人質
太陽神が御する黄金の二輪車が水平線の下へと駆け去り、夜が来た。
スパルタの戦士たちはスファクテリア島の高台に築き上げた砦に入り、負傷者の手当てや、アテナイ兵の死体から奪った武具の点検に余念がない。
見張りを命じられた一部の戦士たち――特に遠目が利き、また夜目も利く男たちだ――は、再び高台に登り、星明かりに照らされる海上にアテナイ艦隊が投錨しているのを見て取っていた。
アテナイ艦隊はスファクテリア島の周囲を点々と取り囲んでおり、島から脱出しようとする者があれば、必ず捕らえずにはおかない構えだ。
「まあ、あとは、本国に任せるしかないだろうな」
フェイディアスが、小さな焚火に枯れ枝を放り込みながら言った。
焚火の周囲に集まった男たちの顔が、一斉にフェイディアスのほうを向く。
彼は肩をすくめた。
「もちろん、島を取り囲んでいるアテナイの連中が明日の朝日と共に上陸し、決戦を挑んでくるというなら、話は別だが」
「おお、そのほうが、話がはやい!」
「来るなら来い。いつでも相手になってやる!」
拳を固め、今にも武器を取らんばかりの若い戦士たちに、まあ落ち着け、と手のひらを見せておいて、フェイディアスは続けた。
「アテナイ人どもは、陸上で俺たちに戦いを挑むほど馬鹿ではない。ちっぽけな島であっても、ともかく、ここが陸上であることに違いはないからな。おまけに、島じゅうが森に覆われているおかげで、アテナイの連中は、俺たちがどこにいるかさえ分からんのだ。そんなところへのこのこ上陸してくるほど、奴らの頭も腐ってはいまい。奴らはおそらく、俺たちをこの島に閉じ込め、飢えと渇きで苦しめるつもりだろう。そうして、俺たちを人質に、スパルタと交渉する気だ――」
「人質だと!?」
衝撃を受けたように目を見合わせる戦士たちに、フェイディアスは頷く。
「残念ながら、今の状況では、そうと言わざるを得んな。……日暮れ前に物見の報告が入ったのを皆も聞いていたと思うが、ピュロスの砦を攻撃していたスパルタ陸軍は、いったん攻撃を中止し、陣を引いたそうだ。艦隊が壊滅し、俺たちが島に閉じ込められたことで、彼らとしても手の出しようがなくなってしまったのだな。――だが、手詰まりなのは、アテナイの連中も同じだ。奴らは、スパルタとの陸戦を、徹底して避けようとしている。だから、ピュロスの砦から討って出ることもできないし、この島に上陸してくることもできないのだ」
「どちらも、身動きならない状態ってわけですね」
熊のように図体のでかい若者が、唸るように言う。
「だが、屈辱だな。この俺たちが、人質ですか。こうなったら、いっそ――」
「逸るな」
若者の念者が、窘めるようにその肩を叩いて言った。
「こちらから討って出る、か? それこそ、アテナイの連中の思うつぼだ。癪に障るが、海に出れば、そこは奴らの領域。海戦では、我らに勝ち目はない」
「勝ち目など!」
若者は興奮して立ち上がり、唾を飛ばして力説した。
「俺たちは、こんな屈辱を甘んじて受けることに慣れてはいません!
