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傷む彼女と、痛まない僕。


 生徒玄関へ走り、靴を履き替え学校を出る。


 駐輪場に停めてあった小山くんのチャリに跨り、勢い良く漕ぎ出しては校門を潜り抜けた。


 全速で走って全力でチャリを漕いだのはいつぶりだろう。


『キミは体温調節が出来ない体質だから、激しい運動は避けるべき』と医師にも先生にも親にも言われ続け、止められ続けていた。


 初体験に近い、全力行為。


 だけど、倒れるかもしれない等という不安はなかった。


 倒れている場合ではなかったから。


 そんなことより、吉野さんが心配でたまらなかったから。


 吉野さんに、会いたくて仕方なかったから。




 小山くんからのLINEメッセージに書かれていた住所付近で、吉野さんの家を探す。


 吉野さんの住んでいる家は、母親の実家の為、表札は【吉野】ではなく【園田】になっているとのこと。


 民家の密集した住宅地を、チャリから降りてそれを引きながら歩き回る。


「……あった」


 程なく【園田】さん宅を発見。


 勝負をしに来ているわけだから、緊張感が否応なく迸る。


 だけど、それよりも吉野さんに会いたい気持ちが上回っていて、ドキドキしながら人差指でインターホンのボタンを押した。


 ベルは確かに鳴っているのに、待てども待てども返事はなかった。


 しつこく3回鳴らしてみたが、やはり誰も出てこない。


 ここまで来たからには諦めきれず、家の中の様子を見れないかと、中庭に足を延ばす。


 吉野さんの家は、カーテンが閉められていて、外からは何の情報も得られなかった。


 留守なのかな。吉野さんは3日も学校を休んでどこにいるの? バイト? あんなに卒業を切望していた吉野さんが、3日もサボる? よっぽど高給の仕事があったとか? だとしたら、相当ヤバイバイトなんじゃないか?


 吉野さんの家の中庭で足を止め、色んな可能性を頭の中で巡らせていると、


「……え」


 カーテンの隙間から、信じられない光景が目に飛び込んできた。


 留守じゃなかった。吉野さんは、家の中にいた。


 吉野さんは、両手をガムテープでぐるぐる巻きに固定され、助けを呼べない様に口もガムテで塞がれていた。


 そんな吉野さんの髪の毛を鷲掴み、勢いよく口に貼られたガムテを剥がす、父親らしき男。


 吉野さんから何かを聞き出そうとしている様だった。


 この行為は、きっと何度も繰り返されたのだろう。吉野さんの唇は腫れ上がって血だらけだった。


 ……この男、やり方が汚い。近所の人間に気付かれない様に、静かに静かに吉野さんを甚振る。


 それでも吉野さんは口を開く素振りを見せない。


 すると男は、再び吉野さんの口にガムテで蓋をしたかと思えば、物を投げつけるかの様に、吉野さんの頭を床に叩きつけた。


 男の指には、引き抜かれ引きちぎられた吉野さんの長い髪が絡まっている。


「吉野さん!!」


 吉野さんを助け出そうと窓枠に手を掛けるも、鍵がかかっていて開かない。


 窓の揺れに気付いた吉野さんが、ゆっくり力なくこっちを向いた。


 弱々しく、薄っすらとしか開いていない吉野さんの目が、僕を見つけた。


 僕に向かって小さく首を左右に振る吉野さん。


『こっちに来るな』と言うことだろう。


 行くよ。そっちに行くよ。助けに行くよ。


 窓を叩き割ろうと適当な石を探し投げつけようとした時、目の前で吉野さんが男に背中を蹴り上げられた。


 洋服が捲れ上がり、吉野さんの背中が露わになる。


 吉野さんの背中は、腰までも、青くて黒くて赤くて、古くて新しい痣が犇めき合っていて、健康な肌を捜す方が困難な色をしていた。




『父親が母親に手を上げた。祖父母にも危害を加えようとした』


 なんであの時、気が付かなかったのだろう。


 母親だけでなく、祖父母にまで暴力を振るおうとしたならば、吉野さんだって害を加えられていても不思議じゃなかったのに。


『女子には週1で具合の悪くなる週がありますからね』


 吉野さんが体育を見学していた理由は、父親の暴力が原因で身体を動かすことが辛かったからじゃないだろうか。


『私、80キロまで担げるから』


 吉野さんは、あんな身体で僕をおぶって運んでくれたの?


 腸が煮えくり返るとは、このことを言うのだろうか。


 この怒りは何なんだろうか。


 何にも気付けなかった自分のふがいなさへの憤り。


 そして、ただただあの男が憎い。




「うわぁぁぁぁああああああ!!!!」


 持っていた石を振り上げ、窓ガラスに向かって投げようとした時、僕に気付いた吉野さんの父親が窓を開け、僕の胸倉を掴むと家の中に引きずり込んだ。


 そんな僕を、困った様な、悔しそうな、涙を溜めた目で吉野さんが睨んだ。


「誰だ、お前。他人の家の中庭に勝手に入って何騒いでんだ、くそガキが。不法侵入で警察に突き出すぞ」


 僕を吊るし上げる様に、僕の胸倉を掴んだまま、今にも殴りかかりそうな吉野さんの父親。


「是非警察の方に来て頂きましょうよ。暴行を受けて大怪我をしている少女がいるので保護してもらいましょう」


 怯むことなく吉野さんの父親に言い返す。だって僕は殴られたところで痛くも痒くもない。怪我をしたって構わない。吉野さんを助け出せるのならば。吉野さんを守れるのならば。


「【民事不介入】知らねぇのか? 馬鹿が」


 吉野さんの父親が、睨みを利かせながら僕に顔を近付けた。


「知ってますよ。【児童虐待防止法】ってご存知ですか? アナタ、第2条に抵触していますよ。それに、今アナタが僕を殴ったとしたら【傷害罪】。立派な犯罪になります。民事ではなく刑事事件。僕は赤の他人ですからね」


 怒りのあまり、トゲトゲしく吉野さんの父親を馬鹿にした様な挑発的な言い方をする。


「はぁ!?」


 目尻を吊り上げた吉野さんの父親が、急に膝で僕の腹部に蹴りを入れた。


『ごほごほ』と思わず咳き込む。当然痛くはないのだが、腹筋に力の入っていない時に衝撃を加えられれば、みんなと同じで一瞬息も止まるし、呼吸もし辛くなる。


 その場に膝をつき咳をし続ける僕に、


「ん゛ー!! ん゛ー!!」


 ガムテで口を塞がれている吉野さんが、涙を流しながら何かを叫んでいた。


 腹を摩りながら吉野さんに近づき、ゆっくり口に貼られているガムテを剥ぐと、


「ごめん!! ごめんね、北川くん!! ごめんなさい!! 帰って!! お願いだから帰って!! 帰って帰って帰って!!!!」


 自分が悪いわじゃないのに、吉野さんは何度も僕に謝罪をすると、僕を巻き込むまいと帰る様に促した。そんな吉野さんの背後に立ちはだかり、


「何? お前ら付き合ってんの? さっさと言えよ。そうしたら思う存分彼氏と遊ばせてやるから」


 吉野さんの父親が吉野さんの後頭部を足蹴にした。


 両手をガムテで縛られている吉野さんは、上手く床に手をつくことも出来ず、蹴られた勢いのまま床に倒れた。


「何してんだよ!!」


 怒りに任せて吉野さんの父親の胸を押すと、吉野さんの父親が後ろに倒れながらしりもちをついた。


 それを横目に吉野さんの傍に寄り、抱きかかえながら手首に巻かれたガムテを剥がす。


「大丈夫!? 吉野さん!!」


「大丈夫だから!! 何にも心配いらないから帰って北川くん!! 早く!! 早く帰って!!」


 ガムテが剥がれて自由になった両手で僕の肩を押し、中庭に出られる窓から出そうとする吉野さん。


 そんな吉野さん越しに、体制を整えた吉野さんの父親の、今にも殴りかかってきそうな姿が見えた。


「危ない!!」


 咄嗟に吉野さんを抱き寄せ覆い隠すと、


「ダメッ!!」


 吉野さんが上になる形で僕を押し倒し、僕に覆い被さった。


『ゴスッ』と鈍い音がした後、『ぐぅ』と吉野さんが小さく唸った。


 吉野さんの父親の拳が、吉野さんの左肩に入っていた。


「何で!? 吉野さん!!」


 どうして痛い思いまでして僕を守るの?


「……言ってたじゃん。『痛みは感じなくても、危害を加えられたら骨は折れる』って」


「いいんだよ!! それでも僕は痛くないからいいんだよ!! ……何でそんな話、いちいち覚えてるんだよ」


「それでも嫌なんだよ!! 北川くんが怪我をするのは嫌なの!! 北川くんこそ、いちいち私の家なんかに来ないでよ!! さっさと帰ってよ!!」


 ぐちゃぐちゃな顔で泣きながら僕に怒鳴る吉野さん。


 こんな吉野さんを置いて、どうして帰れると思うの?


