ふたえ)の巨眼で須弥壇を見上げている。いや正確に言えば、須弥壇というよりもその壇上に設えられている玉座が対象だろうか。

 とにかく眼光は暗く、殺気を帯びていた。


「第二大臣、女懿(じょい)。御前へ!」


 須弥壇上に立つ、第五大臣「祭相(さいしょう)俊往亀(しゅんおうき)が、啼鳥(ていちょう)の如く叫んだ。

 俊往亀の脇に据えられた玉座には御簾(みす)が降りている。その向こうに皇帝・女硯(じょけん)が座している筈だが、壇の下からでは影すら伺えぬ。


 大官は、木履(きぐつ)の歩を進める。

 姓は女、名は懿。

 今、この時点では大姚帝国第二大臣、いわゆる「龍牙(りゅうが)」という重職にある。


(行くぞ。女硯。)


 女懿は(よわい)五十六。この時代としては老境に差し掛かっているが、肥満した身体には精力が漲っている。

 院子の中央に敷かれた長い絹布を延々、踏んで行く。黄に染められた絹布の両側に、衛士が二列でぎっしり並び、(げき)や槍が曇天を突き、ひどく凶暴な光景であった。


(ふふ。郿令(びれい)の奴、随分ものものしい警備を敷いたもんだ。儂の命を狙う刺客が、それ程多いか。)

 ゆっくりと、ひどく傲慢に胸を反らせて、女懿は絹布の上を歩く。黄色い絹布は須弥壇まで、皇帝・女硯が座する玉座まで、続いている。

 目線を少し下げると、須弥壇の麓に並ぶ、拾閣、準殿(じゅんでん)の諸大臣や何人かの州王が見えた。そこに第四大臣「都相(としょう)」の郿令や、(るい)州王・僚敞(りょうしょう)の顔があった。


 女懿は渋面のまま、須弥壇の手前十mのところまで達する。


(皆、刮目(かつもく)せい。これが女懿の意思ぞ。)


 女懿は歩を止めると、奥歯をぐっと噛みしめた。そして軽く拱手だけすると、再び力強く傲慢に闊歩し始めたのである。

 少し遅れて、院子に動揺が広がった。式典中のため微かではあるが、参列者のほぼ全員が驚きの声をあげた。


 皇金堂前院子で行なわれる皇帝謁見の儀式においては、幾つか礼法がある。


 須弥壇の手前から十m、五m、そして最下段の直前と、計三回拝跪(はいき)しなければならない。また須弥壇は牛の如くゆっくり上り、その際は足元に目を落としたままで、決して壇上をうかがってはならない。そして、玉座の御簾は降りたままで皇帝は姿を晒さず、声すら出さず、用件は脇に控える祭相が代理で発言する。


 しかし、女懿は礼法を無視した。

 跪かねばならない場所で、拱手して済ませたのである。拱手も相手を敬う礼法であるが、最敬礼たる拝跪の恭順さに比べれば、格段に軽い。しかし何よりも重大なことは、皇帝の御前というこの斐界で最も礼を尽くすべき場面で、堂々と形式が破られたことであり、帝国の秩序を揺るがす由々しき事態といえよう。

 本来なら、須弥壇の最上段に立つ第五大臣の俊往亀が指摘するべきだ。第五大臣は「祭相」と呼ばれ、その名の通り帝国の祭礼を取り仕切る大臣である。壇上から女懿の不敬は見えた筈だし、恐らく他の拾閣臣の不敬ならば即座に大喝して、式を中断しただろう。そうしなければ、祭礼の責任者が俊往亀が罪に問われるからだ。

 女懿は、五m進んだ所でも同様の所作であった。せめてここで、俊往亀は反応すべきだった。


 それが出来なかったのは、「脂権大帝(しけんたいてい)」と仇名される女懿の勢威を本能的に恐れ、思わず躊躇した為である。


 誰からも制止の声はかからない。

(俊往亀の奴。『女懿様はたまたま、礼法をお忘れになっただけ、この後、須弥壇ではちゃんとお守りになる』とでも、思っているのだろう。)

 女懿は、脂ぎった顔を厳しく、眉間には縦皺を刻んだまま、須弥壇の直下に歩み寄った。


 俊往亀を始め、広場を埋め尽くす六千人を超える廷臣、吏僚の視線が、丸々と肥満した身体に刺さるのが、女懿にとって至極心地よかった。

(だとすれば甘いぞ、俊往亀。)


 ここでは拱手すらせず、歩みを止めぬまま、最下段に片足をかけた。


「なっ」


 俊往亀が漏らす驚愕と焦慮の声が、須弥壇の上から聞こえた。


 ここに至っては、第四大臣「都相」の責任範囲にもなる。都相府は、皇帝を守護する禁軍と首都の警備・治安を司っており、別名「都州城衛(としゅうじょうえい)」と呼ばれる組織であるが、こうした禁宮内の式典では祭相府と連携して警衛にあたった。

