第36話:疾風の白兎と、畑を荒らす小さなつむじ風
昨夜の賑やかな大晩餐会の余韻を残したまま、開拓地には爽快な朝が訪れていた。
東の地平線から昇る朝日は、ケロ爺の予言通り、雲ひとつない見事な青空を開拓地の上に広げている。
雨上がりの澄んだ空気の中、北の玄武岩の防風石垣は青黒く輝き、水路のせせらぎがサラサラと心地よい目覚ましの音を奏でていた。
「ふあぁ……! いい朝だなぁ!」
石造り工房の扉を開け、ティルは大きく伸びをして初夏の空気を吸い込んだ。
土間では、昨夜たらふく豆料理を平らげたモグとサンが、まだ敷物の上で満足そうに丸くなって眠っている。
ティルは静かに作業着の袖をまくり、朝の農園の見回りへと歩み出した。
広場の南側に建つ、完成したばかりの【天候ハウス】。
竹葦とツル草で組まれた緩やかな屋根と、北側にそびえる玄武岩の蓄熱壁が朝日に照らされている。
扉を開けて温室の中へ足を踏み入れると、肌に触れる空気はふわりと温かく、柔らかな春霞が満ちていた。
『ケロ、ケロリ。……おはようじゃケロ、ティル様』
高床式の育苗ベッドの縁で、蓮の葉の笠を揺らし、ケロ爺が葦の杖を構えて座っていた。
背中の水色の斑点が、朝の光を受けて瑞々しい輝きを放っている。
「おはよう、ケロ爺さん。朝早くから温室の管理をしてくれていたのかい?」
『カッカッカ! 仙人の朝は早いケロよ。昨夜、蓄熱壁が吸い込んだサンの熱と床下の清流が調和してのう。夜の間も室温二十二度を下回ることは一度もなかったケロ』
「すごいな……! これならどんなに繊細な新芽でも安心して眠れるよ」
ティルが育苗ベッドの黒土にそっと指先を差し入れると、土の奥深くは人肌のような心地よい温もりを保っていた。
昨日蒔いたばかりのカボチャの種も、ふかふかの土の中で発芽の時を静かに待っている。
「よし、朝飯の前に第四号畝の【蜜入り野イチゴ】を収穫しておこう」
ティルは木籠を手に提げ、温室を出て畑の畝へと向かった。
第四号畝では、雨上がりの窒素を吸って急成長した野イチゴが、青々とした葉の影から真っ赤な実を覗かせている。
朝露をまとった実は艶やかで、風に乗って甘酸っぱい芳醇な蜜の香りを漂わせていた。
ところが――畑の中央のあぜ道に差し掛かった、その時だった。
ヒュルルルルッ……!
不意に、足元で乾いた砂埃がくるくると渦を巻いた。
穏やかな初夏の朝風とは明らかに違う、鋭く回転する小さな突風。
ミニチュアのつむじ風のようなものが、あぜ道の上を跳ね回っているのだ。
「風……? でも、北の石垣があるから、こんな突風が吹き込むはずはないのに……」
ティルが首を傾げた、その瞬間だった。
ビュオオオッ……!!
突如として、野イチゴの茂みの奥から突風の塊が飛び出してきた。
ティルの足元を猛スピードですり抜けたそれは、小さな白い砲弾のようだった。
バタバタバタッ!