「一緒に逃げよう、吉野さん」


 吉野さんの手を握った時、吉野さんの父親が近くにあったハードカバーの本を手に取り、それを吉野さんの顔面目がけて投げつけようとするのが目に入った。


「吉野さん!!」


 吉野さんの顔の前に手を伸ばし、飛んできた本をブロックすると、ちょうど本の角が腕に当たったのか、腕に掠り傷が出来、薄ら血が滲んだ。


「ごめんねごめんね」と泣きながら僕の腕を摩る吉野さんの頭を「全然平気だから」と言いながら撫でては、吉野さんの父親を睨み付けた。


「『一緒に逃げよう』って何だよ。逃げるも何も、コイツん家はここ。そして俺はコイツの親。だから、コイツのものは俺のもの」


 僕に向かっておかしな持論を言っては「ほら、さっさと言えよ。お前が言わないから、こんなことになってるんだろうが。全部お前のせい。全部お前が悪い」と吉野さんを指差しながら罵る吉野さんの父親。


「吉野さんから何を聞き出そうとしているのか知りませんが、吉野さんのものは吉野さんのものですよ。吉野さんがアナタに贈与しない限り、アナタのものにはなりません。吉野さんは何も悪くない」


 吉野さんを肩で隠しながら吉野さんの父親に反論すると、


「さっきから何なんだ、この部外者」


 苛立った吉野さんの父親が、またも拳を構えた。


「北川くん!!」


 僕を庇う為、僕の前に出ようとする吉野さんを右手で制止し、左頬で吉野さんの父親のパンチを受け止めた。


 口の中を切ったのか、口端から血が垂れ出た。


「お願いだから帰ってよ、北川くん」


 僕の血を親指で拭き取りながら泣く吉野さん。


「痛くないから大丈夫って言ってるじゃん」


「それでも怪我するじゃん!!」


「それでも僕は痛くない!! 僕は、吉野さんが怪我をするのが嫌だ。吉野さんが痛い思いをしなければそれでいい!!」


 僕の血で汚してしまった吉野さんの指を、Yシャツの裾で拭う。


「汚れ、落ちなくなっちゃう」


 こんな時にまで、僕の制服を気にして手を引っ込めようとする吉野さん。そもそも僕の血なのに。他人のことなど気に掛けている場合じゃないのに。 


 こんなに優しい吉野さんに、どうして吉野さんの父親はこんな惨い仕打ちが出来るのだろう。赦せない。


「吉野さんから聞きましたよ。『父親が働かない』って。『自分勝手に独立したくせに、他人に頭を下げることを恥だと思って、自ら仕事を取りに行かない』って。……何なんですか、それ。そんなことがまかり通るのなんて、アラブの石油王くらいでしょうよ。どんなに大企業の社長だって、会社を守る為に、事業を継続出来る様に、頭を下げながら仕事しているんじゃないんですか? アナタのその考え方が、恥ずべき思考です。家族に平気でこんな醜態を晒せるくせに、中途半端なんですよ、変なプライドとやらが」


 ぎゅうっと拳を握り締め、ゆっくり立ち上がると、


「学生のお前に何が分かるんだよ。何にも知らねぇだろうが!!」


 僕の言葉に、こめかみに血管を浮かせた吉野さんの父親が、近くにあったテーブルを蹴り飛ばした。


 僕の方に転がってきたテーブルを避けながら、吉野さんの父親に喰ってかかる。


「特段知りたくもないですよ。本当は結構前から気付いていたんじゃないんですか? 『自分に自営業は向いていない』って。アナタの性格が邪魔をして、引くに引けない状態になっただけでしょう。恥ずかしくて、カッコ悪くて頭を下げられない。だったら今のアナタは何なんですか? 働かずに家族に暴力振るって。相当ダサいだろうが!! 下げろよ、頭の1つや2つ。難しいことじゃないだろうが!! 何でこんなに状況が悪化するまで、悪化しても尚、改善しようとしないんだよ!!」


「うるせぇな!! お前に関係ないだろうが!!」


 吉野さんの父親が僕に掴みかかり、馬乗りになった。


「やめて!!」


 僕に怪我をさせまいと、僕と吉野さんの父親の間に、吉野さんが自分の身体を挟み込んだ。


「何でって……手遅れだからだよ」と吉野さんが僕の耳元で呟いた。


 手遅れになるまで拗らせてしまったことを分かっているから、吉野さんの父親は事態の建て直しを放棄した。吉野さんも父親の改心を諦めてしまった。そんな吉野さんが、


「……言うよ。だから、北川くんに迷惑が掛かることはしないで。北川くんから離れて!!」


 頑なに口を噤んでいた秘事を話すと言い出した。


「何を言うの!? 何で言うの!? 吉野さんがこんなになるまで守っていた秘密なんでしょ!? 僕を守る為? だとしたら、自己犠牲も甚だしいよ。僕がそんなことをされて嬉しいと思う? 申し訳ない気持ちになるに決まってるじゃん!! 吉野さんなら分かるでしょ? そういうとこ敏感な子なんだから。恩着せがましいよ!! 言っちゃダメ!! 絶対にダメ!!」


 諦めの表情で開きかけた吉野さんの口を、慌てて自分の掌で塞ぐ。


「なかなか言いますね、北川くん」と僕の指の隙間から小さな声を漏らすと、吉野さんが眉間に皺を寄せながら、申し訳なさそうに少し笑った。


「邪魔すんなよ。コイツが言うって言ってるんだから、言わせればいいだろうが!! さっきから邪魔ばっかりしやがって。この赤の他人が!!」


 吉野さんの首根っこを掴み、僕から引き離すと、再度僕に馬乗りになる吉野さんの父親。


「やめて!! やめて!!」


 再び拳を作った吉野さんの父親の腕に、吉野さんが絡みつく。


「退け!!」と吉野さんの父親にあっけなく振り払われた吉野さんは、近くの壁に勢い良く背中を打ち付けられてしまった。


 手の届かない背中を、擦ることも出来ない吉野さんは、「ふぅふぅ」と苦しそうに呼吸をしながら痛みに耐えていた。


 吉野さんの背中、ただでさえボロボロなのに。


 吉野さんの父親は、周りの人間にバレない様に、吉野さんの背中や腰など、傍から目に付かない箇所を執拗に攻撃していたのだろう。


 なんて卑怯なんだ。狡すぎる。


 湧き上がる怒りが、もう自分では手に負えない状態にまで達してしまった。


「……吉野さん。吉野さんのお父さんに散々失礼なことを言った挙句今更なんだけど……ゴメン。僕、この人ぶっ飛ばすね」


 僕は病気持ちだけど、病弱じゃない。


 今まで殴り合いのケンカなんか1度もしたことがないけど、普通の高校生並には出来るはずだ。


 ただ、初めてだけあってやり方が分からない。人に拳を向けるのも躊躇する。


 だけど、そんな罪悪感に後でどんなに後悔しようとも、今はどんなことをしても吉野さんと助け出したい。


 闇雲に吉野さんの父親のシャツを掴むと、吉野さんの父親は僕の反撃に少し怯み、腹部に隙を作った。


『今だ!!』と瞬間的に腕が反応し、吉野さんの父親の腹に拳を殴り入れた。


 吉野さんの父親が、身体を丸めながら咳き込む。


 その隙に、揉み合いで潰れてしまったスクールバッグを肩にかけ、痛みに悶えている吉野さんを抱き上げると、急いで吉野さんの家を飛び出した。


 吉野さんの家の付近に土地勘がなく、どこに向かって逃げれば良いのか分からない。


 あの男が追って来ない場所。兎に角、遠くへ遠くへ。がむしゃらに走っていると、


「北川くん、降ろして」


 吉野さんが、申し訳なさそうに囁いた。


「恥ずかしいかもだけど、我慢して」


 吉野さんを抱きかかえて出てきてしまった為、吉野さんに靴を履かせるのをすっかり忘れてしまっていた。


 裸足で歩かせたくないし、何よりこんなにもダメージを受けている吉野さんの身体の負担を、少しでもやわらげたかった。


「……そうじゃなくて。臭いでしょ? ……私、3日間お風呂に入れてないんだ。それに、重いし」


 恥ずかしそうに、悔しそうに、唇を噛み締め、目に涙を滲ませる吉野さん。


 吉野さん、女の子なのに。女の子が自分を『臭い』なんて、言いたくないに決まっている。どんなにやるせない気持ちでいるのだろう。 


「そんなしょうもないこと、気にしなくていいから。それに、吉野さんに僕をおぶれて、僕に吉野さんを抱っこ出来ないわけがないでしょ」


 吉野さんの気持ちが苦しくて、ぎゅうと吉野さんを抱き寄せた。


「しょうもないことって。……否定しないってことは、やっぱ臭いんじゃん」


 吉野さんが身体をずらし、僕との間に空間を作った。


「否定したらしたで勘繰るくせに」


 吉野さんが作った空間を潰すように、腕に力を入れて密着すると、


「……こんなことをさせてゴメン。ごめんね、北川くん」


 吉野さんが、僕の肩で泣いた。


「僕が勝手にしてるだけ。だから謝らないで。それに、吉野さんが悪いわけじゃないでしょ。逆にごめんね。謝らせちゃって」


 そう言って吉野さんの髪を撫でると、いつも風に靡いていたサラサラの髪の毛が軋んでいて、どうしようもなく悲しくて仕方なかった。




 行く当てもなく暫く歩いていると、川原に辿り着いた。


 土手に一旦吉野さんを座らせ、一休みすることに。


「吉野さん、お腹空いてない? 学校で小山くんにもらったやきそばパンが……」


 さっきの揉み合いでぐちゃぐちゃになってしまった鞄の中を、手探りしながらパンを探す。


 3日間お風呂にも入れなかった吉野さん。もしあの地獄の様な時間が3日も続いていたならば、ご飯だってちゃんと食べれていなかったかもしれない。


「あった」


 それらしい感触のものを発見し、取り出してみると、やきそばパンも見事にぐちゃぐちゃだった。


「一応、僕の母親が作ったお弁当もあるっちゃあるんだけどね、この調子だとそっちの方もご臨終っぽい」


 制服のジャケットの右ポケットに入れていたスマホを取り出し、「近くにコンビニないかな。つか、そもそもココどこ」などとブツブツ呟きながら、吉野さんが食べてくれそうなものを買いに行くべく検索を開始。


