7話
遊具の前の広い芝生で反田は数人の男児に囲まれていた。
「ニイちゃんもう行っちゃうのー?」
「もうちょっと待ってよー」
小学校低学年ぐらいの男児が反田を引き留めようとしてくる。
なにを言われようと反田の気分は変わらない。
手に持ったグローブをその中に入れた柔らかいボールごとその男児に渡す。
「帰る」
「わかったー」
反田は彼らに背を向け歩き始める。
背後から「またねー」「じゃあねー」など複数の声が聞こえてくる。
時計台は五時を過ぎていることを示していた。
さっきまでなにをしていたかというと野球だ。
運動公園に来てから全体を何周かし、腕立て伏せをして遊具で休憩していたところ、野球用具を持った男児たちに絡まれ、ボールを投げる役を任せられた。
断る理由はなかった。小学生と野球をしたところで高校生の反田が全力で楽しむことはできない。
反田は最近手加減を覚えた。全力で投げて小学生に注意されたことは今でも覚えている。だから力のコントロールの練習をした。
午後になると運動公園には様々な人が来る。この場所で誰かに絡まれるのは初めてじゃなかった。結構な頻度である。
年齢は、さっきのような小学生から、七十代くらいの年寄りまで幅広い。キャッチボールや野球、サッカーやテニス、ゲートボールなどこれもまた幅広い。
スポーツの壁は人が足りないことである。だから反田のような放浪している且つ運動ができる若い人材は需要があるのだろう。
数分歩くと朝登ってきた坂が見えてくる。
朝食を取って以来口に入れたものは水道水だけだ。腹が減っている。候補はいくつかあるが、すぐに行く場所が決まった。一番初めに頭に浮かんできた場所へ行く。それが反田流の決め方だ。
坂を下る際は誰ともすれ違うことはなかった。すでに部活が始まっている時間帯だからだろう。一瞬今朝のことが脳裏をよぎったが、彼女は今頃学校か競技場で爽快に走っているはずだ。
坂が終わり、左に曲がって進んでいけばアパートへ戻ることができるのだがそうはしない。右へ少し進んだところに腹を満たす場所があるからだ。
時間にしてみれば一分ほどだろう。すぐにその場所へ着いた。
塗装が剥げているボロボロな看板には「ラーメン」と消えそうな文字で書かれている。
「いらっしゃい」
低い暖簾をくぐり、横開きのドアを開けるとすぐに店主の声が聞こえてきた。
タンクトップを着て、タオルを頭に巻いているのが特徴的な年老いた男の店主だ。
反田は誰もいないカウンターの真ん中に座るとすぐに注文を口にした。
「味噌ラーメンと餃子を頼む」
「ほい」
休日平日問わずこの店には客がほとんどいない。
反田は中学生の頃からここを利用しているがいつもこんな調子だ。その割には閉店しない。
反田が利用する時間外に人が来ているのか、それとも常に人が来ていないかは定かではない。ただ、席がカウンターしかなく、四人程度しか座れないのを見ると、後者のような気がする。
逆さになったコップを回転させ、カウンターに置かれたウォーターポットから水を灌ぐ。
汚い店は落ち着く。反田の感覚として、視界を狭くできる気がするのだ。
目の前のことしか見えない反田とは相性がいい。
水を注いでいる最中、店の扉をスライドする音が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
店主の声と足音が反田の耳にしっかり入る。足音的に二人組なのはわかった。そしてなんとなく話しかけられることもわかった。
「おい、反田じゃねぇか」
反田は声のほうへ顔を向ける。見覚えのある二人組だ。
二人はそれぞれ反田の両脇に腰を下ろした。
「よう」
「ああ」
左側に座ったのが山岸。彼は元クラスメイトだ。長い前髪を真ん中で分けている。
特に印象的な顔はしていないが、左目の横から下にかけて広がる濃い痣が記憶に残りやすい。
「久しぶりだね、反田君」
右側に座ったのが千弾紅護。彼も元クラスメイトだ。整った顔と短く暗い青色の髪をしていて、クラスでも中心にいるような人物だった。
同じクラスになったことは一度しかないが、中学も反田と同じだ。中学時代は運動部に所属していたと記憶している。
「天流から聞いたぜ。朝、反田に会ったってな」
「そうか」
天流とこの二人は去年のクラスメイトだ。
「山岸君。先に注文しよう」
二人はカウンター奥にあるメニューに目を向け、それぞれチャーハンと餃子、ざるそばを注文した。
店主は作業を続けたまま返事を返した。
「さあ、なにから話すか。話したいことが山ほどあるぜ」
山岸が話を再開する。
「俺はない」
そう答えると山岸は鼻で笑った。
「留年した奴がなに言ってやがる。どんな馬鹿でも留年なんて普通はしない。一原の野郎がなんとか留年させないようにうまくやると思ってたんだが、お前ほどの奴は無理があったか」
