第7話:刻印の余韻と、秘密の境界線
図書館での職場体験学習から一夜が明けた。秋の深まりを感じさせる冷涼な風が青藍高校の校舎を吹き抜けていく。朝のホームルーム前、教室はまだどこか長閑な空気に包まれていたが、俺の意識はただ一人の存在――白石さくらだけに向けられていた。
自分の席に座り、教科書を開いているさくら。その動きはどこかぎこちなく、周囲を過剰なまでに警戒している。最大の理由は、彼女の首元にあった。普段なら制服の襟元から覗くはずの真っ白なうなじが、今日は不自然なほど大きめのマフラーと高めの襟によって厳重にガードされているのだ。
(……絆創膏だけでは不安だったか)
俺は心の中で冷ややかな、そして甘い悦びを噛み締めていた。昨日、あの薄暗い書架の死角で俺が刻み込んだ噛み痕。あいつの柔らかい皮膚を前歯で強く噛みしめ、赤紫色の鮮明な所有権の証明を焼き付けた。その痕跡が今もなお、マフラーの直下で熱を持って脈打っているはずだ。
「おはよう、さくら! あれ? 今日なんか寒くもないのにマフラーなんてして、どうしたの?」
クラスの女子生徒がさくらの席に近づき、屈託のない笑顔で声をかけた。その瞬間、さくらの肩がビクッと跳ね上がるのが遠目からでもはっきりと分かった。
「えっ……あ、うん! ちょっと喉がスースーする気がして……風邪予防、かな!」
「へえ、偉いね。あ、そういえば昨日の職場体験どうだった? アキくんと一緒の図書館だったでしょ? アキくんって黙ってるとちょっと怖そうだけど、大丈夫だった?」
「え、ええ!? あ、アキくん!? う、うん……全然、大丈夫だよ……! すごく親切にしてくれて……」
さくらは上ずった声で答えながら、無意識のうちに右手でマフラーの上から首元を強く押さえていた。顔は耳の先端まで真っ赤に染まり、視線をあちこちに泳がせている。嘘をつくのが壊滅的に下手な性格は昔から変わらない。
俺は席を立ち、足音もなくさくらの背後に近付いた。
「――何か俺の噂話か?」
「きゃっ!?」
背後から低く落とした声に、さくらは飛び上がらんばかりに驚き、振り返った。その瞳には、隠し事が見つかってしまったことに対する焦燥と、俺に対する恐怖に似た甘い密やかな甘えが混ざり合っている。
「な、なんでもないよ! アキくん、急に後ろに立たないでよ……びっくりするじゃない……」
「そうか。だが、声が廊下にまで響いていたぞ。体調が悪いなら保健室へ行くか? 俺が送っていってやるが」
「だ、大丈夫! 本当に何でもないから! ほら、もうすぐ朝のホームルーム始まるし、アキくんも自分の席に戻って!」
さくらは両手をパタパタと振って俺を追い払おうとするが、その視線は一度たりとも俺の目を直視できていなかった。首元を押さえる手が微妙に震えている。その震えの理由を誰よりも深く知っているのは、当然ながら俺だ。
(誰にも見せるな。俺以外の男に、その動揺の理由すら悟らせるな)
俺はさくらにだけ聞こえるような極小の声量で、耳元に滑り込ませるように呟いた。
「昼休み、屋上に来い。……マフラーを外して見せろ。状態を確認する」
「な……っ!?」
さくらが絶句し、瞳を大きく見開いた。断る猶予など最初から与えていない。俺はそのまま背を向け、自分の席へと静かに戻った。
午前の授業中、俺の視線はずっとさくらの背中に注がれていた。黒板に向かってノートを取るあいつの細い肩。時折、気にするように首元へ伸ばされる小さな手。そのすべてが俺の所有物であり、俺の絶対聖域の中に閉じ込められている証拠だった。
やがて、昼食を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
クラスの生徒たちが購買や食堂へと一斉に動き出す中、さくらは意を決したように小さな弁当箱を抱え、教室を抜け出した。俺はあいつに数秒遅れて席を立ち、一定の距離を保ちながら後を追った。