「パン、貰う。ありがとう」


 吉野さんが、僕の左手からやきそばパンを抜き取った。


「……ウチの住所、小山に聞いたの?」


 吉野さんが、小山くんから貰ったやきそばパンを見つめながら問いかけてきた。ので、コンビニ検索をやめ、スマホをポケットに仕舞った。


「うん。吉野さん、3日前に小山くんに告白されたんだよね? 小山くんに聞いた。小山くんが吉野さんの家に行った時は、まだあんなことにはなってなかったんだよね? それなのに、何であんな状態になっちゃったの?」


「私の失敗が重なっちゃって……。まさか、小山に告られると思ってなかった」


「イヤイヤイヤ、分かるでしょ。あんなに分かり易く吉野さん好き好きビーム発射しまくってたじゃん、小山くん」


「そりゃ、なんとなく気付いてはいたよ。だけど私、『恋愛しない』ってはっきり言ってたし、小山に期待を持たせる様な行動もしてないと思うし」


 恋愛をしようとしない吉野さんは、僕と同じでこういう部分が少し疎い。


「……私ね、通帳も印鑑も祖父母に預けているし、カードでお金を下ろすときも、明細票はいつも出さないのね。残高が父親にバレたら全部取られちゃうからさ」


 吉野さんの話がいつもの様に逸れる。だけど、黙って耳を傾けた。だって、吉野さんの話は脇道に逸れようとも、必ず本線に戻ってくるから。


「……あの日、お金を下ろした時に、何故か間違って【明細票発行ボタン】を押しちゃったの。その時に細かく千切ってゴミ箱に捨てちゃえば良かったのに、『バイト先のシュレッダーにかけよう』って財布の中に入れたままにしてて……」


 後悔で顔を顰める吉野さんの背中を擦ると、「ありがとう」と吉野さんが少しだけ微笑んだ。


「私の部屋ね、鍵があるの。初めてバイト代をもらった時に付けた。部屋にいる時もいない時も絶対にその鍵はかけていて。……でもあの日の夜、『吉野の家の近くにいるから来て欲しい』って、小山から電話がきて。なんか小山の様子がおかしくて……。心配になって急いで家を出たの。その時に、部屋の鍵かけ忘れちゃって……」


 吉野さんが、悔恨に項垂れた。


「そりゃ、小山くんの様子もおかしくなるよ。【これから告白】って時なんだから」


「だから、そうとは思わなかったんだって。心配になるレベルでしどろもどろだったんだよ、小山」


 吉野さんの話から、小山くんのドキドキ感が充分に伝わってきて、これから自分も同じことをするのかと思うと、急に自分の方までソワソワしてきてしまう。


「小山に会いに行ってる間に、父親に部屋に入られちゃってさ。財布の中身を見られて、当然明細票も発見されて『通帳はどこだ。印鑑を出せ。暗証番号を教えろ』って……」


 吉野さんの父親が知りたがっていたことは、吉野さんのキャッシュカードの暗証番号だったらしい。


 吉野さんの父親は、吉野さんが嫌な想いをしながらも一生懸命稼いだお金を取り上げようとしていた。


 仕事が上手くいかなかった。家庭も崩壊した。何も思い通りにいかない中、暴力さえ振るえば王様になれる吉野さんの父親。


 怒りも当然あるけれど、吉野さんの父親を、哀れだなと思った。


「どうしてずっと逃げ出さなかったの? 児童保護施設とか、シェルターとか、色々あるじゃん。お母さんは? 吉野さんのお母さんは一緒に暮らしているんだよね? 大丈夫なの? 今どこにいるの? どうしてこんなになるまで……」


 傷だらけの吉野さんを見ると、胸が痛くて堪らない。


「施設に入ったら、国に助けを求めてしまったら、バイトが出来なくなっちゃうじゃん。母は大丈夫だよ。今日も仕事に行った」


 吉野さんの言う通り、国に保護されてしまったらコンパニオンのバイトは出来ない。吉野さんは、逃げたくても逃げられなかったんだ。


「お母さん、仕事に行ったの? こんな状態の吉野さんを置いて?」


「そりゃあ、巻き込まれて自分まで暴力振るわれたくないでしょ、誰だって。それに、母がお金を稼いでくれないと生活が出来ないもん。私のバイト代だけじゃ、とても無理だよ」


 吉野さんの言葉に全然共感が出来なかった。


『誰だって、巻き込まれたくない』。他人ならそう思うだろう。でも、自分の身の危険を案じて我が子を見捨てるなんて、僕には到底考えられないことだった。


「……吉野さんの嘘吐き。この前資料室で話したことが全部じゃないじゃん。話の脈略で汲み取れなかった僕も相当アホだけど、自分も暴力受けてるんだって、なんで話してくれなかったの?」


 知っていたら、もっと早くに助け出せたのに。吉野さんの怪我もこんなに酷くならずに済んだかもしれないのに。今更でしかない質問を吉野さんにぶつける。


「話してたら、『吉野さん、怪我してる背中で僕をおぶってくれたんだ』とか気に病むでしょ、どうせ。北川くん、気にしいだから。言っておくけど、あの時は随分治ってたからね。全然痛くなかったから」


「そういうの気にする吉野さんの方が、よっぽど気にしいじゃん」


 吉野さんの反論に言い返すと、吉野さんは口を尖らせてそっぽを向いた。


 あぁ。僕はきっと、吉野さんのこういう可愛さと優しさに惹かれたのだろう。


「……吉野さん。僕……」「キミたち、何しているの?」


 吉野さんに勝負を仕掛けようとした時、背後から声がした。


 吉野さんと一緒に振り向くと、


「どうしたんだ!? 何があったんだ!?」


 そこにいたのは警察官で、ボロボロの僕らを見て駆け寄って来た。


 僕らは、補導されてしまった。


 目の前で警察官が近くの駐在所と連絡を取り、パトカーの手配をし出した。


 どうやら僕らは、そのパトカーで病院に送られるらしい。


 パトカーを待つ間、警察官が僕らに職質を始めた。


「キミたち、高校生? 男の子の方はM高の制服だよね? 何年生? どうして2人とも怪我をしているの?」


 警察の人間に全部話したら、吉野さんはもうあんな辛い目に遭わなくて済むのかもしれない。でも、吉野さんは国の援助を求めていない。だけど、こんな吉野さん、見ていられない。話そうか話すまいかを迷っていると、


「……怪我は、私の父の暴力です。彼は、暴行を受けていた私を助ける為に、こんな時間に学校を抜け出して来てくれました。彼は何も悪くない。だから彼のことを学校には報告しないで頂けませんか? 病院で手当を受けた後、彼は帰宅させて下さい。彼は学校や警察に指導されるべき悪事を何一つ働いていないのですから」


 吉野さんが僕の一歩前に出て、僕の体裁を守ろうと警察官に向かって話し出した。


「キミのお父さんにやられたの? キミ、学校は? お母さんは今何をしているの? 家の住所は?」


 吉野さんの思惑通り、警察官の質問は吉野さんに集中した。


 吉野さんは、警察官の質問に素直に答えるのだろうか。助けを求めてくれるだろうか。


「……住所はF町3-2-1です。彼を巻き込み、怪我をさせてしまったことは、本当に申し訳なく思っています。反省もしています。でも、私は犯罪を犯したわけではありません。身元引取人が必要なら、母の仕事が終わる時間に連絡を取ります。母の勤務先に警察から電話があったら、職場での母の立場が悪くなり兼ねませんから。どうか、それで勘弁してもらえませんか?」