喋りながら山岸はコップをひっくり返す。その後無言で手を差し出し、ウォーターポッドから水を出せと要求してくる。
反田は要求通りハンドルを傾けた。
「俺はお前を評価している。もっと動物園みたいなクラスで過ごしたかったぜ。天流とお前がクラスにいるだけで学校に来る価値があったぜ」
山岸は少しだけ水を口に含み、すぐに話を続ける。
「天流の奇行の数々を覚えてるか? ああ、あれは覚えてんだろ? 授業中急に発狂してベランダから飛び降りたのをよ」
なんの話かと思えば、天流の有名な話の一つだ。当然覚えている。あれは今でもはっきりと思い出せるほどの出来事だった。
去年の夏のことだ。その日はたまたま反田が登校している日だった。
反田が目を閉じながら授業を受けていると、突然前のほうから雄叫びが聞こえてきた。
目を開けて確認すると、すでに声の主である天流は走り出していた。
そしてハードルを越えるかのように速度を上げながら跳び、ベランダから落下していった。
「本人から聞いた話じゃ、あの後あいつはあのまま隣町まで走っていったらしい。馬鹿じゃ済ませられねぇだろ。二階から飛び降りたくせに怪我はなかったが、その後教師とかいろいろと面倒だったらしいぜ」
本来面倒の一言で片づけられることじゃない。だがあの女ならば片付けてしまう。
「そうか」
もうあれから一年近い月日が経過したのかと思った。時間の経過は意識していないと早すぎる。
「でも天流さんが留年しないで反田君が留年なんて少し驚いたよ」
千弾紅護が会話に入ってくる。
「ハッ、どっちも変わんねぇよ。どっちも行動が読めねぇし、なにやりだすかわかったもんじゃない。反田は当たり前のように授業中抜け出す。こいつのせいで感覚が狂ってくるぜ」
「そうかもしれないね」
千弾紅護は愉快そうに笑った。
「それよりこれを見ろ」
山岸は自慢げにスマホの画面を反田のほうへ向ける。
SNSの画面だろうということは分かった。
「先週ようやくフォロワーが二万を超えたんだよ」
「そうか」
反田の反応を見て納得いかないのか、山岸は説明を付け加える。
「お前はSNSをやってねぇからわからねぇだろうが、こいつはすげぇ数字だ。普通の高校生なんて百程度だ。それと比べたらこれがどれくらい凄いかわかんだろ」
他との比較を聞くと確かにすごいと思った。しかし、この数字が大きければどうなるのか、反田には分からない。強さを表しているのか、下僕の数なのか。
「この数字になんの意味がある」
反田のその質問に山岸は待っていたかのように食いつく。
「お前も知ってんだろ。俺はこの学校、いやこの地域の学校のすべてを知っている。簡単に言えば情報屋をやってんだ。情報を渡すときの条件として、一定数のフォローを要求している。高校生に限ったことじゃないが、最近は馬鹿が多いからな。フォロワーが多ければそれだけで影響力に繋がんだ。まあ、正確には俺一人で情報屋をやってるわけじゃないがな」
自慢げに話しているが、その凄さが反田に伝わることはなかった。しかし、一人でやっている訳じゃないという部分は聞こえた。だから反田は視線を千弾紅護へと向ける。
「いや、僕は違うよ。山岸君と一緒に居るだけさ。難しいことは全くわからないよ」
千弾紅護は困ったような笑顔を見せる。そして山岸がまた喋りだした。
「フッ、千は用心棒だ。立場上恨みを買うこともある。この傷もそうやってできた。あのときは本気で死ぬかと思ったぜ。まあ、俺に怪我をさせた奴ら全員退学と、親と一緒に土下座させたけどよ」
山岸は右人差し指で右目に少し被さった大きな痣を指さした。
去年もそんな話をしていた。中学のときの話だ。興味のない話を反田が覚えているということは、きっと十数回は同じ話をしているのだろう。
「多少脳がある奴は、クラスの人気者の千と共に行動する俺には手を出さない。手を出されたとしてもコイツは見かけによらず、いい体格してるからな。どうにかなる」
千が山岸の用心棒をして、山岸にメリットがあっても千にはなんのメリットがあるのだろうか。
千が山岸に弱みを握られている、そう考えるのが自然だ。興味がないから聞きはしないが間違いないだろう。
ようやく山岸の話に一段落が付いた。話を聞くのは疲れたと思いながら水を飲もうとしたら、また別の話が始まった。
「どうだ、二回目の一年生は?」
どうだと聞かれても感想はない。心持は去年と同じだ。
「変わらない」
「ホントか? 俺はいろいろと面白いことを聞いてるぜ」
そう言ったのと同時に三人分の料理が順にテーブルの上に置かれた。
反田が麺をすすりだしたのを見て、喋り足りなさそうな山岸も口を閉じた。