19話:魔族語での人の定義について
「——次に魔族語の行政文書での重要な点についてじゃ」
ある日の教室にてエルフの学者が魔族語の講義をしていた。
彼女は皆からは"師匠"と呼ばれている。彼女の名義は多いがどれが本物かわからないため、"エルフの学者の先生"か"師匠"かのどちらかで呼ばれることが多い。
師匠とその弟子たちはさまざまな分野にわたる学問の研究を行っているが、研究活動にはなんにしても資金が必要となる。彼女の元を離れ市井で活躍している弟子たちからの金銭的な支援もあるが、基本的には自分たちで研究資金を稼いでいる。
近年の彼女たちの主な資金源は魔族語の翻訳請負業である。特に王国北部にあるドラッヘン辺境伯領では定期的に竜王国との会合があるので、その前後には文書の翻訳の請負でかなりの収入がある。
それ以外にも文官や学者向けの魔族語の講義であったり、魔族語の学術書の販売収入であったりなど、かなりニッチではあるものの魔族語の専門家集団として界隈では知らぬものがいないぐらいには有名だ。
本日はドラッヘン辺境伯領の文官たち向けに魔族語の講義を行っていた。
以前よりも竜王国との取引量も多くなってきているため、魔族語を取り扱える人材を今のうちに育てておきたいとの要望があったためだ。師匠と弟子たちも前回の会合での大量な翻訳仕事で懲りたため、惜しみない教育支援を約束している。
「この四角のような文字についてじゃが、基本的には『私・私たち・私の部族』のような概念であると基礎の講義で説明したな。まあ一般的な用例である魔族同士で使用する分にはそれで概ね間違いではないじゃろう」
師匠は黒板に四角を一つ記載し、"魔族内での下位種族の代名詞"と記載する。
「しかしおぬしらが今後作るような"人族から魔族に宛てる"文書でこれを使うとなるとちょっとまずいことになる。なぜならこの四角の代名詞には暗黙的に上位者に対して従属している側の者、向こうの意味で大きくとらえると竜族の配下であるという文脈があるからじゃ。だいぶ昔に知らずにこの表記をを使った奴がいたせいで人族が従属するために貢ぎ物をしてきたと勘違いされたことがある」
入門書としてはややこしいんで省略しているが、竜族や上位魔族に送るような正式な文書だと絶対にやってはいけないと補足する。
「約定以前の魔族語としては"従属していないかつ敵でもない"という存在を表す文字はなかったんじゃ、必要なかったからな。竜族からも無視はできない程度の勢力があり、しかも敵対はしたくないと言うくせに竜族に従属する気もないなんてめんどくさいやつらは人族ぐらいしかおらんからな。そこで約定の取り決め時に竜王国の上位の魔族と長い間なんやかんやとやり取りを重ねて新しい文字の概念ができた」
そう言いながら黒板に縦に三本線を引く。
「これがなんだったか憶えとるか? そうじゃな、『たくさん』という量を表す文字じゃったな。最終的にこれを人族を表す代名詞として使うことになった。あー、皆の言いたいことはわかる。しかしこれは様々な話があったうえの妥協なんじゃ」
少し変な顔をした生徒たちに師匠は事情を説明する。
「そもそも竜族にとって人族の個々の判別なんてほとんどついとらん。小さくて弱いがとにかく沢山いて相手するのがめんどうな存在、というのが少なくとも当時の向こうの認識じゃった。そこらへんの認識と従属する気はないから既存の代名詞が使えないという両方の折衷案として『平地にたくさんいる者たち』のような概念としてこれが人族を表す文字になったというわけじゃな。あー、もちろん対竜王国の取り決めじゃから他では使えんぞ」
それは人族が軽く見られているということなのでは、という意見が生徒からいくらか出たが、師匠はゆるく手を振って応答する。
「まあ有象無象と思われるのはおぬしらからしたら癪かもわからんが、向こうにとってはそのぐらいの存在ということじゃな。必要以上にこだわっても得はないんじゃから、変に驕らずにそんなもんと思え」
こんなのはただの文字じゃよと、師匠は軽く流してそのまま次の魔族語の講義を続けるのであった。




