エンデュミオーン
絶えることのない波の音が、高くなり、低くなり、響き続けている。
暗い海原に点々と見える灯りは、島を囲んで投錨するアテナイ艦隊の舳先に掲げられたものだ。
先ほどまでは、物見の戦士たちがここにいたのだが、レオニダスがふらりと姿をあらわし、しばらくひとりになりたい、と告げると、顔を見合わせ、静かに立ち去っていった。
月もない夜の中にひとり立ち尽くし、波の音にただ耳を傾けていると、じきに、自分が立っているのか横たわっているのかさえも定かではなくなってくる。
やがて、全身の輪郭が曖昧になってゆくような――己自身の存在が、無限の波音と闇の中に溶け込み、全て一体となってゆくかのような、奇妙な感覚に支配される――
「レオニダスよ」
不意に背後から呼びかけられ、立ち尽くしていたレオニダスは、振り向きざまに膝をついた。
星明かりの下で、相手の姿はぼんやりとした輪郭程度しか見分けることができなかったが、声で判別がついたのだ。
「エピタダス将軍……」
「こんなところで、《半神》が自ら、不寝番か?」
今ふたりが立っている場所は、まさに今日、彼らが同盟海軍の壊滅を見届けることになった、あの高台だった。
この暗さである。万が一にも足を踏み外せば、命はない。
レオニダスは、小さくかぶりを振った。
「その名は、返上しなければ」
あの時、自分自身がとった行動が、レオニダスには信じられなかった。
クレイトスを追って駆け出した瞬間の記憶が、彼にはなかった。
何かを考え、判断しての動きではなかったのだ。
まるで、獣が本能に導かれるように。
「あのとき……」
レオニダスは言葉の続きを飲み込み、唇を噛んだ。
クレイトスにはやや遅れをとったものの、アテナイ艦の運動を見て、敵が島の入江に侵入し、こちらの三段櫂船を奪うつもりであることにレオニダスも気付いていた。
そうだ、気付いていた――
にも関わらず、それを仲間たちに告げることも、将軍に報告することもせずに、彼はひたすら、クレイトスの背中を追った。
斜面を駆け下りてゆくクレイトスの足はおそろしく速かった。
まるでヘルメス神の化身が駆けてゆくようだった。
レオニダスはどうしても追い付くことができず、その背が木々のあいだをだんだんと遠ざかってゆくのを見て、気も狂わんばかりになった。
(クレイトス――)
次第に小さくなるその背中に、初めて顔を合わせた頃の細っこい少年の面影はどこにもなかった。
深紅のマントをひるがえし、翼ある足で駆けるスパルタの戦士がそこにいた。
焼けつくように肺が痛み、喉の奥に血の味がした。
呼ぶ声は出ず、そのかわりに、胸の内で百万回も繰り返し響き続ける叫びがあった。
(クレイトス、俺は、お前を――)
「失いたくなかったのじゃろう?」
不意にそう告げられて、レオニダスは百年の眠りから覚めた者のように瞬きをし、顔を上げた。
声の主、エピタダス将軍の表情は、闇に隠されて見えない。
「お前があんな顔をするのを、初めて見た。なかなか人間らしいところもあるではないか」
揶揄めいた言葉だったが、声の調子を聞く限りでは、真面目に感心しているようだ。
「それだけ、あの若者が大切なのじゃろう。なぜ、今、行ってやらぬ?」
問われて、レオニダスは、ただ木偶の坊のように将軍の姿を見上げているだけだった。
波の音ばかりが、終わりを知らず響く。
思考が空転していた。
今、クレイトスと顔を合わせたとして、何を言えばいいというのだろう?
よくアテナイ軍の動きを読んだ、と誉めるべきだろうか?
なぜ勝手な行動を取った、と叱責するべきだろうか?