「ピギャッ!? な、何ピョーーッ!?」
上空から朝の見回りに飛んできたピピが、巻き起こった乱気流に巻き込まれ、空中でクルクルと目を回しながら舞い上がった。
「ピピ、大丈夫かい!?」
「目が回るピョ〜〜! 主さん、あぜ道になんかすばしっこいのがいるピョ!」
ピピが翼をバタつかせながら指差した先――。
第一号畝の脇に積んであった、敷き藁の束の影だった。
カサカサ、モゾモゾ……。
藁の隙間から、二本の長くて白い耳がピコピコと慌ただしく突き出ていた。
その耳の先には、淡い空色の風の渦巻きのような不思議な紋様が浮かび上がっている。
「……うさぎ?」
ティルがおそるおそる近づくと、藁の中から、手のひらに乗るほど小さな、真っ白でふわふわの毛玉がコロンと転がり出てきた。
雪のように純白の毛並みに包まれた、丸っこい身体。
お尻にはぽんぽんのような短い尻尾が震え、ルビーのように透き通る赤く丸い瞳が、涙目でティルを見上げていた。
その姿は間違いなく――風を操る稀少な魔物、【ウィンド・ラビット】だった。
だが、目の前の白兎は、全身の毛を逆立ててガタガタと激しく震えていた。
『ひ、ひぃぃぃぃっ……!! 見つかったぴょん……! アタシの命もここまでだぴょん……!!』
甲高い、愛らしい少女のような声が、パニックのあまり裏返っていた。
「あ、あの……大丈夫かい? 怪我でも――」
ティルが優しく声をかけようと一歩踏み出した瞬間――白兎は耳をピーンと跳ね上げ、悲鳴を轟かせた。
『た、食べないでぴょんーーッ!! アタシは不味いぴょん!』
『毛ばっかりで肉なんてちっともついてない、ただの骨皮筋右衛門だぴょん!! 食べてもお腹壊すだけだぴょんーー!!』
ビュォォォッ!!
恐怖が頂点に達したのか、白兎が後ろ足で地面を蹴った瞬間、その小さな身体から猛烈な暴風が全方位へと爆散した。
「うわぁっ!?」
ティルは思わず腕で顔を覆った。
凄まじい風圧が広場一面を吹き荒れる。
「旦那ァ! なんの騒ぎッスかー……ぶべぇっ!?」
工房から目をこすりながら出てきたモグの顔面に、突風が直撃した。
モグの黒い毛並みが真正面からの風で後ろ向きに逆立ち、見事なリーゼントヘアのように固まってしまう。
「な、なんの突風ッスかこれ!? 目が開かないッスよ!」
「カラン、コロン……! きゃああっ!?」
工房のテラスでお茶の準備をしていたベルが悲鳴を上げた。
暴風によって極上フリースが綿飴のように膨らみ、まるで巨大な毛玉アフロのような姿になってしまったのだ。
「ま、まあ……! 淑女の朝のスタイリングが、跡形もなく吹き飛ばされてしまいましたわ……! ……メェェッ!」
『ガハハ! なんじゃこの風は! ワシの石皿が滑っていくぞい……ガメ!』
ガン親方が重い甲羅を踏ん張って石皿を押さえ、サンは「わほっ! 風さん遊ぼうワン!」と嬉しそうに突風に向かって尻尾を振っている。
そして、当の突風の発生源である白兎はというと――。
『うわぁぁん! 風が止まらないぴょん! 誰か止めてぴょん〜〜!!』
自分で巻き起こした暴風の反動で、地面を猛スピードでスピンしながら、あぜ道をごろごろと転がり回っていた。
「あはは……! 待った待った、誰も取って食ったりしないから、落ち着いて!」
ティルは苦笑しながら身を屈め、回転しながら転がってきた白兎を、手ぬぐいを広げてふわりと優しく受け止めた。
すぽんっ。
手ぬぐいの中にすっぽりと収まった白兎は、目を回してぐるぐると瞳を渦巻きにさせながら、ティルの腕の中でピクピクと痙攣していた。
『ひぅ……。ここは……天国ぴょん……? アタシはもう、煮込み鍋の具になっちゃったぴょん……?』
「鍋になんてしないよ。ほら、もう風も止まったから、怖がらなくていいんだよ」
ティルが指先で、白兎の小さな額をそっと撫でてやった。
指先から伝わってきたのは、シルクよりも滑らかな極上の毛並みの感触だった。
その温もりを感じた白兎は、恐る恐る片目を開け、ティルの顔を下から見上げた。