たとえ勝ち目のない戦いであっても、名誉のために――」
「他の道があるかもしれぬ時に、それを探しもせず、急いで破滅の道に飛び込む奴は馬鹿だぞ、パルティオス」
若者の念者が彼を怒鳴りつけるよりも早く、フェイディアスが穏やかに言った。
「我らが勝ち目のない戦いに挑むのは、それより他に道のない時だ。それは……まだ、先のこと。今回の戦争は、ちょっとばかり長く続き過ぎた。そろそろ潮時だ。これが、休戦の良いきっかけになるかもしれん」
うん、と自分の言葉に自分で頷いておいて、フェイディアスは、まだありありと不満を顔に浮かべている若者ににやりと笑いかけた。
「本国がアテナイとの交渉をうまく進めてくれれば、このちっぽけな島ともおさらばだ。今回の屈辱は、しっかりと心に留めておいて、しかるべき時に十倍、百倍にして返してやればいい! こちらとしても、どうせ戦うなら、こんな木だらけで狭苦しい島の上よりも、もっとのびのびと武器を振るえる場所のほうがずっといいからな。そうは思わんか?」
フェイディアスのおどけた口振りに、不満げだった若者の表情も、ようやく和らいだ。
「……ところで」
緊張しながら成り行きを見守っていた若者の念者が、ほっとしたように話題を変える。
「隊長殿は?」
「ああ、隊長殿なら今、美少年の――つまり、クレイトスの見舞いに行っておられるようだ」
「クレイトス!」
周囲の戦士たちが顔を輝かせ、手を叩く、
「彼の手柄は大きかった。彼のおかげで、我らの艦を奪われずに済んだのだ」
「艦をそっくりそのまま持ち逃げされるなど《獅子隊》の恥だからな!」
「アテナイの艦隊の運動を見て、敵の狙いを、いちはやく見抜いたということだ。さすがは《半神》の念弟だ!」
「で、大丈夫だったのか? あいつは」
気遣いの言葉が一番後回しになるあたりが、揃いも揃って人並み以上に頑健なつわもの揃いの彼ららしい。
「ああ。パイアキスが手当てをした。今も、看護についている」
フェイディアスの言葉に、ああなるほど、道理で、と男たちが頷く。
普段は光と影のように常に共にいるはずのふたりだが、今夜、焚火のそばにフェイディアスひとりしかいなかったので、皆、内心で訝しんでいたのだ。
「腹の傷は、内臓まで達してはいないそうだ。あいつが倒れたのは、身体に熱がこもったせいだ。明日には本調子に戻るだろう」
一同が、ほっとしたように顔を見合わせる。
だが、フェイディアスは眉根を寄せ、首を伸ばして様子をうかがうような動きをした。
「それにしても、遅いな、あいつは」
「あいつ? 誰のことだ?」
「パイアキスの奴だ。気配りの行き届く男だから、まさか、隊長殿が美少年とふたりきりになるのを邪魔するような野暮は、するはずがないと思うんだが――」
男たちは、再び顔を見合わせた。
今度は、全員、妙に楽しそうな目つきをしている。
「つまり……なにか」
「とうとう、あれか?」
「おそらくは、な」
重々しく腕組みをして、フェイディアス。
「クレイトスを追ったときの、隊長殿の顔を見ただろう? 隊長殿は無口な方だから、これまでは、何も仰らなかったようだが――あのときの表情にこそ、真の思いが表れていたと俺は思う。それを今夜、伝えるのでなければ、いつ伝えるというんだ?」
「隊長殿のほうから、その、何だ、そういうふうに行動なさるとすれば、願ってもないことじゃないか。クレイトスは、ここのところ、ずっと思い悩んでいるようだったからな」
別の男が言う。
「自分は隊長殿の念弟として相応しくない、とか何とか言ってな。俺は、逆に、隊長殿の念弟が務まるのはあいつしかいないと思うんだが」
「こういうのは当人たちよりも、傍から冷静に見ているほうが、よく分かるんだよなあ」
しみじみと頷きあう男たち。
「そうだ。だが、傍からいくら言ったところで、悩んでいる当人にとっては、気を引き立てようとして励ましているようにしか聞こえんものだからな。あいつが欲しがっているのは、ただ、隊長の言葉だけなんだ……」
大真面目にそう言ってしまってから、フェイディアスは自分の言葉に全身がむず痒くなり、うおう、と唸りながら身をよじった。
だが、一同はまったく同感とばかりに静かに炎を見つめ、揃って、ふうう、と大きな溜め息をつく。
パルティオスと呼ばれた先ほどの若者が感じ入ったように深く頷き、荘重な調子でしめくくった。
「愛、ですな……」