だが、そのどちらも、最も大切なことではない、という気がした。
最も大切なことは、決して、伝えるべきではなかった――
「レオニダスよ」
長すぎる沈黙の後、頭上から降ってきたエピタダス将軍の声には、鋭さが混じっていた。
「お前は、腰抜けか? それこそ《半神》の名に恥じるとは思わんのか? こんなときに側にいてやらんで、何が念者か! お前がそのような意気地では、クレイトスが哀れというものじゃ。わしが若い頃は、お前のように念弟を寂しがらせたりなぞ、決してせなんだわい。……いいや、今でも、老いたりとはいえ、わしの方がまだ甲斐性がある。お前に、それだけの覚悟がないのならば、あの若者、わしが貰い受けようかの。それでも良いか?」
レオニダスは、目を見開いた。
(渡さない)
声にならない声が、はっきりと胸の中で響いた。
同時に、我知らず、レオニダスは立ち上がっていた。
まるで、将軍に挑みかかり、威圧するように。
「そう……それが、お前の真情じゃ」
微かに笑みを含んだエピタダス将軍の声は、すでに元の穏やかさを取り戻している。
かまをかけられたのだ、と悟ったレオニダスは愕然としたが、不思議と怒りはなかった。
先ほどの一瞬、澄み切った水面に映して見るように、自分の心がはっきりと見えた。
もしもエピタダス将軍が、本気でクレイトスを奪おうとしたならば――
自分は、この人に剣を向けただろうか。
――きっと、そうしただろう。
今ならば、その確信を持つことができた。
(俺は、クレイトスを……渡したくない。他の、誰にも)
「レオニダスよ」
エピタダス将軍の手が伸びてきて、強く肩を掴み、叩く。
「心は、伝えなければ、伝わらぬ。我らはスパルタの戦士。いつ戦いに果ててもおかしくはない。なればこそ、短い生のうちで通い合う絆は、いっそう貴いものじゃ……」
将軍が力強く頷いたのが、気配で分かった。
「ゆけ」
軽く肩を押されて、将軍の手が離れる。
レオニダスは拳を胸に当て、その場で踵を返した。
暗い坂を一歩ずつ下りてゆきながら、まるで、夢を見ているような気がした。
下りてゆく。
今から、クレイトスのもとへ。
そして――
建造中の砦には、屋根のある箇所はほとんどなかった。
個室などというものも当然存在しておらず、防壁の内側で野営をしている、と言ったほうがあたっている。
負傷兵たちでさえも、星空の下で地面にマントを敷き、雑魚寝で休んでいる状態だ。
クレイトスは、少し離れた物陰に寝かされて、静かな寝息を立てていた。
小さな焚火のあかりに照らされたその寝顔をしばらく眺めてから、パイアキスは、ふううと大きく息を吐き、手にした器を地面に置いた。
器の底にわずかに残る茶色の液体は、神経を休める作用のある薬草を煎じた汁の残りで、痛みの強い負傷者たちに飲ませて回ったものだ。
パイアキスは立ち上がり、ぐっと腰を反らし、肩を回した。
目覚めたクレイトスを落ち着かせ、手当てをするのは大仕事だった。
気を失っているあいだはよかったのだが、意識を取り戻してからというもの、彼は涙を流して自分を責め、命令も待たずに勝手な行動をとった自分はスパルタの戦士である資格はないとさえ言い出して、機転をきかせたパイアキスが武器を遠ざけておかなかったら、自死を選びかねない剣幕だった。
取り乱すクレイトスを宥め力づけようとして、周囲にいた負傷兵たちが口々に励ましの言葉をかけることが、ますます事態を複雑にした。
彼らの賞讃と激励は、今のクレイトスにとって神経を切り刻む刃に他ならないようだった。
結局、集まってきた男たちには丁寧かつ強引にお引き取り願い、パイアキスはクレイトスを少し離れた場所へ連れて行って、葡萄酒に混ぜた濃いめの薬草の煎じ汁を飲ませ――
ようやく落ち着いてきたクレイトスが眠りに落ちたのが、つい先程のことだ。
パイアキスはもう一度膝をついて、クレイトスの額に載せてある濡れた布の具合をなおすと、また立ち上がり、腰に手を当て、ゆっくりと首を回した。
