5話
目が覚めて布団横の時計を確認する。七時五十分。
上半身を起こし、数秒経ってから立ち上がる。カーテンを開けると眩しいくらいの光が部屋の中を照らす。干し竿を広げ布団を適当にかけて、続いて隣の部屋のカーテンも開ける。
反田が住むこのアパートは和室と洋室、それと風呂、キッチン、トイレがある。
一人で住むにしては少し広い。和室に布団を敷き寝室としている。洋室にはこたつテーブルとカメのケースが窓際にある。リクガメだから臭いは気にならない。
カメのケースに設置してある紫外線ライトの電源を点ける。これが太陽の代わりとなる。窓際で飼育しているが、ケースにうまく日光が当たってくれない。そのため紫外線ライトが必要になる。カメ用ヒーターは気温が上がってきたから点けない。
電源を入れてからすぐにカメがガサゴソと音を立てて動く。甲羅の大きさだけでも二十センチほどある。
ペットショップで買ったわけじゃない。小学生のときに運動公園のドブに捨てられていたのを見つけ拾ってきた。なぜ捨てられたと断言できるかというと、日本には生息していない種類のカメだからだ。当時、図書館に行って飼育方法や生態を様々調べた。その結果ヒーターや紫外線ライトを用意することとなったという訳だ。名前は反田直々に付けられている。
パゴス。それがこのカメの名前だ。当たり前だが、このカメはかの有名なガラパゴスゾウガメではない。反田にとってリクガメと言えばガラパゴスゾウガメだ。だから捻りもなく名前が決定された。
カメのケースから離れキッチンの左隣にあるトイレで用を足し、キッチンで手を洗ってから冷蔵庫を開ける。洗面所とキッチンは兼用だ。冷蔵庫から昨日の夜に作っておいたおにぎりを一つ取り出し口に運ぶ。特に感想はない。
(ランニングへ行くか)
散歩。反田にとってそれは習慣となっていた。朝の散歩は気持ちがいい。気分が晴れる。
いつもジャージで寝ているから着替える必要はない。今日も当然学校はあるのだろうが、気分じゃない。だから今日は学校へは行かないだろう。
食事の際に出たラップをゴミ箱へ捨てキッチンへ行く。歯ブラシを取り出し、歯磨き粉を付けて磨く。一分もしないうちに唾を吐きだし、うがいをした。
タオルを洋室にある物干し竿から取り、そのまま顔を洗い髪も濡らす。タオルでふき取ってドライヤーで髪を乾かした後にジェルで前髪を上げる。
ここまではルーティンだ。予定の有無に関わらず変わらない。
冷蔵庫から小さく切られた白菜を取りだして、カメのケースの中へ丁寧に置く。
「エサだ」
パゴスは首を傾けてからゆっくりと白菜に嚙みついた。
その光景を見ているだけで油断すれば三時間は過ぎてしまう。反田にとって学校で授業を受けるよりも、カメがくつろいでいる姿を見ているほうがよっぽど有意義な時間なのだ。
散歩にカメを連れていこうかとも思ったが、今日の反田は爆走したい気分だ。
昨日学校が終わった後十キロほど走ったのだがまだ足りなかったようだ。
無理やり学校に居た反動なのだろう。無理やりなにかをすることは大きな負担になる。
玄関に置いてある一つしか口がない財布から千円札をポケットに入れ、ついでにハンカチとポケットティッシュも入れる。そして扉を開けて外に出た。
準備運動をせずに走り出す。
向かう先は運動公園だ。アパートから三キロ、学校からは二キロほどの場所にある。
そこにはテニスコート、陸上競技場、野球場など多くの設備や、子どもが遊べる遊具だってある。だから放課後は高校生も多く利用している。
この時間は、遅刻しまいと懸命に自転車を漕ぐ生徒とよくすれ違う。
向こうからすれば反田は逆走している。こういうところから良くない噂は広まるのだろう。
一キロほど軽く走ったところでスピートを上げる。お世辞にもきれいなフォームとは言えない。走り方はすべて独学だ。
古本屋で見た様々な走り方を試して、結局感覚で自分が走りやすいフォームで走ることにした。反田が得意なのは短距離だ。長距離は絶望的に苦手だった。体力がなかったのだ。
そこを改善するために、中学生の後半からランニングをするようになった。おかげで一般的な運動部に所属する高校生以上の体力はある。
体力に関しては満足とまではいかないが、納得できるラインまで自分を上げることができた。
散歩は昔から好きだった。その延長上のランニングをして自分の苦手を克服することができて、そこに楽しみを見出せたというのは大きな成果だ。学校ではこんな満足感は味わえない。
歩いて息を整える。運動公園までは一キロを切っていた。
反田の目の前に続く長い坂を超えればたどり着く。
正確にここからが運動公園だという標識はない。もはや名物となっているこの坂からすでに運動公園だと主張する人もいるくらいだ。
まだ息は整わない。坂を上りながら深く息を吸う。運動公園周辺はほぼ森だ。どのくらい森かというと熊の出没情報があるくらいには森だ。おかげで息を吸うだけで気分が良くなる。
だがそのとき、何か不穏な空気を反田は感じ取った。
坂の上から誰かが全力疾走してくる。
確認しようとするが眩しくてよく見えない。坂の上の人は反田の数メートル先で唐突に止まった。
「反田煤九か、君は」
女性の声だ。反田はその声に聞き覚えがあった。一か月ほど前にその声を最後に聞いた。
まるで太陽の光を纏っているその人を、目を細めながらなんとか視認する。
「天流か」
背中まで伸びた艶のある長い髪を一つに縛った髪型に、キレイな顔、おでこに巻いた赤いハチマキは一度見たら記憶に深く刻まれるだろう。反田もそのシルエットは記憶している。
「坂は何のためにあるか知っているか?」
突然質問を投げかけられた。
反田はクラスメイトの性格や名前は関りがない限り覚えない。だが目の前の少女に関しては違う。ある程度関りがあったからという理由もあるかもしれない。
ただそれ以上に彼女のすべてにインパクトがある。それが彼女という存在を記憶している一番の理由だ。
「そう! 走るため‼ 坂は人が走るために作られたんだ! 坂があれば走り出す。それが人の嵯峨なんだよ‼」
きっと初見の人は、この整った顔から滅茶苦茶な言葉が出てくれば脳が混乱するだろう。
滅茶苦茶な言葉の羅列の発信源が彼女からとは今でも思えないときがある。
天流が反田の隣まで移動してくる。
「話したいことはたくさんあるが、坂で話をするのは非常識だ。いくぞ! 坂の上まで‼」
どこが非常識なのか気になるが彼女の言動の都度疑問を口にしてしまえば、会話は進まない。
走り出した天流を無視して歩き始めると、彼女は振り返ってきた。
「勝負から逃げる気か?」
違う。ただ、自分のペースで歩きたいだけだ。だが、逃げるのかと問われたのならば、逃げない意思表示をする必要がある。
「逃げるつもりはない」
反田も走りだした。