 やっぱり吉野さんは、救いの手を伸ばさなかった。


「キミ、学校は?」


 吉野さんが唯一答えなかった問を、再度聞きなおす警察官。


 吉野さんは、ただ単に質問を聞き逃して答えなかったわけではないだろう。答えたくないから、敢て答えなかったのだと思う。


「……」


 切り抜ける言葉を捜しているのか、吉野さんは俯きながら眉間に皺を寄せた。


 高校卒業に強い拘りを持っていた吉野さん。


 別に悪いことをしたわけではない。けれど、学校にバレて【家庭環境に問題がある子】というレッテルを貼られた時、内申評価はどうなるだろう。


 学校側だって、進学・就職率を上げる為に余計なことを資料に書き込んだりはしないとは思う。だけど、家庭環境に問題のない人間の方が推し易いのは確かだろう。


 吉野さんに、補導暦はいらない。


「彼女は高校に行っていません。フリーターです」


 僕らは悪さをしていない。今を切り抜けられれば、後々身元の調査をされることもないだろう。


 吉野さんが私服だったのを良いことに、嘘をでっち上げた。


「フリーターというか、無職です」


 吉野さんが、僕の嘘に乗っかっる。そうか。フリーターだと職場を聞かれ兼ねない。


 警察官を欺こうと、打ち合わせなしの嘘を2人で必死に炙り出していると、僕らを病院に連れていく為のパトカーが到着した。


 警察官に促され、パトカーに向かっている途中、


「ありがとう。北川くん」


 吉野さんが、警察官に気付かれない様に、小さく囁いた。


「咄嗟に吉野さんをモラトリアムな人にしちゃってゴメンネ」


 そう小声で返すと、吉野さんがしょっぱい顔で笑った。




 吉野さんを護りたいと思った。


 吉野さんの笑顔を、守りたいと思った。




 パトカーに乗り、病院に運ばれると、2人で怪我の手当てを受けた。


 僕の傷などたいしたことがなかった為、消毒液を塗られてガーゼ貼られて、ハイおしまい。


 だけど、傷だらけの吉野さんはそういうわけにもいかなくて、骨が折れていないかなどを調べることに。


 吉野さんの治療が終わるのを待合室で待っていると、


「怪我、大丈夫なの!?」


 慌てた様子の母親が小走りで僕の傍にやって来た。


 親に心配かけたくなくて、出来れば呼びたくなかったのだけれど、僕も吉野さん同様、『身元の引受人が必要』と警察官に言われた為、しぶしぶ母親に電話をした。の、だが、


「だからあの子には関わるなって言ったんだ」


 何故か父親もついて来ていた。


 こんな時、『あぁ、やっぱり僕は病人なんだな』と思い知らされる。ちょっと傷を作っただけで大袈裟に心配されて、両親が揃ってしまう。


 そして、僕が守りたいと思っている、大切な人から引き離そうとさせられてしまう。


「関わるなって……。じゃあ、痣だらけの吉野さんを見過ごせば良かったの? 吉野さんだって被害者なのに。吉野さんは僕に『助けてくれ』なんて一言も言ってない。僕が巻き添いを食わない様に『帰って。逃げて』って僕を庇おうとしてくれたよ。優しい人だよ、吉野さんは。そんな吉野さんを助けたいと思う僕は、間違っているのかな」


 溜息混じりに父親に問いかける。


「救えるのか? 彼女を。お前の力で」


「……」


『お前に何が出来るんだ』と言わんばかりの父親の言い方に、言葉を詰まらせる。


 吉野さんを助けたい。守りたい。想いは溢れるほどにあるというのに、自分はあまりにも無力で、その場凌ぎの援助しか出来ていない。


 どうすれば良いのか、分からない。


 黙り込んで俯いていると、処置室の扉が開き、治療を終えた吉野さんが出てきた。


 僕の両親の姿を見つけると、一礼した後に申し訳なさそうにこちらに歩いてくる吉野さん。


 僕の両親の前で足を止めると、吉野さんが勢いよく頭を下げた。


「すみません!! すみません!! お2人との約束を破って北川くんに怪我をさせてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。もう北川くんとは……」「嫌だよ!!」


 吉野さんが言おうとしていることが予想出来て、その先を言わせまいと遮る。


「何で!? 吉野さん、言ってくれたじゃん!! 僕と話がしたいって言ってくれてたじゃん!! 僕は嫌だ。吉野さんと関わりを持てなくなるなんて、絶対に嫌だ」


 吉野さんの両肩を掴み、折り曲げたままの吉野さんの上半身を起こす。


「……私といるとロクなことがないからだよ」


「あるよ!! いっぱいあるよ!! ロクなことだらけだよ!!」


 吉野さんが僕から離れて行こうとするのが、どうしても嫌で、不安と焦りで日本語が滅茶苦茶になる。


「……わけ分かんない。もう、嫌なんだよ。北川くんが怪我するのを見るの」


 吉野さんは僕と目を合わせてくれず、辛そうに目を伏せた。


「僕は痛くないから、そんなことはどうでもいいって言ったでしょ!?」


「そういう問題じゃない!!」


 吉野さんが大声を出して、肩に置かれていた僕の手を振り払った。


「静かにしなさい。ここをどこだと思っているんだ」


 そんな僕らを見兼ねた父親が仲裁に入る。


「キミがもうウチの息子とは関わらないと言っても、既に関わってしまっているよね? 警察の人から少しだけ伺ったけど、どうして息子は怪我をしなければならなかったのか、何故キミは傷だらけなのかを、私たちにも詳しく聞く権利はあるよね?」


 僕と吉野さんの間に入った父が、吉野さんに『話さない』という選択肢を与えない圧力をかけた。


「……」


 返答に窮し、涙目で僕の父親を見上げる吉野さん。


 国にさえ救助を求めない吉野さんが、僕の父親に話したいことなど何もないだろう。


 まして、僕の父親は吉野さんのバイトのことを知っている。


 家庭環境を知られ、バイトのことまで学校等に報告されたら、吉野さんはどうなってしまうのだろう。


 吉野さんに拒否権のない、『聞く権利』とやらを、父親からどうやって奪えるだろう。


 その権利を剥奪したところで、代わりに僕に何か出来るのだろうか。


 どうすれば、吉野さんを安心させられるだろう。




「お父さん。お願いだから、吉野さんの人生に不利になることはしないで欲しい。吉野さん、誰よりも謙虚に一生懸命生きている人だから」


 逃げ道も打開策も見つけられない。だからせめて、吉野さんの心配を取り除きたかった。


「お前はまだ17歳の高校生だ。お前に出来ることはせいぜい彼女に手を貸す程度で、人を助けられる程大人じゃない。お前じゃ幼すぎて、彼女の人生を有利にするなんてことは到底出来ない」


 腹立たしい父の言葉。だけど反論など出来なかった。その通りだったから。


「……お父さんとお母さんを信用しても大丈夫?」


 父と母に、力になって欲しいと思った。だけど父と母に、吉野さんを裏切って欲しくないと思った。


 そんなことをされたら僕は、両親を憎んでしまうだろうから。両親を嫌いになりたくはないから。


「オイコラ。親に向かって何てことを言ってんだ。そんなに俺らは信用ないのか?」


 父が、眉をピクつかせながら笑った。


 大丈夫。大丈夫だよ、吉野さん。僕の親は信用出来る。


「……話そう? 吉野さん、国に助けて欲しくないんでしょ? 警察に、変に踏み込まれたくないんでしょ? ごめんね。吉野さんの力になりたいのに、何も出来なくて。役立たずで、本当にゴメン」


 吉野さんを諭す様に、吉野さんの背中を擦ると、


「なってるよ。いっぱいいっぱい力になってるよ。ありがとうね、北川くん」


 吉野さんの目から涙が零れ落ちた。そして、


「……助けて下さい」


 吉野さんが、僕の両親に頭を下げた。


 初めて吉野さんが、助けを求めた。


 そんな吉野さんの肩を、母がそっと抱いた。


「吉野さん、お母さんは?」


「……仕事です」


 吉野さんの返事に母は、「そう」とだけ応えると警察官の方に向かって歩き始め、


「私共は怪しい者ではありません。マイナンバーカードも免許証も、持っている全ての身分証明書を提示しても構いません。ですから、吉野さんを私共の家に連れ帰らせて頂きたい。吉野さんは女の子ですよ。あの子の母親の仕事が終わるまで、お風呂にも入れず、着替えもさせずに待たせる気ですか?」


 僕らと一緒に帰ることを提案してくれた。


 両親が警察官を説得してくれ、4人で僕の家に帰ることに。4人で父親が運転する車に乗り込む。助手席に母が、後部座席に吉野さんと僕が座った。


「吉野さん、何か食べたいものある? 食べられないものはない? 吉野さん、ちゃんとご飯食べられてなかったんじゃないの? 消化の良いもの作るから、しっかり食べようね」


 吉野さんの様子から、吉野さんがお風呂に入れていないことを察していた母が、助手席から顔を出し、吉野さんに話しかけた。


「お気遣いありがとうございます。でも、そこまで甘えられません。大丈夫ですから」


 僕の隣で、吉野さんが首を振りながら頭を下げた。


「ちょっとちょっとー。私、子どもに遠慮させる様なしょぼい大人のつもりじゃないんだけど、そう思われてるってことなの?」


 吉野さんの恭しい態度に、母が白々しく拗ねた。


「そんなそんな!! そういうつもりじゃないんです。すみませんすみません」


 吉野さんをリラックスさせたくて取っただろう母の言動に、緊張気味の吉野さんは気づくことなく身構えた。


「吉野さん吉野さん。母が手を差し伸べているわけなので、振り払わないで欲しいな」


 吉野さんに「遠慮深いね、吉野さんは」と笑いかけると、


「……いいのかな」


 他人に迷惑を掛ける行為を兎に角嫌う吉野さんが、戸惑いながら僕を見つめ返した。


「いいんだよ」


 それまで会話に全く入って来なかった父親が、突然声を出した。


「キミが助けて欲しいと言ったんだ。私たちに心を開いて、ある程度寄りかかってもらわないと、私たちもキミに歩み寄れないだろう? それにキミをちゃんと助けなければ、息子がキミと関わりを持ち続けることに安心出来ない」


