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決裂

 

 ピュロス湾における大敗と、その結果、戦士たちがスファクテリア島に閉じ込められたという報せは、スパルタ本国に大きな衝撃をもたらした。  


 長老会はただちに現地へと視察団を派遣し、彼らが戻ると同時に、会議が始まった。

 武力によってスファクテリア島内の戦士たちを救い出すという案は、現状ではほぼ実現不可能であるというのが、一同の一致した見解だった。

 島の周囲を取り囲むアテナイ艦隊を蹴散らしてスファクテリア島の岸辺に漕ぎ寄せ、閉じ込められた戦士たちを救い出して帰ってくるなどという芸当は、神々にでもなければ成し得ないことだ。


 そして、無論のことであるが、スファクテリア島に取り残された戦士たちを見捨てるという選択肢は、彼らには有り得なかった。

 支配階級たる市民の人口減少に悩まされ続けてきたスパルタにとって、壮健な戦士たちを一挙に百数十名も失うことは耐え難い打撃だったのである。  


 何としても武力以外の手段、すなわち外交交渉によって戦士たちの身柄を取り戻すべく、スパルタの長老会は、アテナイに使節団を送り込んだ。


 アテナイ側はこれを受け容れ、スパルタの使節団が交渉を終えてアテナイから本国へ帰還するまでという条件付きで、次のような休戦協定が結ばれることとなった。


 ひとつ。スパルタは、このたびの海戦に用いた全ての艦船を、交渉が済むまでアテナイ海軍に引き渡すこと。

 なお、これらの艦船は、交渉の終了とともにスパルタに返還されるものとする。


 ひとつ。アテナイは、交渉の期間中、スパルタ軍によるスファクテリア島への食糧の搬入を認めること。ただし、運び込む物資の量は定められた分を超えてはならない。

 また、搬入作業はアテナイの監視の下で行われるものとし、いかなる舟も内密に漕ぎ寄せてはならない。


 ひとつ。交渉の期間中、スパルタ、アテナイの両軍とも、陸海いずれからも相手に攻撃を加えてはならない。


 スパルタ、アテナイの両者いずれかが協定の規約に違反すれば、その時点で休戦協定は破棄される――


   

 この協定に従えば、アテナイ側に引き渡されることになる艦船の数は、実に六十隻にものぼった。

 だが、スパルタはこの条件を呑んだ。   

 そして本格的な交渉が始まった。  


 スパルタ側の使節団は、彼らの平生の習慣に反して言葉を尽くし、両ポリス間の争いがこれまで以上に深刻なものとなり、ギリシア人の中でも最高の評価を得ている両ポリスの土地が荒廃し、戦士たちの犠牲が無為に増えてゆくのを座視するよりも、この機に適切な条件で講和をはかり、互いに友誼を結んだほうが双方にとって有益なのであるということを熱弁した。


 このときスパルタ人たちは、以前にはアテナイ人たちのほうがより熱心に講和を求めていたのだから、このたびの申し出に対して、アテナイ人たちはおそらく同意するだろうと考えていた。  


 だが、その読みは外れた。  

 アテナイのクレオンは広場アゴラに立ち、民衆に対して熱烈な演説を行った。


「思慮深きアテナイ市民たちよ!  

 どうやら我らがポリスには、厄介事をさっさと片付けようとするあまりに講和を急ぎ、交渉相手に提案されるがまま、我々が本来当然受け取ってしかるべき補償――そう、このたびの戦争によって被った損害に対する補償の額を、過少にとどめようとする向きがあるようやけれども、はっきり言わせてもらえば、そんなスカ頭は墓場のカラスにでも喰われてしまえや!  

 なぜ、諸君らは、現状をもっと正確に認識しようとせえへんのか?  

 スファクテリア島に百名を超えるスパルタ人たちを抑留している以上、このたびの交渉において、我らがアテナイは圧倒的に優位に立っていると、なぜ分からへんのか?

 この機会に、我々はもっと強気の条件を提示し、自国の利益を――無論、正当な範囲内で――最大限まで押し広げるべく、交渉に臨むべきではないやろうか?  

