第31話:雨告げの仙人と、水路の飛び跳ね蛙
東の空が白み始めた頃、開拓地の空気はいつもとまるで違っていた。
普段の早朝なら、乾いた荒野特有のキリリと澄んだ冷涼な風が吹き抜けるはずだった。
だが今朝は、肌にまとわりつくような重い湿り気を含んだ、生温かい南風がゆるやかに吹き込んでいる。
見上げる空は、青空の奥に薄い灰色の雲が刷毛で掃いたように広がり、朝日の光をぼんやりと霞ませていた。
「ふあぁ……。おはよう、みんな」
新しく完成した石造り工房の頑丈な木の扉を開け、ティルが朝の空気を吸い込みながら外へと出た。
厚い玄武岩の腰壁と三和土の土間に守られた工房の中は快適そのものだったが、一歩外へ踏み出すと、首筋にねっとりとした湿気が張り付いてくる。
「……うん? なんだか空気が重たいな」
ティルが首を傾げると、工房の中からモグが目をこすりながらトコトコと出てきた。
その黒い鼻先を、小刻みにひくひくと蠢かせている。
「旦那、おはようッス! ……んん? なんだか土の匂いが変ッスね。湿気っぽくて、鼻の奥がツンツンと痒いッスよ」
「モグも感じるかい? 南風が湿気を含んでいるみたいだ」
その時、工房の屋根からピピが滑空してきて、ティルの肩にちょこんと止まった。
瑠璃色の羽毛をパタパタと震わせ、くちばしを鳴らす。
「空気が重くて、羽が少し湿気るピョね。上空の風も、南から生温かい気流がどんどん流れ込んできてるピョ」
「わほっ! ご主人様、おはようワン!」
サンが元気に駆け寄ってきて、ティルの足元で尻尾をブンブンと振った。
サンの胸元の太陽の核から柔らかな光が零れ落ちるが、今日の湿った大気の中では、その光が白く煙るようにふわりと拡散している。
「カラン、コロン……」
澄んだ銀鈴の音とともに、ベルが優雅に歩み出てきた。
自慢の極上フリースを前足で軽く払い、不快そうにサファイアの瞳を細める。
「湿度の高い風は、淑女の毛並みの大敵ですわ。……これではフリースが湿気を吸って重くなってしまいますの。……メェ」
そして、のっしのっしと重厚な足音を響かせ、ガン親方が姿を現した。
磨き上げられた漆黒の甲羅は今日も美しい光沢を放っているが、その太いくちばしは厳めしく結ばれていた。
『むう……。この生温かい南風、北の岩山に籠もっておった頃にも、季節の変わり目に幾度か嗅いだことがあるぞい……ガメ』
「やっぱり、天気が崩れる前触れなのかな」
ティルは昨夜、眠りにつく直前に水路の茂みから聞こえた、あの奇妙な鳴き声を思い出していた。
『……ケロ、ケロリ。明日は湿った南風、午後は大雨が降るケロよ……』
あののんびりとした予言めいた声。
ただの夢や幻聴ではなかったはずだ。
「みんな、水路の方を見に行ってみよう。昨日完成した石組みの護岸の様子も確認しておきたいしね」
ティルが提案すると、仲間たちは頷き、広場の南側を流れる水路へと向かった。
昨日、ガン親方と力を合わせて完成させた石組みの水路は、朝の光の中で美しく輝いていた。
滑らかな玄武岩の板石に守られた水路を、冷涼な湧き水がサラサラと心地よい音を立てて流れている。
土手が削れる気配は微塵もなく、中間地点の【沈砂池】には、上流から流れてきたわずかな小砂利が綺麗に沈殿していた。
「水路は完璧ッスね! びくともしてないッス!」
モグが胸を張った。
だが、その時だった。
ピチャアン……。
静かな水路のカーブ、沈砂池のすぐ脇に生える葦草の茂みから、小さな水音が響いた。
「……ん? 誰かいるのか?」
ティルが立ち止まり、葦草の隙間に視線を走らせた。
沈砂池の縁に据えられた、平らな玄武岩の敷石の上。
そこに――手のひらに乗るほど小さな、淡い若草色の生き物が、ちょこんと座り込んでいた。
丸っこい身体に、白く滑らかなお腹。
背中には、まるで雨露がそのまま結晶化したかのような、淡い水色の斑点模様が散らばっている。
頭には、器用に編み込まれた小さな蓮の葉の笠のようなものをちょこんと乗せ、細い葦の茎を杖のように前足で握りしめていた。
その黄金色の丸い瞳は、まるで何百年も世捨て人を続けてきた老僧のように、半眼でのんびりと虚空を見つめている。
その姿は、紛れもなく――【ウェザー・フロッグ】。
天候の移り変わりを肌で敏感に察知し、雨雲の気配を告げるという、伝説の雨告げ蛙だった。