「お父さんの言う通り!!」


 すかさず合いの手を入れる母。


「お父さんの言う通り!!」


 なので、僕も被せてダメ押ししながら吉野さんの顔を覗き込むと、


「……好き嫌いもアレルギーもないです。何でもおいしく頂きます。ありがとうございます」


 吉野さんが、困惑しながらも笑顔で答えた。


「それなら安心。栄養価が高くて、おなかに優しい食事をたくさん作るから、いっぱい食べてね。あ、吉野さんがお風呂に入ってる間にお料理と、吉野さんの洋服のお洗濯しちゃうから、のぼせない程度にゆーっくり入ってくれると助かるわ。シャンプーとボディソープは、私のヤツを使ってね。男共はその時特売のヤツを使わせてるんだけど、私のだけはそれなりにイイヤツだから、髪の毛サラツヤ、お肌しっとりよ」


 母が「大丈夫、すーぐ元通りよ」と、吉野さんのきしついた髪の毛を優しく撫でた。


「オイ、やっぱりか。妙に泡立ちの悪いヤツを買ってくる時あるよな、お母さん。そんなことだろうと思って、安いシャンプーにお母さんのヤツも混ぜて頭洗ってるぞ、俺」


 そんな母に白い目を向ける父。


「嘘でしょ!? ヤメテよ、勝手にヒトのモノを使うの!!」


「自分だけ高いヤツ使っておいて、どういう神経してんだよ、お前」


「いいのよ私は!! 女だから!! 髪は女の命でしょうが!!」


 そして揉め出す両親。


「……じゃあ、私も半々に混ぜて使わせてもらいますね」


 クスクス笑いながら、吉野さんが僕の両親の会話を収めるべく口を挟んだ。


「え? そんなことしなくていいよ。僕、ハナからそんなことしてないし。お母さんのシャンプーしか使わないし」


 吉野さんが遠慮しない様、言葉を掛けると、


「どうりで減りが早いと思ってたわよ!!」


 今度は僕にキレる母。


「あぁ!! やっぱり人って簡単に信用しちゃいけないわね!! でも大丈夫!! 私は吉野さんのこと、裏切らないから!!」


 そして母が吉野さんの手を握り、家族の揉め事に巻き込んだ。


 母に困惑の笑みを返す吉野さん。


「オイオイ、どの口が言ってんだよ。こっちのセリフだよ」


 吉野さんを困らせる母に、父と僕とで突っ込む。


 帰宅中の車内は、母のせいで非常にうるさかった。


 でも、僕らの様子を吉野さんが肩を揺らせながら笑って見ていて、そんな吉野さんの笑顔に安堵した。嬉しかった。


 吉野さんが笑ってくれるなら、家族の醜態を晒すのも悪くないかなと思った。




 家に着くと、母は早速料理を作り、僕は吉野さんの為にお風呂を沸かした。


 お風呂が沸くまでの間、吉野さんは父に、今の状態やこれからどうしたら良いのかを相談していた。


 吉野さんの話に真剣に耳を傾ける父。


 吉野さんが抱える問題に、父は小さく溜息を吐き、料理をしていた母は、時折手を止めてはエプロンで目頭を拭っていた。


 湯沸かし器からお風呂が沸いたことを知らせる音楽が鳴ると、ひとまず父は吉野さんにお風呂に入るように促した。


「何から何まですみません。ありがとうございます」と頭を下げると、席を外す吉野さん。吉野さんが部屋を出ると、


「ちょっと、本田に電話してくるわ」


 若干顔を曇らせ、父も席を立った。


「よーくお願いしてね」


【本田】のワードに、さっきまで目を潤ませていた母が元気を取り戻し、口角を上げては軽快に料理を再開した。ていうか、本田って誰。




 お風呂からあがった吉野さんは、母に湿布や薬を塗り直してもらい、お昼を食べ損ねていた僕と並んでダイニングの椅子に座った。


 テーブルに、母なりの【栄養たっぷりで消化の良い料理】が並ぶ。


 母に『野菜スープよ』と差し出されたそれは、『野菜の煮ものではないんだね?』と突っ込みたくなる程に、汁気は気配を消し、野菜が異様に主張をしているし、『お粥どうぞ』と吉野さんの目の前に置かれたものは、野菜の森に覆われていて、相当掻き分けないと米に辿り着かない域に達していた。


 母の『吉野さんに元気になって欲しい』という気持ちがひしひし伝わるから、何も言えず苦笑いしか出来なかった。


 そんな僕の隣で吉野さんが『北川くん家の食卓って豪華なんだねー。ポトフかと思ったー。すごーい』と、母が『野菜スープ』と言い張るものを手に取り驚いていた為、吉野さんにも母に向けた笑顔と同じ表情を向けながら『いつもはこんなんじゃない』という念を送った。


 でも、『おいしいおいしい』と嬉しそうに食べる吉野さんの横顔に、『まぁ、後々北川家の食卓事情がバレたとしても、ウチの人間が恥をかくだけで誰も傷付かないし、いっか』と念の送信をやめた。


 2人で仲良く母の料理を食べていると、電話をし終わった父が僕らの向かいに座った。


「吉野さん、食べながらでいいから聞いて」


 父にそう言われたけれど、吉野さんは持っていた箸を置き、父の顔を見つめた。


「私の大学時代の【本田】という友人のお義姉さんが弁護士をやっていてね」


 父が話し出すと、何故かクスクス笑い出す母。


「……まぁ、とんでもなく気が強くてね。ただ、物凄く頭は良いし腕も確かな人だから、信用を置いても問題のない人間だとは思うんだ。だから、相談してみないか?」


「……弁護士さんに相談出来るほど、まだお金貯まってないんです」


 でも、吉野さんは父の話で笑うことなど出来なくて、逆に顔を強張らせた。


「そんなのは何とでもなる。私の知り合いだ。分割にしてもらうとか、ちょっとくらい融通つけてもらえるはずだから。兎に角、今のままではいけない。それは分かっているだろう?」


 父の言うことに、頷きながらも眉間に皺を作りながら俯く吉野さん。


「……で、本田にお義姉さんの紹介を頼んだら、アイツ仕事が早い人間でね……。即効でさっき本田のお義姉さんから電話が来て……。吉野さんの許可も貰ってないのに事後報告で申し訳ないんだけど、大方の事情を話したらね、今からうちに来るって言っていてね、吉野さんに相談してから手配したかったんだけど……。申し訳ない」


 気が強いらしい本田さんにストップをかけられなかったことが不本意だったらしく、父も苦い顔をしながら目を伏せた。


 そんな父を見ながら「まぁ、止められないわよねー」と母が笑う。


「……え」


 自分の知らない間に交わされていた決定事項に、吉野さんが混乱していた。


 そんな吉野さんの困惑を他所に、玄関のベルが鳴った。


「早ッ!!」


 4人一斉にインターホンに目を向ける。


 母が立ち上がり、インターホンを覗く。


「あ、お待ちしておりましたー。本田さん」


 ベルを鳴らしたのは、やっぱり【本田さん】だった。


 両親が本田さんを迎えに玄関に行くと、心の準備が全く出来ていないだろう吉野さんは、緊張を抑えたいのか、心臓の当たりを掌で摩っていた。


 そんな吉野さんの肩に「大丈夫だよ」と手を乗せると「ありがとう」と吉野さんが微笑みながら僕を見上げた。


 この笑顔を守らなきゃ。誰の力を借りてでも、何をしてでも守らなきゃと、強く思った。




 リビングに足音が近づいて来て、ドアが開いた。


 入って来た女の人は、いかにも敏腕そうで、見るからにお高そうなスーツを身に纏った、バリバリのキャリアウーマンだった。


「あなたが吉野さんね? 初めまして。弁護士の本田です。どうぞ、宜しく」


 吉野さんを見つけると、サッと名刺を差し出すキャリアウーマン・本田。


「よ……吉野です。宜しくお願いします」


 立ち上がり、お辞儀をしながら名刺を受け取る吉野さんを、


「じゃあ、早速あっちでお話しましょうか」


 ダイニングに繋がるリビングのソファを指差し、自分の家かの様に振舞いながら吉野さんを誘導する、弁護士・本田。


 本田さんの何とも言えない迫力に、誰も突っ込みを入れられずに従う。


「しっかし、暫く見ない間に立派に普通のおっさんになったわねー。昔はバカ丸出しの大学生だったのにー」


 ソファに座りながら父を見て笑う本田さん。


「子どもの前でそういう話するの、やめてもらえませんかね」


 父は、本田さんの近くには座りたくない様で、敢て遠めの場所に腰を掛けた。


「え? 何? 子どもの前で見栄張って『バカ小出しの大学生だった』とでも言えば良かったのかしら? 偽証罪だわ。弁護士としてそれは出来ないわー」


 本田さん、大笑い。母もつられて笑う。


「~~~何で本田の兄貴はこんな気が強くて口が達者な女と結婚したんだ!! 本田も本田の兄貴もめっさ優しいイイ奴なのに、何故この女を家族に招き入れたんだ!!」


 そしてキレる父。


 あぁ。なんとなく本田さんの言ってる意味が分かるわ。お父さん、キレると何かバカ丸出し。


「お母さんも本田さんのこと、知ってるの?」


 本田さんと父の様子をただ笑って見ている母に問いかける。


「お父さんが大学生の時には、本田さんと本田くんのお兄さんはもう婚約されてたから、お父さんが本田くんの家に遊びに行くといつも本田さんがいたみたいでね、行く度にイジり倒されてたみたい。因みに、私たちの結婚式にも来てくれたのよ」