先ほどまで長く屈んだ姿勢でいたために疲労がたまった筋肉が、心地好く伸びるのが感じられる。
そして大きく仰け反った姿勢になったとき、すぐ側に誰かが立っていることに気付いたパイアキスは、慌てて身構えようとして、もう少しで首の筋を違えるところだった。
「隊長殿」
上げかけた叫びを噛み殺し、ひそめた声で相手を呼んだのは、束の間の安らぎの中にいるクレイトスや戦士たちの眠りを妨げないようにという配慮のためだ。
だが、暗がりの中から現れたレオニダスは、パイアキスの方を見ていないようだった。
レオニダスの視線が、横たわるクレイトスに向けられていることを見て取ったパイアキスは、常々フェイディアスが褒め称えている細やかな心配りを即座に発揮した。
「でしたら、私はこれで」
と、何が「でしたら」なのか全く分からないが、笑顔でそう断言し、レオニダスが何か言う前にすばやく姿を消す。
「………………」
物言いたげにパイアキスの方へと差し出しかけていた手を、諦めて下ろし、レオニダスはその場に立ち尽くした。
額に布を載せ、腹に包帯を巻かれたクレイトスは、それ以外はほとんど裸同然の姿でいた。
あまりにも無防備な姿に込み上げるものがあったが、それを抑え込み、目をそらす。
クレイトスは今眠っているかもしれぬという、当然予想してしかるべき事態を想定していなかったレオニダスは、既に、どうすればいいのか分からなくなっていた。
せっかく眠っているものを起こして話しかけるのは気が引ける。
いや、そもそも、自分は一体何を言おうとして、ここまで来たのだったか……?
出直そう、といったん踵を返したレオニダスは、だが、そこで再び立ち止まった。
(俺は……恐れている、のか?)
クレイトスと――自分自身の心と、向き合うことを恐れているのだ。
怯えて背を向けるなど、スパルタの戦士にあるまじきことだ。
それに、ここで引き返してしまえば、明日からも今までと何一つ変わることなく、何一つ前進することなく時が過ぎてゆくであろうことが容易に想像できた。
それはできない。
もう、できない――
レオニダスはゆっくりと向き直ると、クレイトスの方へと三歩、近付いた。
そこでまた立ち止まる。
わざと足音を消さなかったというのに、クレイトスが目を覚ます様子はなかった。
せめて目覚めてくれれば、何らかの話の運びようがあるというのに。
これではまるで、寝込みを襲うようなものではないか。
(駄目だ。やはり、明日……明日の朝、夜明けに)
そう決めて立ち去りかけた、その時、クレイトスが低く呻いて身動きをした。
彫像のように動きを止め、気配を殺してレオニダスが見やると、クレイトスは何事かを苦しげに呟きながら首を振り、片手をわずかに動かしていたが、やがて、再び深い眠りの淵へと沈んでいった。
レオニダスは足音を殺し、クレイトスの傍らに歩み寄って膝をつくと、彼の額から落ちた布を拾い、そっと元の通りに載せてやった。
(明日……夜が、明けたら)
そう思いながら、レオニダスは、間近にあるクレイトスの顔から視線が離せなくなっていた。
立ち上がり、その場を去るつもりが、身体が動かなかった。
踊るように揺らめく小さな炎に照らされて、クレイトスはあまりにも美しく、その肌はかすかに輝くように見えた。
わずかに眉を寄せ、唇を開いたその表情は、見る者から抑制を奪い去るのに充分だった。
(エンデュミオーン……)
その寝姿が月の女神の心を奪ったと神話に語られる美貌の青年の名をレオニダスは思い出した。
今、己の胸を焦がすこの感情は、女神でさえも抗うことのかなわなかったそれと、きっと同じものなのだろう。
いや、違う。
感情などと、そんな、生易しい言葉で名付けられるものではない――
レオニダスは手を伸ばした。
蜜や炎に引き寄せられる虫のように、彼はどうしようもなく、クレイトスに惹きつけられていた。
その魂に。その器である美しい肉体に。
もはや理性は彼の助けとなってはくれなかった。