『ケロ、ケロリ……。ふうむ、実に見事な石組みじゃケロ。水の流れに淀みがなく、腹の冷え心地も極上じゃケロな……』
しわがれた、しかしどこか飄々とした老人の声。
昨夜、夜風に乗って聞こえてきたあの声の主だった。
「あ、蛙の魔物ッス!」
モグが目を丸くして指差した。
「昨夜の声の主は、アンタだったピョね!?」
ピピが上空から舞い降り、石の上の小蛙を見下ろす。
すると、背後にいたガン親方が、驚いたように琥珀色の目をカッと見開いた。
『ぬ……!? き、貴様は……南の湿地帯に生息しておる、あの偏屈な仙人蛙ではないか……ガメ!』
若草色の蛙は、のんびりと首を回し、眠たげな視線をガンへと向けた。
『ほほう……? 誰かと思えば、北の岩山で意地を張って転がり落ちておった、頑固亀のガン坊主ではないかケロ。いつの間にやらピカピカに磨かれて、下民の青年に甲羅を撫でられておるケロか……ケロリ』
『だ、誰が坊主じゃ! ワシはれっきとした石工親方じゃわい……ガメ!』
ガンが顔を真っ赤にして甲羅を震わせる。
どうやら二匹は、昔からこの荒野の北と南で、お互いの存在を知っていたらしい。
ティルは苦笑しながら、争いを止めるようにそっと前に進み出た。
そして、小さな蛙の前にしゃがみ込み、視線を合わせて穏やかに微笑みかけた。
「はじめまして。俺はティルです。ここで魔物たちと一緒に畑を耕しています。……昨夜、雨が降ると教えてくれたのは、あなたですね?」
若草色の蛙は、蓮の笠を押し上げ、じろりとティルを下から見上げた。
『うむ、ワシはケロ爺と呼ばれるしがない隠者じゃケロ。……おい若造、昨夜のワシの忠告をただの戯言と思うて聞き流しておらんじゃろうな……ケロ?』
「いえ、気になっていました。今朝のこの生温かい風と重い湿気、本当に天気が崩れそうな気配がします」
ティルが真摯に答えると、ケロ爺は満足そうにくちばしならぬ口元をニチャリと緩めた。
『見上げた若造じゃケロ。鈍感な人間どもは、頭上に黒雲が広がるまで雨の気配にすら気づかんものじゃがのう。……よいか、耳の穴をかっぽじって聞くがよいケロ』
ケロ爺は葦の杖でトントンと石板を叩いた。
『南の海から、猛烈に発達した巨大な雨雲の群れが、山を越えてこの平原へと雪崩れ込んでくるケロ。今日の昼過ぎ……この開拓地は、視界を奪うほどの激しい集中豪雨に見舞われるケロよ』
「し、集中豪雨……!?」
ティルは思わず息を呑んだ。
「ええっ!? でも爺さん、空にはまだ薄い雲しか出てないッスよ!?」
モグが見上げる空は、確かに曇ってはいるものの、まだ雨が降りそうな気配には見えない。
「そうピョ! アタシが上空から見渡しても、黒い雨雲なんてまだ遠くの山の向こうにも見当たらないピョね!」
ピピも信じられないといった様子で首を傾げた。
「ふむ……。蛙の世迷い言ではありませんの? 蛙というものは、水浴びが好きなあまり、いつでも雨を望む習性があるのではなくて? ……メェ」
ベルもツンと顎を反らせる。
だが、ケロ爺は馬鹿にしたようにケロケロと喉を鳴らして笑った。
『カッカッカ! 目に見える雲しか信じられんとは、まだまだ雛鳥じゃケロな。……ティルとやら、足元の土と草の葉を見てみるがよいケロ』
『カッカッカ!目に見える雲しか信じられんとは、まだまだ雛鳥じゃケロな。……ティルとやら、足元の土と草の葉を見てみるがよいケロ』
ケロ爺に促され、ティルは地面に目を落とした。
すると――。
「……あ!」
ティルは息を呑んだ。
畑のあぜ道を歩く蟻たちが、白い卵を大急ぎで咥え、普段よりもずっと高い場所にある大木の根元へと列をなして避難していたのだ。
さらに、水路沿いの草の葉の裏には、普段は空高く飛んでいるはずの小さな羽虫たちが、羽を休めてびっしりと身を潜めている。
玄武岩の石垣の表面にも、大気中の湿気が凝結して、びっしりと細かな水滴が滲み出していた。
前世の農業知識でも、それは確実な「大雨の直前兆候」だった。
気圧が急激に低下し、湿度が一気に跳ね上がった時にしか見られない、自然界の生き物たちの防衛行動だ。
さらに、ティルの【大地の主】としての研ぎ澄まされた直感が、南の空の底深くから押し寄せてくる、凄まじい湿気の大波をはっきりと捉えていた。
「……ケロ爺さんの言う通りだ。これは、本当に来るぞ」
ティルの引き締まった声に、仲間たちの表情が一変した。