 楽しそうに答える母にすかさず、


「呼んでない!! 呼んでないのに『出席してやる』って上から目線で招待状の催促してきやがったんだ!!」


 父が過去の不満を爆発させた。


「はぁ!? ご祝儀にどんだけ色付けて包んでやったと思ってんのよ!!」


 立ち上がり、父に近づく本田さん。


「出た出た。20年も前の話を恩着せがましいわ……痛ぇな!!」


 言い返す父の旋毛に、本田さんが拳を落とした。


 女の人にぶん殴られている父を……いや、そんな男を見たのは、ドラマ以外で初だった。


「弁護士の所業じゃないだろ。暴行罪だろ、これ」


 叩かれた頭部を「犯罪者め」と言いながら撫でる父。


「通報してみなさいよ。一瞬で揉み消してやるから」


 自らのスマホを父に差し出し「やってみろよ」と笑う本田さん。


「お父さん、本田さんには敵わないわよ。謝って」


 母が父に本田さんへの謝罪を要求した。


「何でだよ!! 逆だろうが!! こっちが謝ってもらう側だろうが!!」


 納得のいくはずがない父が騒ぐ。


「お父さん、本田さんには敵わないよ。謝って」


 大人にからかわれている子どものような父に、僕も母と同じ言葉を被せた。


 僕らはお父さんたちの痴話喧嘩に付き合っている暇などないのだよ。吉野さんを助けたいんだよ。


「ハイ。茶番はこのくらいでいいかしら? そろそろ吉野さんの緊張も解れたでしょう?」


『パン』と手を叩いて吉野さんの表情を伺う本田さん。


 本田さんは吉野さんをリラックスさせたかった様だけれど、当の吉野さんは呆気に取られ、唖然としていた。


「話は粗方このおっさんに聞いたから、細かい部分を教えて欲しいのと、確認事項があるの。まず……」


 父を『このおっさん』と指差しては、ポカンと口を半開きにした吉野さんに話しを始める本田さん。


「あ……はい。宜しくお願いします」


 正気を取り戻し、吉野さんが本田さんの正面に座った。


「吉野さんは、母親を原告にして父親を訴えて調停離婚をさせたいのよね?」


「……はい」


 本田さんの目をしっかり見つめ、返事をする吉野さん。


 先ほどとは打って変わり、おふざけ無しの話が始まった。


「親権も養育権も母親に持ってもらうってことで良いのよね? さっきあのおっさんから聞いた話だと、母親のことも良く思っていない様な感じだったから」


「……はい。私は、母方の祖父母に面倒を見てもらって育ちました。祖父母と同じ姓を名乗りたいです」


 本田さんの質問に対しての吉野さんの答えが、切なくて胸がぎゅうっとした。


 吉野さんが選んだのは、父親でも母親でもなく、祖父母だった。


 吉野さんは、消去法の様に母親を選択した。


「間違いのない撰択だと思うわよ。母親は吉野さんに危害を加えたりはしないんでしょう? それに、祖父母に感謝の念があるのなら、愛する家族がいる方に行くのが最善だと思う」


 苦渋に顔を顰める吉野さんの髪を、「それで良いのよ」と本田さんが優しく撫でた。


「吉野さんのお母さんの帰宅は何時? お母さんの連絡先を教えてくれない? お母さんを原告にするなら、お母さんの許可を得るのが大前提」


「仕事はあと30分くらいで終わると思います。連絡先は……」


 母親の携帯番号を調べようと、吉野さんがポケットから取り出したスマホは充電が切れていた。


「あ、充電器取ってくるね」


 自分の部屋に戻ろうとした時、


「ちょっと待って。キミの部屋、30分だけ貸してくれない? ちょっと、吉野さんと2人だけで話がしたいの。周りに人がいると話し辛いこともあるだろうし。余計なとこ、弄ったり見たりしないから」


 本田さんに呼び止められた。


「どうぞ。僕の部屋はリビングを出て、突き当たりの右側の部屋です。充電器は……多分、パソコンの近くに転がってるかと」


 特に散らかってはいないと思うし、おかしな物も置いていない為、素直に部屋を明け渡すと、


「いいの? 勝手に誰かに自分の部屋に入られるの、嫌じゃないの?」


 父親に自室に入られ、嫌な思いをした吉野さんが申し訳なさそうな目で僕を見た。


「うん。構わないよ。そんな顔しないで」


 頷く僕の手を「ごめんね、ありがとう」と吉野さんが握った。


 吉野さんならいいんだよ。吉野さんを助けられるならいいんだよ。吉野さんの為なら、これくらいのことは屁でもない。


 吉野さんと本田さんが僕の部屋に入って行き、リビングに両親と3人で取り残された。


 どうしても気になって、自分の部屋の方向を見てしまう。


「そりゃ、気掛かりだわな。あんな末恐ろしい女と刺しで話させられてるかと思うと、背筋凍るよな」


 そんな僕に、思いっきり他人事な言葉を発する父。


「イヤイヤイヤ。お父さんが呼んだんでしょうが」


 振り返り、父に白い目を向ける。


「まぁ、鬼の様な女だけど、あの人に任せておけば心配ない。あの人、いつもはテレビで報道される様な刑事事件担当したり、大企業の顧問弁護士やってたりするんだけど、民事事件も得意な人だから」


 散々不安にさせておいて「安心しろ」と言う父。


 僕が心配なのは、本田さんのことではない。弁護は本田さんに委ねて問題ないと思う。僕が気にしているのは、吉野さんが緊張せずに言うべきことを、言いたい事柄を全て本田さんに話せているのかどうかだ。


 吉野さんを気に掛けながら、2人が戻ってくるのをソファに腰掛けながら待っていると、リビングのドアが開いた。


 話し終えた吉野さんと本田さんがリビングに戻って来た。


「じゃあ、私はお暇するわ。吉野さんは無断欠勤したことをバイト先に謝罪に行きたいって言うから、これから私1人で吉野さんの母親と話し合ってくる段取りになったわ。私が登場したからには、もう心配いらないわ。私の手にかかればこんな問題一瞬で解決するから。と言うことで、待ち合わせに遅れたくないので、ごきげんよう」


 リビングに入った途端にワーっと喋るだけ喋って、本田さんは颯爽と家を出て行った。


 嵐の様に去って行った本田さんに、ただ茫然とする僕ら。


「吉野さん、ちゃんと全部話せた?」


 本田さんのペースに飲まれて、言いたいことも言えなかったかもしれないと吉野さんに伺うと、


「うん。余すことなく。さすが弁護士さんだよ。聞き上手だし話し易かったよ」


 吉野さんが、どこかスッキリした表情を浮かべた。


「……聞き上手。やっぱ仕事はちゃんとしてるんだな。普段は一方的に有無を言わさぬ独壇場な喋り方をするのにな」


 吉野さんの言ったことに、父はしっくりきていない様だったが、これで吉野さんの安全が確保出来そうで本当に良かったと思った。


「吉野さん、ちょっとだけ話いい?」


 そんな父が、吉野さんをソファに誘う。


「はい」


 父に応じ、父の向かいに腰を掛ける吉野さん。


「今回の件はね、吉野さんに非は全くないと思うよ」


 父がゆっくりと話出した。


「でもね、もっと違うやり方もあったんじゃないかと思うんだ。反対していた父親の独立を応援するのは、嫌だろうしそんな気になれないのも分かる。でも、少しだけでもお父さんを気遣えていたら、事態は違ったんじゃないかなと思うんだ。吉野さん、お父さんに『お疲れ様』とか『頑張ってね』とか言ったことあった?」


「……ありません」


 父の話に、吉野さんが首を左右に振った。


「そうだよね。応援してなかったんだもんね。でもさ、嘘でも、心にもなくても、そういう言葉を掛けていたら、お父さんも『応援してくれる娘の為に踏ん張ろう』って思えたかもしれないよ。頑張って結果が伴わなかったとしても、頑張ってくれた分、吉野さんだってお父さんを少しでも赦せる気になれたかもしれない。とは、思わない?」


「……」


 父を真剣に見つめる吉野さんの瞳に、涙が溜まった。


「吉野さんは産まれてまだ17年しか経っていない。私の半分も生きていないんだよ。そんな経験値の少ない人間が考え付くことなんて、たかが知れているんだよ。たくさんの人間の見解を聞いて、その意見に惑わされたり流されたりするのはいかがなものかと思うけどね、自分1人で考えて、自分が不利になる答えしか見つからなかった時は、周りの人に相談して耳を傾けることも大事なんじゃないかな。だから今後、何かに迷ったり困ったりした時、私たちに頼ってくれたら嬉しいなと思う」