指先がクレイトスの唇に触れ、そのやわらかさを感じた瞬間に、レオニダスは衝動的に若者に覆い被さってその肩を押さえつけ、口づけをした。
クレイトスが苦しげに呻いて、目を覚ます。
それを感じ取ったレオニダスは、反射的に抗う腕を捕らえて地面に縫い止め、より深くその口を塞いで声を奪い、全身で乗りかかって易々と身動きを封じた。
一体これまで何を躊躇っていたのかとおかしくなるほどに、簡単だった。
まるで、大人の獅子が仔牛を打ち倒すようなものだ。
後は、本能のままに征服し、喰らい尽くすだけ――
だが、一瞬混乱したように焦点を失った青い目が自分の顔をとらえていっぱいに見開かれるのを見たとき、レオニダスの動きは止まった。
……同じだ。
あの時と、同じ。
あの時の自分と、同じだ――
絶望したようなアンテオンの顔が脳裏に浮かび、消えていった。
レオニダスは跳ね起き、信じられないというように首を振りながら後ずさった。
見つめてくるクレイトスの青い目が、恐ろしかった。
「すまない……」
その声は、果たして、声になったかどうか。
「お待ち下さい!」
身を翻し、駆け出そうとしたレオニダスは、クレイトスの悲鳴のような声に立ち止まった。
「レオニダス様……」
背中でその声を聞きながら、レオニダスは、このまま立ち去るべきだと考えていた。
何ひとつ、説明することができない。釈明もできない。
だが、それでもなお、彼の足をその場に留めるものがあった。
背中越しに、クレイトスの擦れた声が聞こえる。
「あの……あのとき、御命令も待たず……どうか、お許し下さい」
一瞬、クレイトスが何のことを言っているのか理解できなかったのだが、すぐに思い出した。
「ああ」
もう、何も考えられない。
「お前は、よくやった」
「あの」
「今夜は、よく眠れ」
自分は一体、何を言っているのだろうか?
これ以上、ここにいるべきではない。
レオニダスは振り向こうとして、クレイトスの顔を見る勇気を持てず、わずかに首を捻っただけで呟いた。
「……すまなかった。忘れてくれ」
「レオニダス様!」
クレイトスの声には、血を吐くような響きがあった。
「やはり……やはり、僕では……不足、なのでしょうか?」
レオニダスは、ゆっくりと振り返った。
身を起こしたクレイトスの青い目が、食い入るようにまっすぐに見つめてくる。
彼は、泣いていた。
身体の両側できつく拳を固め、ぼろぼろと涙を零してこちらを見上げていた。
レオニダスは、口を半分開いたまま、ぽかんとした。
遠い記憶の中から、風の音が聞こえた。
ずっと前に、一度、こんなことがあったような気がした――
「も、申し訳、ありません」
クレイトスはすぐに顔を背けると、きつく目を瞑り、流れ落ちる涙を手で拭った。
先ほどの出来事は、強すぎる望みが見せた、夢だったのだろうか?
あまりにも遠い《半神》の背中を追って、ここまで来た。
隣にいても遥かに隔たっているような気がして、自分には、果たしてここにいる意味があるのか、レオニダス様はそれを望んでおられるのだろうかと、ずっと心許なかった。
(やはり……レオニダス様にとって、僕は……)
ふと、頬にあたたかいものが触れた。
目を開いたクレイトスの頬に、レオニダスが指の背を当て、涙を拭っていた。
青い空が見えて、風の音が聞こえたような気がした。
そうだ。
ずっと前に、一度、こんなことがあった。
「クレイトス」
初めて、この名を呼ばれた時――
あの時はすぐに離れていった手が、今は、そっと頬に当てられ、耳のそばの髪を撫でた。
《半神》の無表情な眼差しが見下ろしてくる。
それがすぐに視界いっぱいに広がって、唇が押し付けられる感触と共にクレイトスは目を閉じた。
強く引き寄せられて、脇腹の傷が痛んだが、そんなことは何でもなかった。
耳元で、声がする。
「クレイトス、俺は……あの日から、ずっと」
もしもこれが夢であるなら、目覚めるよりも、死を選びたいと感じた。