 それこそは、我らがポリスに与えられた当然の権利であると僕は考えるのやけれども、諸君らが、もしもそう考えへんというのならば、今、この場で、ぜひともその理由を聞かせてもらいたいと思う。

 諸君らの意見はどうか!?」


 広場(アゴラ)をどよもす歓声が上がり、景気のいい演説に大いに沸いた民衆は、クレオンの主張を支持した。  


 あまりにも強気、大胆、過激とさえ呼べるクレオンのやり方には、反発も多かった。  

 そういった者たちの多くは、強靭な枝をぎりぎりと撓めていけばいつかは激しく跳ね返るように、アテナイが高圧的な態度をとることによって、スパルタ人たちが交渉の道を捨て、再び全面戦争を挑んでくるのではないかという危惧を抱いていた。


 だが、いかに数多くの者がクレオンのやり方に危機感を覚え、彼に反対し、より穏健な意見を述べようとも、彼らよりも大勢の者たちがクレオンを熱狂的に支持する以上は、事態はクレオンの思うがままであった。

 これは別段、奇妙なこととは言えなかった。

 そもそも、民主主義とはそういうものではなかったか?


 かくして、スパルタの使節団に対して突きつけられたのは、



 ひとつ。スファクテリア島内のスパルタの戦士たちは、全ての武器を提出した上で、アテナイに身柄を護送される。


  ひとつ。スパルタは、以前の講和の際に手に入れたニサイア、ペガイ、トロイゼン、アカイア地方をアテナイに返還する。



  という、極めてアテナイ側に有利な条件であった。


 これらの条件はクレオンによって発案されたものであり、領土の返還が行われた時点で、戦士たちの身柄はスパルタに戻され、その後に両国はあらためて休戦条約を結ぶということになっていた。


 条件を聞いたスパルタの使節団は、唖然とした。

 領土についての件も大いに問題であったし、戦士たちの身柄を、たとえ一時的にとはいえアテナイに引き渡すという件に至っては、心情的に言えば話にならなかった。

 このような条件を呑むということは、誇り高きスパルタがアテナイに屈服したという事実を、全ギリシアに向けて喧伝するに等しいではないか?


 それでも使節団は即座に交渉の席を蹴って立つことはせず、何とか事態を打開する道を探ろうとした。

 彼らはアテナイ側に対し、協定の個々の点については協議の余地があると考える、そこで、双方による細部の調整を行うために、非公開の会談の場を設けてはどうかと主張した。


 これに対し、猛烈な反対をしたのが、やはりと言うべきか、クレオンその人だった。


 「アテナイの市民諸君! 僕はこれまでもスパルタの使節団に対しては不信感を持っていたのやけれども、今となっては、それが決定的なものになった!  

 なぜかと言えば、これは諸君らの日頃の経験に照らして考えて欲しいのやが、何者の目にも公正に映るであろう適切な話し合いをしようというときに、わざわざ、こそこそと人目を避けてする者があるやろうか?  

 スパルタの使節団は、市民の目から隠された場所で、限られた委員たちとのみ話し合いをすることを提案している!

 これは一体、何を意味するのやろうか?  

 聡明な者の目には、スパルタの使節団が公正な意図を持たず、何らかの――我々に知られてはまずいような――不適切な成り行きを望んでいるということは、火を見るよりも明らかではないやろうか?  

 正当な主張があるのやとすれば、スパルタ人は、限られた委員に対してではなく、我々の全てに向けて、正々堂々、公然と語るべし!」  


 アテナイ市民の多くが、この主張に賛同した。  


 こうなってはもう使節団に為す術はなかった。

 状況から見て、自分たちの側が何らかの譲歩をせざるを得ないことは明白であったし、もっと明白であったのは、その様子を決して衆目に晒すべきではないということだった。  


 かくして交渉は決裂し、使節団はアテナイから帰国した。  


 スパルタ人たちは、当初の取り決めにあった通り、六十隻の艦船を直ちに返却するようアテナイ側に要請したが、なんとと言うか、やはりと言うか、アテナイ側は『スパルタ側に休戦協定の規約への違反が見られた』などとあれこれ難癖をつけて、艦船を返そうとはしなかった。  


 これにはさすがにスパルタ人たちも怒り狂い、かくして、戦争は双方の力の限りに続行されることになってしまったのである。



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