 父が吉野さんに笑いかけると、瞬きをした吉野さんの両目から涙が流れ落ちた。


「……そんなに甘えて良いのでしょうか」


 甘え下手の吉野さんは、人に寄りかかることに躊躇している様だった。


「もちろん。いつでも大歓迎」


 そんな吉野さんに母が近づき、吉野さんの肩を抱いた。


 目の前の光景に、あぁ、僕はこの両親の息子で良かったなと心から思った。


「……じゃあ、早速甘えていいですか?」


 吉野さんがいたずらっぽく母に話しかける。


「なになに?」


「そろそろ私も失礼しようかと思うのですが、靴を履かずに家を出てきてしまいまして……サンダルを貸していただけないかと」


 苦笑いの吉野さん。そうだ、僕、吉野さんを裸足のまま連れ出したんだった。


「そうね。多分、私と吉野さん、靴のサイズ違うからサンダルの方がいいわね。どれでも好きなの履いていいけど、おばさんが履く突っ掛け的なサンダルしかないからね。そこは我慢してね。こんな時の為に可愛いサンダル買ってよ、お父さーん」


 吉野さんを言い訳に、ここぞとばかりに強請る母。母は吉野さんと違って甘え上手だ。


「よしよし。明日仕事帰りに1番可愛い1000円の健康サンダル買ってきてやるな」


 上手に甘えてみたものの、父に軽くあしらわれ、母のおねだりは失敗に終わってしまったけれども。


「じゃあ、私の足が入りそうなものをお借りしますね。今日は本当にありがとうございました」


 両親のやり取りにクスクス笑いながら頭を下げると、吉野さんがリビングを出て行こうとした。


「待って、吉野さん。どこに帰るの? 吉野さんのお父さん、家にいるんじゃないの?」


 吉野さんを呼び止めると、吉野さんがクルっと僕の方に振り向いた。


「家に帰る。あの人が暴れて散らかした家を片付ける。あの家はおじいちゃんとおばあちゃんの大事な家だから。守るって約束したから。それに、警察の人が家に様子を見に行ってくれて、父親とも話をしているはずだし、警察も弁護士さんも動いた今、自分の状況を悪化させる程、あの人も馬鹿ではないと思うから」


 自分にあんな酷いことをした人間がいる家に帰るという吉野さんは、本当に強い人だなと思う。だけど、


「送るよ」


 やっぱり心配。


「いいよ。大丈夫だよ。1人で帰れるよ。バイト先にも寄りたいし」


 しかし、サクっと断られた。が、


「だって僕、吉野さんの家の前に小山くんから借りたチャリ置きっぱだし」


 そう、僕は吉野さんに靴を履かせなかったばかりか、小山くんのチャリまでも置き去りにして来てしまったのだ。


 それに、小山くんとの約束だってまだ果たせていない。


「そっか。 じゃあ、行こ」


「うん」


 折れてくれた吉野さんの後を追ってリビングを出かけた時、グイッと右手を掴まれ、


「危ないと思ったら、あの子が何を言おうが力ずくで家に連れ帰って来い」


 父に耳打ちをされた。


「当然」


 小さくガッツポーズで応えると、


「その意気だ。あと一押しだぞ」


 父に頭をぐしゃぐしゃに撫で回されながら、良く分からないことを言われた。


 ……てか、気づいているのか!? お父さん。


 母の方をチラ見すると、母も薄らニヤついている。


 お母さんにまでも気が付かれてしまっているのか!? 超嫌!! めっさ恥ずかしい!!


「行こう、吉野さん!!」


 吉野さんの背中を押し、恥ずかしさの余り、吉野さんを急かしながら一目散に家を出た。


 家を出て、吉野さんの隣をテクテク歩く。


「……吉野さん。バイトって、どっちの?」


 やっぱりコンパニオンの仕事には行って欲しくなくて、自分にそれを咎める権利もないというのに尋ねてみる。


「ファミレスの方。ていうか、コンパニオンはもうやらない。本田さんに『年齢を誤魔化し、法を欺いて仕事をしている人間の弁護はしない』って怒られたから。あーあ。北川くんがついて来ちゃうと、バイト先バレちゃうじゃん。冷やかしに来たりしたら絶交だからね、北川くん」


 吉野さんが頬っぺたを膨らませた。


「真面目に働く人をからかうわけないでしょ。……でも良かった。コンパニオン辞めてくれて」


 素直な気持ちをポロっと出すと、


「なんで?」


 吉野さんに軽く拾われてしまった。


 なんでって……。今、言ってしまおうか。




「…… 吉野さんが、男の人に触られるのが嫌だから。僕は、吉野さんが好きだから」


「……え」


 僕の突然の告白に、吉野さんの足が止まった。


 告白のタイミングを間違ったのかもしれない。というか、シチュエーションも違うのかもしれない。そうだ。漫画とかだと、校舎裏とか公園に呼び出してしてたかも。何分初めてなもので、勝手が分からない。どうしよう。やり直したい。


 告ってしまってからドキドキしだす僕の心臓。破裂しそうな程に強く鳴る。


 吉野さんが歩くのをやめてしまった為、僕も止まらざるを得なくて、でも恥ずかしさと緊張で僕の脳内は大混乱で、吉野さんの顔を見ることは出来なかった。


「私ね、北川くんに出会ってから、北川くんの病気について色々調べてみたの。本当にないんだね、治療法」


 吉野さんが、僕の告白に『イエス』とも『ノー』とも言わず、いつも通り話を逸らした。


 僕の病気を調べたと言われて、叩く様に打っていた心臓が急ブレーキをかけたかの様に止まりそうになった。僕には吉野さんに話していないことがあった。


「……てことは、僕が50歳まで生きられないことも知ってるんだよね」


 そんな僕に告白をされるのは、やはり迷惑だっただろうか。


 僕の寿命は長くはない。だから、恋愛も結婚もしないと決めていた。でも、短くもない命。余命36年。ならば、せめて生きている間だけも好きな人の傍にいたいと願うのは、我儘なのだろうか。自分勝手なのだろうか。


「イヤ、いるじゃん。50歳以上の無痛無汗症の人」


「いるけど、ごく稀だよ。ほとんどは50歳になる前になくなってる」


「でも、いるじゃん」


「いるけど……」


「でしょ? いるでしょ」


 吉野さんが、強い視線で僕を見上げた。


「……私、医者になりたいんだ。気を悪くしてもらいたくないんだけどね、北川くんの病気のことを調べてたら凄く興味が湧いてきちゃって。もっと詳しく勉強したいと思ったの。本田さんがね、『今回の料金は相談料だけでいい』って言ってくれて。『私の腕なら調停に持ち込むまでもないから』って。『余った貯金は勉強の為に使いなさい。いっぱい勉強して、立派な医者になって、私の身体に異常が見つかった時、アナタが私を診なさいよ』って。だから、私は絶対に医者になる」


 吉野さんが目をキラキラさせながら語る。


「良かったね。 夢、見つかったんだ」


「うん。奨学金のことも調べた。医大進学の奨学金も充実しててね、各都道府県にあるんだけど、給付してくれた県の病院で10年働くと免除になるヤツがあって。私はどこの大学でもいいし、働くのもどこでもいい。医療が学べて医師として働けるなら、場所は選ばない。だから、私が北川くんと一緒にいられる時間は、あと2年弱。私の頭で治療法を見つけ出すのは難しいと思う。でも、何かしら発見出来たら、どんなに遠くにいても北川くんに情報流すね」


 吉野さんが、遠回しに僕の告白を断った。


 だけど、振られておいてしつこいけれど、吉野さんが僕を振る理由に納得が出来なかった。


「僕だって、薬学を勉強出来て薬剤師として働けるなら、都会の中心でも海を挟んだ離島でもどこでもいいよ。吉野さんのいるところに僕も行きたい……って言ったら気持ち悪い? 振るにもそんな断り方しないでよ。『好きじゃない。付き合えない』ってはっきり言って欲しい」


 諦め悪く吉野さんに迫る僕は、さすがに気持ち悪いかもしれない。でも……。


「粘りますね。北川くん」


 吉野さんが困り顔で笑った。


「だって、僕の初恋だから」


 簡単に諦めがつくはずがなかった。


「……私にとっても初恋だよ」


 吉野さんが、耳を赤くしながらそっぽを向いた。


「気持ち悪いわけないじゃん。好きな人の病気だから勉強したいって思ったんじゃん。……だけど私は、親が死んでもきっと涙ひとつ零さないよ。そういう人間だよ。こんな人間好きになっちゃダメだよ。私みたいな人間は、恋愛なんかするべきじゃない」


 涙が込み上げてきたのか、吉野さんが鼻を啜った。


「泣かない吉野さんを悪だなんて思わないよ。本当は泣ける人間でありたいって思ってるの、分かってるから。両親を赦せないなら、赦す必要ないと思うよ。そのことで吉野さんを【心の狭い人間だ】なんて一切思わない。赦しちゃいけないことは赦すべきじゃないと思うから。でも、もし吉野さんの両親が反省して謝罪をしてきたなら、赦せなくとも聞き入れて欲しいな。とは思う」