階段を上り、最上階の重い鉄扉を開ける。普段は鍵がかかっているはずの屋上へのドアだが、俺が事前に生徒会経由で手を回し、開錠させておいた場所だ。冷たい秋風が吹き抜ける無人の屋上。その中央に、さくらがぽつんと立っていた。
「……来たか」
「アキくんのバカ……っ。こんなところに呼び出して、何するつもり……? ここ、寒いよ……っ」
さくらは抱え込んだ弁当箱を胸に押し当て、寒さなのか緊張なのか分からない震えを逃がすように体を縮めていた。
俺はあいつとの距離をゼロにするため、迷いなく大股で踏み込んだ。風にたなびくさくらのマフラーに手を伸ばし、ゆっくりと、しかし拒否を許さない確信を持った力加減で解いていく。
「あ……アキ、くん……ダメ……っ……」
「静かにしろ。……見せろと言ったはずだ」
厚手のマフラーが取り払われ、続いて制服の襟元を少しだけ押し開ける。そこには――昨日俺が歯を立てた、あの鮮烈な赤紫色の噛み痕が、真っ白な皮膚の上にくっきりと残されていた。
痛々しくも美しく、俺の所有印としてあいつの肉体に君臨する傷跡。
「……綺麗だ」
「き、綺麗じゃないよ……っ! こんなの、凄く目立つし……手当てしても全然消えないんだから……っ!」
さくらは涙目になりながら俺を睨みつけようとするが、その頬は熟した果実のように赤く染まっていた。俺はあいつの首筋の噛み痕に、優しく、そして滑らかに親指の腹を滑らせた。
「ひあっ……っ! 触ら、ないで……熱い……っ」
「消える必要はない。一生このままでいい。お前が俺のものだという証拠が、こうして目に見える形であるだけで、俺の心は落ち着く」
「落ち着くって……アキくんの独占欲が強すぎるだけだよ……っ。わたし、アキくん以外の男の人となんて話してないのに……」
「話す必要がない。お前の視界に入る男は、俺だけでいい」
俺はさくらの腰を引き寄せ、あいつの身体を自分の胸の中に完全に収めた。屋上の冷たい秋風など、二人の密着した体温によって一瞬で吹き飛んでいく。
「アキくん……抱きしめる力、強すぎる……苦しいよ……」
「苦しいなら、俺を抱き返せ。お前の腕で、俺を繋ぎ止めろ」
「もう……無茶苦茶だよ……っ」
文句を言いながらも、さくらは小さな両手を俺の背中に回し、ぎゅっと制服の生地を掴んできた。その甘やかな服従が、俺の胸の奥にある黒い欲求をさらに加速させる。
放課後。夕闇が校庭を茜色に染め上げる時間帯、サッカー部の練習を終えた俺は、校舎の昇降口でさくらを待っていた。汗を流し、部室で着替えを済ませた後も、俺の意識はずっとさくらの元へと向いていた。
カツカツと足音が響き、階段から上がってきたさくらが姿を現す。学級委員長としての残務処理を終えたあいつは、心なしか少し疲れた表情を浮かべていたが、俺の姿を視界に捉えた瞬間、その瞳にパッと温かな光が灯った。
「アキくん! 待たせちゃってごめんね……委員会がちょっと長引いちゃって……」
「構わない。お前を待つ時間は、俺にとって苦ではない」
俺は自然な動作でさくらの手から重そうな通学カバンを引き取り、もう片方の手であいつの柔らかい指先を隙間なく絡め合わせた。いわゆる恋人繋ぎだ。
「あ……アキくん、学校の中だし、誰か見ているかもしれないよ……?」
「校内に残っている生徒はもうほとんどいない。それに、見られたところで困るのはお前ではなく、俺に手を出そうとする不届き者どもだ」
「もう……相変わらず独占欲が強すぎるんだから……」
呆れたように吐息をつくさくらだったが、繋いだ手を解こうとはせず、むしろ愛おしそうに俺の指を握り返してきた。朝方はあんなに恥ずかしがっていた首元の絆創膏も、今は制服の襟元で優しく守られている。その下にある熱い噛み痕の存在を、俺たちの繋がれた指先が互いに確かめ合っているようだった。