 女懿の行為はもはや礼法どうこうではなく、皇帝の身の安全を警戒すべき事態となっている。ここまでくると最早、皇帝に対し叛意、殺意がある、と見なさねばならぬ。


 女懿は、須弥壇下に居並ぶ拾閣臣のうち、都相の郿令へ目配せした。

 郿令は唇を一瞬開き、乱杭歯(らんぐいば)を見せると、すぐ口を閉じた。彼なりに笑顔を作ったのだろう。

 これは、都相郿令が女懿の行為を黙認した合図である。

 郿令の手前には類州王の僚敞も立っている。こちらはあからさまに破顔し、白い歯を女懿に見せていた。


 郿令も僚敞も女懿の取り巻きである。だから、女懿の横暴に同調するのは当然だった。

 だが、他の諸氏は怯え、口を食いしばり、目を丸くして、顔面蒼白の態である。第二大臣が第一大臣に昇任する式典で、当の第二大臣が皇帝の面前で臆面なく非礼を働いているのだから、これも当然の反応と言えた。

(この後の僚酉釈(りょうゆうしゃく)は、通常通りにやらせるか。いささか薬が効き過ぎたかもしれん。)

 女懿は、式典の空気を読みながら、事後のことに気を回す。参列者は女懿の一挙にかなり驚いており、多少の非難は覚悟していたが、想定以上に動揺が走っている。衰えたりといえ、そこはさすがに大帝国、最低限の秩序はまだまだ宮中に残っているようだ。


(しかし我が計画は決行する。)

 女懿のこめかみに血管が浮く。


 と、同時に顔をぐっ、と上げて須弥壇の上を仰ぎ見ると、木履も割われよとばかりに足音荒く、石段を上り出した。

 不敬の極みであろう。

 繰り返すが、皇金堂前の皇帝謁見式典において、須弥壇は己れの足元を見て上り、決して壇上の玉座に目を向けてはならないのだ。


 その時、壇下から怒声が飛んだ。

「おのれ、奸賊!」


 帝国の禄を食む六千の廷臣に、恥を知る者が少なくとも、一人居たということであろう。

 見れば、須弥壇から二十m程離れた場所に衛兵の一人が黄の絹布の上に転がり出ていた。二列目に立っていたらしく、前にいた同僚は突き飛ばされ、尻餅をついている。

 件の衛兵は、形相悪鬼の如し、剝き出す歯は狂犬の如し。若い血が、己れの忠烈に沸騰していた。


「無礼、不遜、極まれり。脂権大帝奴、女硯帝を、大姚帝国を蔑ろにする大逆の振る舞い、何故に看過出来ようかっ。貴様の如き逆臣が龍眼(りゅうがん)に昇進するなど奇怪千万。我、皇帝陛下を守護せる都州城衛の端くれとして、これより悪漢を成敗す!」


 衛兵は血を吐くように吠えると、戟を突き出して、絹布の上を突進した。

 須弥壇の中途で、女懿はゆっくり振り向く。

 落ち着いていた。

 濁声(だみごえ)を三万㎡の院子に響かせ、衛兵に下問した。

「大姚帝国第二大臣に対し、貴様こそ無礼!名を名乗れっ。」

 衛兵は駆ける足を緩めず、絶叫する。

「姦物に名乗るも穢らわしいが、姓は(じん)、名は董箔(とうはく)っ。都州城衛禁軍、北門警護第三隊所属衛士。(ぎょう)州は衙幕(がばく)の産!」

 言い終わるか終わらないかのうちに、人董箔とやらは同僚達に取り押さえられていた。須弥壇まで、あと四mという所だった。


 女懿が落ち着き払っている筈である。

 都相・郿令が須弥壇を見上げ、乱杭歯を剥き出すと、ひっ捕らえますから、お任せ下さい、と唇が動いた。女懿も郿令も襲撃を予測し、その為に過剰な警備を敷いておいた。組織上、人董箔は郿令の管轄下にあるが、都州城衛という近衛兵の性格上、皇帝への忠誠は他の官人よりも高いから、こうした挙に出るのも特に不思議ではない。その為か、郿令もまた落ち着いていて、笑いながら処理しようとしている。


(さすがは泣く子も黙る都州城衛。こんな世になっても、忠義面する奴がおるのだな。)

 再び女懿は、壇上を睨みつけ力強く上っていく。


「仰州衙幕の人姓は、皆殺しにせよっ。」

 そう吐き捨てると、壇下からざざっ、という音がした。郿令以下、都州城衛の衛兵達が、女懿の指示に対して最敬礼したに違いない。続けて、硬いものが折れる音と男の悲鳴も聞こえた。同僚の衛兵達に捕らえられた人董箔が四肢の骨を折られ、その激痛に声を上げたのだろう。