「……そうだね。……北川くん、ちょっと向こう見ててくれないかな」


 僕の話に共感してくれた吉野さんに、何故か在らぬ方向を見る様に指示された。


言われるがまま遠くの風景を眺めていると、


「……言ってなかったから、ちゃんと言っとくね。……好きだよ、北川くん」


 後頭部に告白の返事が返ってきた。


 振り向くと、吉野さんの方が僕と顔を合わせまいと明後日の方向を向いていた。


 だから勝手にそっと吉野さんの手を握ると、吉野さんの首までもがみるみる赤くなった。


「私、絶対浪人しないから。大学受けまくって、必ずどこか1コは受かるから。だから、本当に北川くんが私の行く大学の近くの学校を受験してくれるって言うなら、1コも落とさずに全部受かってね!! そうでもしないと私たち、一緒にいるの無理だから」


 吉野さんが照れを隠す様に早口で喋り出した。


「任せといて!!」


 自信満々にそう答えてみたものの、実際僕はそこまで頭が良いわけではない。でも、やるしかない。だって、吉野さんといたいから。


「……僕さ、ずっとなんで僕がこの病気を持たなきゃいけなかったんだろうって、考えたところで答えなんか出ないものに怒りさえ持っててさ。小学校の時とかさ、調理実習で茹でたてのじゃがいもを素手で掴んで皮剥いて、火傷してとんでもない水ぶくれ作ってたら女子にドン引きされるし、男子には『どうせ痛くないんだろ』って意味なく殴られるわ蹴られるわで骨折するしで」


 吉野さんにもっと僕のことを知って欲しくて、吉野さんに出会う前の昔ばなしをしたくなった。


「大変だったんだね」


「それなりにね。でも、吉野さんに出会って初めて、この病気になったのが僕で良かったと思ったよ。吉野さんに興味持ってもらえたし、吉野さんじゃなくて本当に良かったと思った。だって、もし吉野さんがこの病気だったら死んじゃってたでしょ? 出会った頃の吉野さん、超危うかったもんね。僕の病気、羨ましがってたし」


 チラっと吉野さんの方を見ると、吉野さんが「ははは」とバツが悪そうに笑った。


「北川くんは優しいよね。痛みを感じない病気だったら、何の罪悪感もなく誰かに暴力振るっても不思議じゃないのに、北川くんはしないよね。男子に殴られた時も、やり返したりしなかったんでしょ? 北川くんのことだから」


「しなかったねー。僕の場合は優しいとかじゃなくて、痛みが分からないから他人に傷を負わせることに意味を感じなかったっていうか……。だって、ダメージ受けてるのか受けてないのかイマイチ分かんないから」


「分かってるくせに。表情見れば分かるじゃん。優しいね、北川くん。本当に優しい」


 吉野さんが、柔らかい表情をしながら何度も僕を「優しい」と褒めながら微笑んだ。


 優しい人間でありたいと思った。もっともっと優しくなりたいと思った。


「僕の優しさは、誰にでもってわけじゃないよ」


 吉野さんだから。吉野さんには特別優しくしたいんだ。


「吉野さん、前に『いらない命はある』って言ってたじゃん」


「……うん」


「僕、吉野さんの両親の命も【必要な命】だと思ってるよ。皮肉な話かもしれないけど、吉野さんがこの世にいるのも、僕が好きになった吉野さんが形成されたのも、二人がいたからだから。吉野さんの両親がしたことはいけないこと。だけど、吉野さんを産んでくれたことは、僕にとっては最大の感謝。吉野さんの命は、僕の宝物」


 若干臭いかな、この台詞。と思いながらも、どうしても伝えたかったし、告白後の今なら許される気がして、思い切って話すと、


「臭いよー。激臭だよー。目にきた。泣ける。でも、嬉しいよ。ありがとう」


 吉野さんは僕をバカにしながら、目に滲む涙を袖で拭った。


 吉野さんを泣かせつつ、手を繋いだまままた歩き出す。


 吉野さんのバイト先であるファミレスが見えてくると、「ここで待ってて」と、僕をファミレスの近くに残し、ひとりで入って行く吉野さん。


 出入り口付近で吉野さんを待つ間、小山くんに告白の結果を報告しようとポケットからスマホを取り出す。


[おかげさまで成功したよ]


 僕の送ったLINEメッセージはすぐに既読になった。


[そんな気はしてた。今はちょっと喜べないけど、とりあえず言っておくよ。おめでとう]


 小山くんらしい、スポーツマンシップに則った爽やかな返事に、やっぱり僕は小山くんのことが好きだなと再確認した。


 そうこうしている間に、店内から吉野さんが戻ってきた。


「案外早かったね」


 僕の方に歩いて来た吉野さんの手を握り、再び手を繋ぎながら、今度は吉野さんの家に向かう。


「こんな傷だらけの顔で謝る人間に怒り続ける程、ウチの店長は鬼じゃないよ」


 痛々しい顔で苦笑いを浮かべる吉野さん。


 確かに。今の吉野さんに謝られたら、何でも許してしまいそうだ。


「ごめんね。もっと早く気付いて助けてあげられれば良かったのに……。早く治るといいね。今度何かあったら、すぐ僕を呼んでね。吉野さんがこんな目に遭うの、僕が耐えられない」


「うん。ありがとう」


 吉野さんはニッコリ微笑んで頷くけど、


「……呼んでくれなさそう。変に気を遣うとこがあるからなー、吉野さん。でも、約束だよ!?」


 吉野さんの性格上、なんとなく不安になって念押し。


「うん、約束。でも、確かに呼ばないかも。だけど、助けて欲しいので、北川くんの家に逃げ込ませてください。全力で走って行くので。助けてもらう分際でご足労頂けないよ、さすがに」


 やっぱり吉野さんは変に謙虚だった。


「『ご足労』て……。全然構わないのに。でも、本当にヤバイ時は絶対に呼んでよ? 絶対だよ!?」


 吉野さんの手を強く握ると、吉野さんも握り返してくれた。


「うん。ありがとうね、北川くん」


 吉野さんも握り返してくれた。そんな吉野さんが急に立ち止まり、


「ちょっと、いい?」


 しゃがみ込んで、ポケットに手を入れ何かを探っていた。


「何?」


 僕も吉野さんと肩を並べてしゃがむ。


 吉野さんの足元には蟻が列を作っていて、吉野さんはそれを見つめながら、ポケットからさっきお店から持ってきただろうコーヒーシュガーを取り出した。


 袋の先端を剥き、それを蟻の上に撒く吉野さん。


「罪滅ぼし的な?」


 吉野さんは、僕らが初めて会話をしたあの日の反省をしているんだと思った。


「それもある。今日私、いっぱい良いことあったからさ、この蟻たちの人生にもこのくらいのご褒美があってもいい気がしてさ」


 あの頃には想像も出来なかっただろう、優しい眼差しで蟻を眺める吉野さん。


 胸がきゅうっとする。愛おしくてたまらない。


 思わず吉野さんの横顔にキスをすると、吉野さんが僕の唇が振れた箇所に手を置き、目を見開きながら僕の顔を見た。


「……北川くん、一人称が【僕】だから急にこういうことをしない人だと思ってた」


「何その【僕】に対する偏見。じゃあ、今日から【俺】にする」


「変だよ。しっくりこないよ。【僕】がいいよ」


「変て。……そうだね。今更変えらんない。恥ずかしい」


『クックックッ』と、二人で肩を揺らせて笑い合う。何コレ。カップルってこんなに楽しいもんだったの?


「……これって、ご褒美ですか?」


 吉野さんが、僕にキスをされた頬を撫でながら、どうしてくれようか? という程可愛い質問をし出した。


「違うよ。したかっただけ。ご褒美は……今度スイーツビュッフェ行こっか」


 思い付きでデートに誘うと、


「まじか!! いえーい!!」


 普段大人っぽい吉野さんが、子どもの様にはしゃいだ。こういう新たな発見も楽しくて、嬉しくて。そんな吉野さんが、


「北川くんは? ご褒美何欲しい?」


 僕にもご褒美をくれるらしい。……ご褒美。


 欲しいものは、ある。でも言ったら引かれるかな。気持ち悪がられるかな。だけど、何でか今言いたい。


「……僕が薬剤師になって、立派な大人になったら、お嫁さんに来て欲しい。僕、簡単に死なないから。勉強しまくって、長生きする方法を見つけるから」


 今まで、長生きしたい欲がなかった。50歳まで生きられれば充分だと思ってた。でも、吉野さんと出会って死にたくなくなった。どうしても生きたくなった。


「……」


 返事をしてくれない吉野さん。吉野さんの眉間に皺が入り、明らかに困った顔をしている。


『冗談だから!!』と即座に取り消そうとした時、


「……それ、北川くんのご褒美になってないじゃん。私のご褒美になっちゃってるじゃん」


 恥ずかしそうに嬉しそうに「他のを考えて!!」と僕の二の腕に軽くパンチを入れると、何故か早足で僕の前を歩き出した吉野さん。


 その後ろ姿を見て思う。




 キミこそ僕の生きる理由。




 キミがいる世界は、人生は、美しく素晴らしい。

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