二人並んで校門を出ると、静かな夕暮れの通学路が続いていた。肌寒い秋の風がそっと吹き抜け、さくらの髪を揺らす。あいつは少し身を縮め、俺の腕にキュッと寄り添ってきた。
「ねえ、アキくん……朝、レイくんに『歯型のついた本』って言われた時、本当に心臓が止まるかと思ったんだよ?」
「レイの観察眼は無駄に鋭いからな。だが、咎められる筋合いはない。お前は俺のもので、俺はお前だけのものだ。それを誰に知られようと問題はない」
「あはは……アキくんは堂々としていてすごいなぁ。私なんて、まだみんなに見られるとドキドキしちゃうのに……」
さくらは苦笑しながら、少しだけ遠い目をした。その可憐な側顔を見つめながら、俺は歩みを止め、繋いでいた手をグッと自分の方へと引き寄せた。
「アキ……くん?」
通り沿いにある小さな公園の入り口。夕日の影が落ちる大きな桜の木の陰へと、俺はさくらを引き込み、背後の幹へと押し当てた。朝の教室、昨日の図書館の死角。どこにいようと、二人きりの空間を作り出すのは容易い。
「不安か?」
「え……?」
「周りの目や、俺の重すぎる愛に……お前は息苦しさを感じているのか?」
俺の低く静かな問いかけに、さくらは一瞬目を見開いた。顔を近づけ、真剣な眼差しで見つめる俺に対し、さくらは柔らかく温かな微笑みを浮かべると、拘束されていない方の手をそっと俺の頬に添えてきた。
「ううん、全然違うよ。息苦しいなんて思ったこと、一度もないもん」
「……本当か」
「うん。アキくんの愛が重いのは……ううん、『激重』なのは昔からだしね。でも、その重さがあるから、私は世界で一番安心できるの。アキくんが私を誰よりも強く必要としてくれているのが、痛いくらい伝わってくるから」
さくらは背伸びをし、首元の絆創膏の上からそっと指先で触れながら、俺の目をまっすぐに見つめ返した。
「この痕だって、最初は驚いたけど……すごく嬉しかったんだよ? アキくんの特別な場所にしてもらえたみたいで……」
「さくら……」
あいつの聖母のような包容力と愛に、胸の奥が狂おしいほどの熱で満たされる。俺の独占欲は異常だ。過保護で、執拗で、時に狂気すら孕んでいる。だが、そのすべてを受け止め、こうして愛し返してくれる存在は、世界中でこの白石さくらただ一人しかいない。
「お前は本当に……俺を狂わせる天才だな」
「ふふっ、アキくんにそう言ってもらえるなら、本望かな」
俺は吸い寄せられるように顔を近づけ、夕闇の木陰でさくらの柔らかい唇に深いキスを落とした。図書館の死角での荒々しい噛み痕とは対照的な、優しく、しかし確実にあいつの甘さを貪るような深い口づけ。
「ん……ふ……っ……んっ……」
吐息が混ざり合い、静かな公園に切ない衣擦れの音だけが響く。ゆっくりと唇を離すと、さくらは潤んだ瞳で俺を見つめ、上気した息を吐き出していた。
「……家まで、送る」
「うん。……今日も、明日も、ずっと一緒に帰ろうね、アキくん」
再び強く指を絡め合い、俺たちは茜色の景色の中を歩き出した。どれほど時が流れようと、どんな困難が訪れようと、俺の手があいつを離すことは永遠にない。この絶対的な絆は、やがて来る新しい時代へも受け継がれていくのだから――。
【✏️執筆者・三日月の記録】
……尊い!! あまりにも尊すぎて言葉を失います!!
朝の教室での冷や汗ものの事件から一転、放課後の木陰での甘々で濃密な対話&深いキス!!
アキさまの激重な所有欲を「世界で一番安心できる」と言い切るさくらちゃんの聖母っぷり、最高のヒロインですね!
互いを求め合い、一切の隙間なく結ばれた二人の絶対聖域。この甘いリフレインはどこまでも続いていきます……!
次回、第8話もお楽しみに!
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次回もよろしくお願いします!




