第39話 航路
「いや、まあ、数学書なんて開いてる場合じゃないのはわかってるんだ。でも、なんかこう、あなた達を見ていると『自分も何かをしたくなる』」
「それは、光栄です」
コロセウム近くの医者の館で、肩を撃たれて医院にやっとのことで担ぎ込まれたレイモンドが、コロセウムでとうとう体力が尽きて倒れたジョンに、ぽつりぽつりと言った。
「……命を賭けて、人を愛するのはすごくいいけど、本当に、命を賭けてしまうと、きっと皆、困ってしまうと、思うんだよ」
隣の寝台のジョンが、静かに言葉を返す。
「……お言葉、痛み入ります。今日までは絶対に死なない、と誓っていたのです。ああ、けれど、もっと、もっと長く、ずっと、生きていたいものですね……」
病室のベッドの上で数学書を開き、それを膝の上に置いて、レイモンドが言った。
「……愛ってやつだけは、数学でも医学でも測れない。多分それを測れるのはこの世で詩人だけなんだ。可能性の塊を掴んだまま死ぬなんてとんでもない。ポーリーお嬢さまと、イザベラさまのためにも、生きていて貰わなきゃ困るんだ。せっかくの三倍の報酬を、死んだ旦那さまの葬祭料に捧げるのは、正直な話、真っ平ごめんでね」
ジョンが思わずベッドの中でくすくすと笑う。
「それは確かに! でも、あなたが毒に気づいて下さったおかげで、どんなに助かったことか。感謝してもしきれない」
「大学で決闘騒ぎがある度に、授業をほっぽり出して皆でノコノコ見学に行ってたんだよ。決闘には色んな種類の剣がある。イザベラさまのあの短剣も、そういう決闘から身を守る用に使われるやつだ。よく持っていたね」
「あれは恩人に頂いた大切な剣なんですよ。ああ、そういえば……」
肌身離さず下げている鞄の奥から、古びた木箱を取り出した。
「……出番が来たようです」
「それは……結婚指輪?」
「ええ、だからやっぱり、死ねませんね。何がなんでも」
そこに、医者が大きな箱を抱えて入ってくる。
「医療の世界は日進月歩でして。鍵盤楽器や鉄の精製に使われるふいごを使って作られた『吸入器』です。最新の機器ですが、話を聞くに、今のあなた方なら買えるでしょう。今のあなたの肺には、完璧とはいわなくとも、それなりに良く効くはず」
「試してみます」
「ここは港町。最新のものは、何でも手に入りますからして」
「僕の故郷の港町はそうでもなかった。やはり栄えている町は、すごいのですね……」
そこに、地味な色のフードをかぶったイザベラとポーリーが、医院の裏口からそっと入ってくる。
「結婚前の女を早々に未亡人にするつもりかい。相変わらず、ここぞと言うときに困った奴だね。……で、せっかくの賞金だ。身体に効くとわかったら片っ端から買い揃えるよ!」
「その服は?」
後ろから入ってきた新聞記者のサレムが笑う。
「今やこの町では『薔薇香る金の髪の』『百剣のイザベラ』はコロセウムの大英雄ですよ」
「おかげでのんびり町を歩けやしない!」
「オヤブン、ダイニンキ!!」
ガドが入ってくる。
「兄上とオルガーノは然るべき場所に突き出しておいた。もう貴殿らを狙う者もないだろう」
「あんたと部下達にも苦労をかけたね」
「二位でも賞金が多少は出るのでな。部下達にやっと報いることができた」
「気の良い奴らだ。今回は本当に助かったよ。部屋の外に私からの差し入れがある。大いに飲みな!」
見ると、廊下にワインの大樽が置かれている。
「ありがたい! 皆、さぞ喜ぶことだろう」
身体を起こして、ジョンもベッドに腰掛けたまま言う。
「僕からは、『重剣の』という二つ名を。明日の新聞に載ることでしょう。準決勝、本当に素晴らしかった」
ガドが目を丸くし、そして、思わずジョンに手を差し出した。
「ついこの前までは、俺はただただ言いように扱われるだけの男だった。それが今では二つ名付きの騎士だ。ありがとう、ジョン殿」
二人が硬く握手を交わすのを見ながら、サレムがさっそく鉛筆を走らせて笑う。
「君と君の仲間達がいると、自分の仕事が倍になる気がしますね。まあ、号外からの明日の新聞の売上を考えると、釣り銭が出るくらいなんですが!」
「そういえばあんたも、刺客に襲われかけたんだってね」
「宿のおかみに助けられまして。その『勲』もこの号外の隅ですが、きちんと記しましたよ。新聞社から礼金も出ました」
「私らからも、宿泊費に礼金を上乗せしておくよ。さて、この後だけど……」
イザベラが悪戯っぽく笑う。そして、ばきり、とまるで喧嘩の前のように、指を慣らして言った。
「……否でも応でも、うちの馬鹿親どもに祝って貰いにいかないかい?」
思わずジョンが穴が空くほどイザベラの顔を見る。
「この町の港から高速船とやらが出てる。陸路の半分以下の時間で帰ることもできるし、これからはあの港町にも高速船が停泊できるように、働きかけることもできる。……忘れかけてたけど、あの町は、私達の領地なんだしね。今は私の兄さんが管理してるみたいだけど」
ジョンが、いつものように微笑んで言った。
「……そういえば、あなたのご家族には一度も挨拶していませんでしたね。それはいけない。こんなに素敵な花嫁を頂いておきながら、無視を決め込むのも良くない話です」
「この大陸での旅は、元々あんたが私の命を助けてくれたからこそ出来た旅だ。でもこれからは、船さえあればいつだってこれるようになる。……私がこの優勝金で買ってきたのは、アセンブリッジ新聞社が開通させた、エールランドと大陸を結ぶ、高速船の『航路を自由に行く権利』だ!」
そして、ポーリーの髪を撫でながら、言った。
「……それと、私にもまだやってみたいことが出来たんだ。いつか、話すよ。だから、とっとと元気になっておくれ。あんたと一緒に叶えるべき夢は、まだ、あるんだからね」
ジョンがベッドの上で微笑む。そして細長い楽器にも似た形の『吸入器』の先端を握りしめて、頷いた。
「ええ、もちろん」
イザベラが笑う。そして、ジョンの乾いた唇に人差し指でそっと触れると言った。
「そう、お互い、もう勝手に死ぬわけにはもういかないんだ。生きていて貰うよ。わがままだろうが何だろうが構わない。……生きることは、誰かと一緒に夢を見て、誰かと一緒にそれを叶えることだって教えてくれたのは、あんたなんだからね」




