第25話 約束
「レフ・グラナードっていう詩人の家はここでよかったかい?」
日が暮れた後、ポーリーを連れて家の扉をノックしたイザベラを出迎えて、レフは微笑んだ。
「君達がイザベラ嬢とポーリー嬢だね。ようこそ我が家へ」
「ご覧の通り、もう嬢ってつく歳でもないさ。それにしても、すっかり遅くなっちまってすまないね。ジョンはまだ起きているかい?」
「今宵はもう休んでいるよ」
少し残念そうにイザベラが言った。
「聞かせてやりたい話もいっぱいあったのにねえ。私は鳥頭だから、一晩寝たら忘れちまうんだよ」
レフがいつものように微笑んで
「明日は天気も良さそうだし、散歩するのも身体に良いだろうねえ。詩人はどうしても、家に引きこもりがちだ」
と言うと、イザベラが笑う。
「太陽の光を浴びさせてくるよ」
「そうそう。太陽こそが、一番じゃよ」
そんなレフに案内された寝室をそっと開けると、珍しく、ジョンが寝台の上で『丸くなって』眠っている。ポーリーよりも先に、そんな彼に毛布をかけ直してやりながら、ふと、この青年の寝顔を見つめる。水差しの横に飾られた薔薇が一輪、風もないのに揺れる。
「……どんなに良い試合をして、気心の知れた誰かと一緒に夕食を食べても、あんたがいないと何となく締まらない。不思議なもんだ」
親子ほどに年の離れた青年の、灰色の長い睫毛が、ほんの僅かに揺れる。
「まあいい、おやすみ。あんたの『おやすみ』の声が聞きたくなるよ」
手の甲で、ジョンの白い頬にそっと触れる。そして、振り返った。
「ポーリー、今日はそこの寝台で、先に寝てておくれよ」
「イイノ?」
「明日になったらもう一台、寝台をここに運んで貰おうか。それに……」
サイドテーブルの上の閉じられた紙束をそっと手に取って、
「朝までには、読んでおきたくてね」
窓の脇の小さなランプに灯りを灯し、窓際のソファに腰を下ろして長い脚を組んで、静かに糸で閉じられたその紙束に綴られた詩を読み始めた。
目を覚ましてぼんやりと起き上がると、サイドテーブルの上に置かれていたはずの自分の詩集の完成稿を手にしたまま、ソファの上でイザベラが静かに眠っていた。朝の光にこの女丈夫の美しい金色の髪がきらめく。
昨日まで胸につかえていた何かが、すっと消えていく感覚に目を瞬かせてから、ジョンは起き上がって言った。
「おはようございます、イザベラさん。……昨日は先に寝てしまってすみませんでした」
美味しい匂いと、ポーリーとレフが笑いあう声が厨房の方から聞こえてくる。イザベラが目を覚まし、少しだけ眠そうに目をこすると、立ち上がって手にしていた完成稿をジョンに渡す。
「いいのさ。こちとら生まれてはじめて、一晩かけて詩を読んだんだ。この私がだよ。ちょっとは感謝おし?」
ジョンが思わず言葉を探す。
「まさか、あの、ここで……読んで、頂けるなんて……思ってもみなかったので……」
何故だろうか。完成したらちゃんと見せるつもりでもあったというのに、今こうして手に取ってもらったことが妙に嬉しくて、白い耳たぶが真っ赤になる。
「いい夜だったよ。おかげで良い夢まで見た気がする。しかし、詩の感想っていうのは、剣を百回振るよりも難しいもんだね。こいつがきちんとした本になるんだろう? すごいことだ」
紙束をしげしげと眺めながら、イザベラが真顔で言う。
「ちゃんと薔薇の女神の詩もあってさ。あの大聖堂の時のやつだろう? あれからもう何年も経ってる気さえするのに、まるで昨日の事のように思い出しちゃったよ」
そして、水差しの横に飾られていた一輪の薔薇を手に取って、その花びらに指先で触れながら言う。
「……私は、東のコロセウムで勝つ。そんでもって、あんたから……そう、ここにいる『詩人』のあんたから、欲しいものがある」
イザベラの青い目がジョンの色素の薄い目を捉えて、言った。
「『二つ名』さ。あんたがいないと、私は故郷で呼ばれていた通り、ただ剣をぶん回すだけの『老嬢』だ。そう呼ばれてかれこれ十年以上は経ってるからね。……今まではそれでもよかった。でも、それじゃあ足りない。名前なんてどうだっていいはずなのに、なんだか、そんな気がするんだよ」
ジョンが色素の薄い目で、イザベラの真っ青な瞳を捉え返して、すっと背筋を伸ばす。そして、イザベラから薔薇を受け取って、それを胸に押し戴くように抱きしめて答えた。
「約束します。誰にもあなたのことを『老嬢』だなんて呼ばせはしません。永遠にです」
そこに、ノックと共にドアが開いて、ポーリーが入ってきた。
「ゴシュジン、オヤブン、オハヨウゴザイマス! オイシイゴハン、ツクリカタ、オシエテモラッタヨ!」
皆で揃って部屋を出る。厨房横の大きなテーブルに、良い香りの食事が並んでいた。
「料理は好きなんじゃよ。独り身の道楽でねえ」
レフが楽しげに厨房から声を投げてくる。
「そう言えば詩集の出版祝いに、世話になっている貴族の夫婦から遊びに来ないかと手紙が来ていてね。あの夫婦も規格外で面白い御仁達だから、お前さん達ならきっと話も合うことだろう。行くかね?」
ジョンとイザベラが顔を見合わせる。
「言っておくけど、こちとら一応貴族の端くれだったけど、大陸のお貴族様の館へのご招待に相応しい礼儀作法とやらはさっぱりだよ? それでもいいんなら、まあ、行ってやってもいいけど……」
「行けば面白い事もあるでしょう。レフ殿がお世話になっているのなら、こちらからお礼も言いたいところですしね。それと、近くに良い仕立て屋はありますか。……服は持ってはいるんですが、変装用のものしかないのですよ」