『……ケロ? お主、南の草原に住む、臆病風のウサギ坊主ではないかケロ』
温室からひょこひょこと歩み出てきたケロ爺が、葦の杖を突いて白兎を覗き込んだ。
白兎はケロ爺の姿を見るなり、耳をピンと立てて目を丸くした。
『あ、あの声は……湿地の仙人蛙のおじいちゃんぴょん!? なんでこんなところにいるぴょん!?』
『カッカッカ! ワシはこの農園の正式な仲間になったのじゃケロ。……おい若造、このウサギは【ウィンド・ラビット】。生まれつき風の魔力を宿しておるが、図体ばかりで気弱なノミの心臓の持ち主じゃケロよ』
「ノミの心臓って言わないでぴょん! アタシは繊細な美少女ウサギだぴょん!」
白兎は手ぬぐいの中から不満そうに口を尖らせたが、そのお腹から――。
ぐうぅぅぅぅ〜〜……。
盛大な虫の音が、静かな朝の広場に響き渡った。
白兎の白い頬が、ぽっと真っ赤に染まる。
『……うぅ。お腹ペコペコだぴょん……』
「やっぱり、お腹が空いていたんだね。もしかして、野イチゴの匂いに釣られてやってきたのかい?」
ティルが優しく尋ねると、白兎は恥ずかしそうに長い耳を前に垂らし、こくりと頷いた。
『……うんぴょん。南の草原で強い風に吹き飛ばされて、迷子になって……何日も草の根っこしか食べてなかったぴょん。そしたら、すっごく甘くていい匂いが風に乗って漂ってきたから……つい、ふらふらと入ってきちゃったぴょん……』
白兎は両前足をもじもじと擦り合わせ、申し訳なさそうにティルを見上げた。
「そうだったんだね。迷子になって心細かっただろう」
ティルは木籠の中から、今朝収穫したばかりの、一番大きくて真っ赤に熟れた【蜜入り野イチゴ】を一粒取り出した。
清流の朝露をまとった果実は、朝日の光を浴びて宝石のように輝き、濃厚な天然の甘い香りを放っている。
「はい、どうぞ。お腹が空いているなら、これを食べてごらん」
ティルが手のひらに乗せて差し出すと、白兎のルビー色の瞳がカッと見開かれた。
『えっ……? ア、アタシにくれるぴょん……?』
『罠じゃないぴょん? 食べた瞬間に檻が落ちてきたりしないぴょん……?』
「そんなことするわけないよ。採れたてで甘くて、とっても美味しいよ」
ティルが屈託なく微笑むと、白兎はゴクリと唾を飲み込み、ピンク色の小さな鼻先をひくひくと動かした。
漂ってくるのは、野山で嗅いだことのない、脳がとろけそうなほど濃密で爽快な甘い香り。
我慢の限界を迎えた白兎は、前足でイチゴを両手で抱え込み、小さな前歯でシャクッと一口かじりついた。
シャクッ……ジュワァァッ……!
その瞬間――白兎の全身の白い毛が、パァッとタンポポの綿毛のように大きく逆立った。
『…………っっっ!?』
ルビー色の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
『な……なんじゃこりゃあぁぁぁぴょん……!?』
白兎が絶叫した。
『噛んだ瞬間にシャリッて涼しい音がして……果汁の洪水が口の中に押し寄せてきたぴょん……! お砂糖よりも甘くて、お花畑の香りが鼻から突き抜けていくぴょん……!!』
白兎は夢中で両手を動かし、大きな野イチゴをシャクシャクと猛スピードで平らげていった。
一粒食べ終える頃には、口の周りが真っ赤な果汁で染まり、お腹はぽんぽこりんに膨らんでいた。
『ぷはぁぁぁ……! 生きててよかったぴょん……! こんな美味しいもの、生まれて初めて食べたぴょん……!』
至福の表情でうっとりと目を細める白兎。
その様子を見て、モグがリーゼントヘアを直しながら感心したように呟いた。
「へへっ、旦那の畑の野イチゴは世界一ッスからね!」
「アタシの水やりと、ベルの敷き藁のおかげピョね!」
ピピも胸を張る。
すると――白兎の様子が劇的な変化を見せた。
先ほどまでの怯え切ったパニック状態が嘘のように、そのルビー色の瞳が、熱烈な輝きを帯び始めたのだ。
『……あ、あなた……! 神様ぴょん!? いや、大地の天使様ぴょん……!?』
「え? 天使……?」
ティルが目を瞬かせた、次の瞬間だった。
ピョンッ……!