 女懿の足取りは荒く、須弥壇を上りきった。


「だ、第二大臣…。」

 そこには、怯えきった白髪の祭相、俊往亀が突っ立っている。人が良いだけで特に取り柄のない老人だ。


「安心しろ、俊往亀。卑賤な兵卒が騒いだが、すぐ処理させた。そして儂は、女硯帝に危害を加える積りは毛頭無い。」

「う。うう。」

 最早、俊往亀は何も出来ない。ここらからは、御簾の向こう、玉座に座る皇帝・女硯の影がうっすら見える。影は少し揺れた。


 ずかずかと、女懿は御簾の前まで進んだ。そして御簾の両端をつまむと、無遠慮に引き上げた。

「女硯帝。儂と陛下の仲だ。堅苦しい礼は不要よの。」

 女懿は玉座に座る皇帝に対して、濁声を浴びせる。

 事ここに及んでも、俊往亀は女懿を止められぬ。


「左様。早々に儀を進め、懿兄(いけい)を第二大臣から第一大臣へ昇格する。」

 玉座の女硯は、ゆっくり言った。


 その龍顔は無表情であった。

 急に御簾を取っ払われたにも関わらず、まるで予期していたかの如く、感情の揺らぎは一切見られぬ。杏仁型の眼はどこを見ているか分からず、赤い唇はぼんやりと開き、白い肌は限りなく青ざめている。

 女懿は勝ち誇ったように笑う。

「うむ。そして僚酉釈を第二大臣に。陛下、しかとお願い致しますぞ。」


 女懿が振り向くとそこには、俊往亀が白髪を振り乱し、意味も無く身を揉んでいた。


「俊祭相。後ろにあるその冠を、陛下から直接拝領したい。」

「え、えっ。」

 脂権大帝の非礼は、横暴は、どこまで続くのか。俊往亀はただ、言葉を失うばかり。

「よい。朕から授けん。」

 女硯は玉座を立つ。

 躊躇いなく、ゆっくり俊往亀に歩み寄る。

「陛下。」

「貸せ。」

 そして俊往亀を押し退けて、背後の冠を掴んだ。


 女硯と女懿は目を合わさぬまま、壇上の中央に移動し、女懿が跪くと、

「第二大臣女懿。第一大臣に任命する。」

 と女硯が冠をかぶせた。流れるように円滑な所作であった。


 俊往亀はもう、口を開けて呆然と立ちすくんでいる。

 臣下が勝手に御簾を開け、声を発さぬ筈の皇帝と会話し、要望し、皇帝の手ずから冠を受ける ― 。


 あり得ぬ事だ。


 これ程皇帝が侮辱され、崇高なる禁宮での儀礼が冒涜されたことが、(えい)(かい)〜姚と、千八百年の長きにわたって紡がれた巨大帝国の歴史にかつてあっただろうか。

 祭礼の責任者である祭相、俊往亀は惚けた顔で、そう考えているのであろう。


(といって何をする訳でもない。)

 女懿は冠を頂きながら、こみ上げる笑いを抑えられぬ。

(だから、これから言うことだって、俊往亀は抑圧できぬ。)

 女懿は、金襴緞子の長袍を衣摺れさせながら立ち上がった。


「次の僚酉釈も同様ですな。」

 濁声を、皇帝・女硯に浴びせかける。

 俊往亀は既に、白目を剥いている。今起こっている現実は、最早老人の堅い頭では処理できぬのであろう。


 女硯帝の瞳孔は小さなまま、何も動きがない。

「では、女硯帝。どうぞ第六大臣の僚酉釈を、大きな声でお呼び下さいませ。」

 こんな女懿の理不尽な要望にも、無感動に答える。


「第六大臣、僚酉釈。御前へ!」


 皇帝の声など殆どの者が初めて聞いただろう。


 六千人の廷臣は放心状態のまま、式典を淡々と継続する。院子の対面、華鳥門(かちょうもん)前で衛兵に囲まれていた僚酉釈が、女懿と同じように、黄の絹布に踏み出した。


 女懿は右手をニ度、空に突き上げる。礼法通りにせよ、というかねて示し合わせていた合図であり、僚酉釈には遺漏無く伝わっただろう。

 これから第二大臣に昇格する僚酉釈は、真面目に三回拝跪する訳だが、

(今なら)

 その一方で女懿は大それたことを考える。


禅譲(ぜんじょう)しろ、と強要すれば、今の硯なら譲るだろうな。)

 脳裏にそんな野心が去来したのだ。だが、さすがに胸にしまった。人董箔の如き忠義面がさらに現れるのは明白、いくら郿令の警備が厚いとはいえ、我が身の危険性は増す。また、この場に玉璽(ぎょくじ)がないから、禅譲の儀が成立しない。

(父は妾腹(しょうふく)なれど、先々帝の長子だったのだ。年長でもある儂が、女硯のあとを襲ってもおかしくないだろう。)


 横暴の限りを尽くした女懿は、須弥壇の上に堂々と立ちはだかっている。



 眞暦一八〇一年五月。

 女懿と僚酉釈の昇任式典が挙行された。この日、都州帝城の空は低く厚い雲が覆いかぶさり、陽は一条たりとも射さなかったという。














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都州帝城


挿絵(By みてみん)



都州帝城・仰州周辺


挿絵(By みてみん)


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