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それから……。
私は城下街の部屋から、魔法使い見習いとして魔法塔に通う日々を送りだした。
一人住まいの部屋の暮らしにも慣れ、ソニアに付いて魔法を習得する毎日。
魔法塔に入り、クヴェルミクスとは毎日顔を合わせることになった。
クヴェルミクスは本当に飽きることなく私に構い、ソニアに追い払われるというのが日課になっている。
そしてその上、宣言通りに移動陣を使って足繁く夜更けの部屋に現れた。バスケットを下げて。
私は十分に警戒を怠らぬことを常に肝に銘じながら、クヴェルミクスのお茶会に参加した。
移動陣を消してくれと毎回申し立てるけれど、クヴェルミクスにはのらりくらりとかわし続けられている。
クヴェルミクスの運んでくるお茶とお菓子に、完全にそっぽを向けない自分もいけないのだけれど。
一方、めっきり会えなくなると思っていたアルトさんは、頻繁に部屋を訪れてくれる。
アルトさんは城下の実家から城に通うようにしたらしく、二日に一度の頻度で、朝に馬車で迎えに来てくれるのだ。
馬車に乗って城に通う魔法使い見習いなどいません。と、何度も断ったけれど、結局は最後には馬車に乗せられている。
そして折りに触れて、衣装を贈ってくれた。
小さな衣装箪笥は瞬く間に一杯になり、クヴェルミクス好みの衣装が入る余地はなくなった。
おかげで、クヴェルミクスから贈られた思わず二度見してしまった、いろいろとあられもない衣装は箪笥の奥へいそいそと仕舞い込むことが出来た。
そして、春が来る前に、鉢植えのフィナロの花が咲く前に、ラビさんは再びホルテンズにやってきた。
あの古めかしい宿屋に腰を据えて、私を熱心にアライスへの旅に誘ってくれている。
魔法使い見習いとして勤めている私の身では、旅など行けはしないと言えば、驚いたことにソニアが行ってみたらどうかと言いだした。
それをすぐに嗅ぎつけたクヴェルミクスの介入と、なぜかそれを知ったアルトさんのやんわりとした阻止で、旅の話は中断している。
魔法塔から出ることがほとんどない私は、同じ城内という敷地に居るものの、白騎士にお目に掛かる機会はめっきりと減ってしまった。
離れてみると、あの理不尽やわがままも、なぜか懐かしく思えてしまう。
あの部屋に、新しい従者は入ったのだろうか?
お茶の時間に、お菓子は手に入っているのだろうか?
そんな風に思っては、魔法塔から見える城内に、金の髪を探している自分に気がつく。
白騎士だけは、私に会いに来てはくれなかった。
その日、私は城の図書館に向かっていた。
抱え持つ書物は、ソニアに頼まれ図書館に戻す物だった。
クヴェルミクスとは違い、ソニアは手で運べる量にしてくれている。
図書館に向かう小道はすっかり冬の気配が薄まり、日差しは暖かくのんびりとした陽気だった。
緩やかな勾配を上り、たどり着いた図書館の扉を押す。
しんと静まった図書館に、いつもなら居るはずの司書の人が見当たらない。
それどころか、並ぶ書架のどこからも人の気配を感じられず、耳鳴りがするほどの静寂に包まれていた。
たまたま席を外しているのだろうか? 明かに無人のこの場所で、あえて呼びかけの声を出すのも憚られて、静かに本を司書の机へと下ろす。
少し待っていれば、戻ってくるだろう。そう考えて、書架の間をあてもなく歩きだす。
ふと思いだすのは帰る方法を探して、闇雲にここを歩き回っていた時のことだった。
もちろん今でも、帰れない世界を思って泣くことがある。
あちらに思いを馳せずにいられる日は、まだまだ先のような気がする。
けれど、手首の傷がゆっくりと乾き塞がっていくのに合わせて、私があちらのことを考える時間は確実に減っていっている。
カツン。と、唐突に靴音が背後で響いた。
司書の人が戻ってきたのかと振り返ると、そこには何故か不機嫌そうな白騎士が立っていた。
「シュテファン……ジグベルト……様?」
久しぶりに呼んだ長い名前は、途中でつまづき小さな声にしかならなかった。
白い騎士服に身を包み、白騎士は明るい青い瞳でこちらを見ている。
「お久しぶりです。あの、いま、どうやらここに誰もいないみたいで……。私、司書の人を探してきましょうか?」
なぜだか白騎士を直視できなくて、私は少し焦り気味に口を動かす。
久しぶりに会った白騎士に、緊張していた。
白騎士はむすりと首を横に振る。
「人払いをしてある」
「ひと、ばらい……?」
「あぁ。ここには、しばらく誰も来ない」