白兎は軽やかに跳ね上がると、ティルの胸元へと一直線に飛び込んできた。
そして、作業着の襟元に両前足でガッシリとしがみつき、頬をスリスリと激しく擦り寄せてきたのだ。
『大好きぴょんーーッ!! こんなに優しくて美味しいご飯をくれる人間さん、アタシもう二度と離さないぴょん!!』
『もっと撫でるぴょん! アタシの背中もお腹も、全部モフモフして甘やかすぴょんーー!!』
「わ、わっ!? ちょ、ちょっと待って!?」
白兎はティルの首筋にふわふわの顎を乗せ、まるで長年飼われていた甘えん坊の仔犬のように、ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってくる。
あまりの態度の豹変ぶりに、ティルは思わず吹き出してしまった。
(さっきまで『食べないで!』って泣き叫んで暴風を起こしていたのに、イチゴ一粒でこの変わり身の早さ……!)
「ぷるぷる! 新しいお友達、すっごく甘えんぼさんぷるぅ!」
ぷるが足元でぽよんと弾み、サンも「ワン! ぼくのライバルだワン!」と嬉しそうに尻尾を振ってティルの足元に擦り寄る。
「ふむ……。初対面の殿方にそこまで臆面もなく抱きつくとは、淑女の嗜みとしては少々慎みに欠けますわね。……ですが、あの毛並みの柔らかさは認めざるを得ませんわ。……メェ」
ベルが羨ましそうに銀鈴を鳴らした。
『ガハハ! 賑やかな風の精霊が転がり込んできたわい! これなら退屈せんぞい……ガメ!』
ガン親方の豪快な笑い声が、朝の開拓地に響き渡った。
ティルの胸の中で、白兎は満足そうに目を細め、耳の先の風の紋様から、そよそよと心地よい春風のような微風を送り出していた。
その風は、朝露に濡れた畑の葉を優しく撫で、開拓地全体を爽やかな若草の香りで包み込んでいく。
「君、名前はあるのかい?」
ティルが腕の中の白兎に優しく問いかけると、白兎は首を横に振った。
『名前なんてないぴょん。ずっと一人ぼっちで風に乗って飛んでたから、誰からも呼ばれたことないぴょん……』
少し寂しそうに耳を垂らす白兎。
ティルは温かな眼差しでその頭をそっと撫で、仲間たちを見回して微笑んだ。
「そうか。それなら……みんなで、君にぴったりな素敵な名前を考えよう」
『本当ぴょん……!? アタシにも、あたたかい名前をくれるぴょん……!?』
白兎の瞳が、朝日の光を浴びてキラキラと輝いた。
爽やかな初夏の風が吹き抜ける中、開拓地の新しい一日が、温かな笑顔とともに幕を開けていた。
***
【後書き】
第36話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回からいよいよ、新たな仲間を迎える新章――【ウィンド・ラビット編】が開幕いたしました!
大雨と天候ハウスの完成を乗り越えた開拓地に、突如として巻き起こった小さなつむじ風!
その正体は、甘い野イチゴの香りに誘われて迷い込んできた、極度の臆病者で超甘えん坊な白兎でした!
恐怖のあまり暴風を巻き起こして仲間たちを巻き込んだかと思えば、採れたて野イチゴの一粒でコロリと懐いてティルに抱きつくギャップに、クスッと笑っていただけましたら幸いです!
次回、第37話――「君の名前はルナ、柔らかなそよ風の抱擁(仮)」。
迷子の白兎とティルの魂の契約、そして心温まる命名の瞬間をお届けいたします!
もし「白兎の変わり身の早さに笑った!」「モグのリーゼントやベルのアフロが可愛かった!」と感じていただけましたら、
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