もしかして私は、白騎士がひとり静かに図書館を使う為に人払いをしていたのに、のこのこと入ってきてしまったのかもしれない。
それならば、白騎士の不機嫌顔にも納得がいく。
「すみません! すぐに出ますので……」
ぺこりと頭を下げて、私は図書館の出口に向かおうとした。
けれど、白騎士は私の前に立ちふさがる。
「違う」
眉を寄せてそう言われ、私は白騎士の顔を見上げる。
白騎士はさらに眉間に皺をよせ、口元を歪めた。
「……お前に、会いにきた」
早口にそう告げた白騎士は、私の目の前に薄い箱を突き出す。
「え……?」
「受け取れ」
「……覚えて、いたんですか?」
私は白騎士の手からそれを受け取った。
それは、あの森で私が大切にしていたチョコレートの小箱と同じ物だった。
そっと箱を開くと、中にはチョコレートがきちんと並んでいる。
「チョコレートは、もう好かぬか?」
「いいえ。今でも好きですよ。……でも、食べるのは久しぶりです。あれ以来、なんとなく食べていなかったんです」
「そうか……」
「わざわざ、ありがとうございます」
ソニアが行商から買ってくれた名もないチョコレート。
きっと、同じ物を手に入れるのは大変だったに違いない。
城下町にはいくらでも別のチョコレートが売っているのに、白騎士はこれを探して返してくれた。
じっと白騎士を見上げると、白騎士も正面から私を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「俺は……、お前を好いている」
白騎士の言葉に、なぜか泣きたくなった。
手の中の小箱をきゅっと握る。
「私は……」
言いかけて、私はそれを呑みこんだ。
私の目の前に立っているのは、間違いようもなく王子さまだ。
そして私は……。
呪いみたいに胸に刺さっていた、クヴェルミクスの言葉を思い出す。
「私は……」
それ以上の言葉を続けられなくて、私は唇を噛む。
白騎士の青い瞳は、私の内側を見透かすような強い眼差しだった。
「なにを気後れすることがある。俺が、自ら選んだのだ。お前のことを」
白騎士の手が私の頬に触れる。
知らないうちに私がこぼした涙を、白騎士は優しく拭う。
涙が、勝手に後から後から零れ落ちて、白騎士の手を濡らしていた。
「引け目に感じることも、恐れる必要もない。俺が、お前を好きなのだ」
みっともなくも泣きながら、私は頷いた。
そして涙声のまま、白騎士の名前を呼ぶ。
「シュテファンジグベルト様……」
「ふん。今度はつかえずに言えたか」
ぞんざいな口調のまま、白騎士はハンカチを取り出し私の顔に押し付ける。
白いハンカチに顔を埋めると、すぐに私の涙で染みが出来ていった。
「シュテフと呼ぶことを許してやる」
頭上からぼそりと白騎士の声が落ちた。
「シュテフ……ですか?」
見上げて聞き返せば、白騎士は顔を赤くして視線を逸らす。
「そうだ! そう呼ぶことを許す。だから――」
そっぽを向いていた白騎士が、チョコレートの小箱を持ったままの私の両手を包んだ。
そして金色の髪が私の頬をくすぐった。
優しく重ねられた口付けに、私の心の奥にあのランタンのような黄色く温かな灯りが燈されたように感じる。
また涙がこぼれてしまう私の頬にも口付けて、白騎士は優しげに眼を細めてこちらを見た。
「お前の周りを粛清するのには、骨が折れそうだ」
微笑みながらそう言われて、私はハンカチで涙を拭きとる。
アルトさん、クヴェルミクス、そしてラビさんの顔が次々と浮かんでは消えた。
「大丈夫ですよね?」
「……」
白騎士も三人の顔を思い浮かべたのか、苦々しい顔付きになった上に黙ってしまう。
「え? 大丈夫ですよね?」
うろたえた私の問いかけに、白騎士は自分自身に言い聞かせるように大丈夫だと繰り返す。
「だ、大丈夫だ。大丈夫なはずだ。……しかし、暫らくアルトには伏せておいた方が……いや、クヴェルミクスが漏らすか?……しかし、アルトには……」
私の不安げな視線に気がつくと、白騎士は覚悟を決めたように背筋を正した。
「と、とにかくだ! お前は、いらぬ心配をするな。ただ、俺だけを見ていればいいのだからな!」
そのあまりにも白騎士らしい王子然としたもの言いに、私は顔を赤くしてただ頷いた。
不機嫌そうな白騎士……もとい、シュテフがこちらを見る。
青い瞳をじっと見上げれば、たちまちにその目元は和らいだ。
細長い窓から、春めいた陽光が二人の上に柔らかく落ちてきた。
そして、私たちはもう一度、ゆっくりと口付けを交わした。
終