「ほ、本当ッスか旦那!?」
「ああ。昼過ぎには、この農園が始まって以来の、一番激しい豪雨が来る」
ティルは立ち上がり、畑と仲間たちを見回して指示を飛ばした。
「みんな、大雨への緊急対策を始めるぞ! 畑を守るんだ!」
「「「合点承知ッス(ピョ/ぷる/ですの/ワン)!!」」」
開拓地が、一瞬にして緊迫した作業場へと変貌した。
まず最初に対処すべきは、第二号畝の【カラカラ豆】だ。
満開の花を咲かせている豆のツルは、激しい雨風で根元が揺さぶられれば、根がちぎれて立ち枯れてしまう。
「モグ! 豆の畝の両脇に、しっかり土を盛り上げて根を守る【土寄せ】をしてくれ!」
「任せるッス! 『豪雨対策・高速土寄せシャベル』ッスよ!」
モグが目にも留まらぬ速さで爪を振るい、ふかふかの団粒土を豆の根元へと分厚く寄せていく。
次に、第四号畝の【蜜入り野イチゴ】だ。
昨日芽吹いたばかりの柔らかい本葉は、大粒の雨に直接叩きつけられれば、泥にまみれて腐ってしまう危険があった。
「ベル、竹葦と乾燥させたクローバーの藁を持ってきて! 畝の上に敷き詰めて、雨の直撃を防ぐ【藁マルチ】を作るんだ!」
「心得ましたわ! わたくしの足腰なら、瞬時に運び終えて見せますわ! ……メェ」
ベルが背中のカゴに大量の敷き藁を積み込み、軽快なステップで畑へと運んでいく。
ティルがそれを素早く畝の表面へと敷き詰め、跳ね泥と雨だれから小さな苗たちを守るクッションを整えた。
そして、水路と広場だ。
「ガン親方! ピピ! 水路の水門を調整して、畑への流入量を制限しよう!」
そして、水路と広場だ。
「ガン親方! ピピ!水路の水門を調整して、畑への流入量を制限しよう!」
『うむ! 昨日作った水路の脇に、余分な濁流を直接北の岩山の谷底へ逃がす【バイパス放水路】を急遽切り拓くぞい! ついてまいれ……ガメ!』
ガンが前足の爪を振るい、玄武岩の側溝に緊急用の水門をサクサクと穿っていく。
ピピが上空から水の流れを誘導し、ぷるが石の隙間に滑り込んで防水パッキンとなる。
サンも元気に駆け回り、作業する仲間たちの足元を温かな光で照らし、濡れた土を固めて足場を支えてくれた。
仲間たちの見事な連携プレーを、石の上から眺めていたケロ爺は、黄金色の瞳をパチクリと瞬かせた。
『……ケロ? な、なんじゃこの手際の良さは……。普通の人間の開拓民なら、パニックを起こして右往左往するのが関の山じゃが……全員が阿吽の呼吸で動いておるケロな……』
正午を回り、すべての防災対策が完了した、その時だった。
ゴロゴロゴロッ……!
地を揺るがすような重い雷鳴が、南の空から響き渡った。
見上げると、先ほどまで薄曇りだった空は、いつの間にか陽光を完全に呑み込み、インクを流し込んだような禍々しい黒雲に覆い尽くされていた。
生温かい南風が、一瞬にして冷涼な突風へと変わる。
ポツリ……ポツリ……。
大粒の雨が、乾いた石板テーブルの上に黒い染みを作った。
そして次の瞬間――。
ザァァァァァァァッ……!!
まるで天の底が抜けたかのような、猛烈な大雨が叩きつけるように降り注いできたのだ。
視界が白く霞むほどの豪雨。
だが――ティルたちの畑では、モグの土寄せとベルの敷き藁が雨を受け止め、野菜の苗たちは葉先ひとつ傷つくことなく誇らしげに雨水を吸い上げていた。
新しく開削したバイパス水路からは、溢れかえった雨水がサラサラと安全に谷底へと排出され、畑に泥水が逆流する気配は微塵もなかった。
「……防いだ! 畑は無事だ!」
ティルは完成したばかりの石造り工房の軒下から畑を見渡し、安堵の息を吐き出した。
ふと見ると、水路の石の上で、蓮の笠を差したケロ爺が、激しい雨足に打たれてずぶ濡れになりながら佇んでいた。
雨を告げる役目を終え、冷たい雨水に打たれて小さく身体を縮こまらせている。
ティルは雨の中へと迷わず駆け出し、びしょ濡れのケロ爺の前へと膝をついた。
そして、温かい手ぬぐいを両手で広げ、優しく声をかけた。
「ケロ爺さん! あなたの的確な忠告のおかげで、大切な畑を守り抜くことができました!」
『……ケロ?』
ケロ爺が驚いたように笠を押し上げ、雨に濡れながらティルを見上げた。
「外は体が冷えます。完成したばかりの暖かい石造り工房へ入ってください。温かいスープを沸かしますから、一緒に雨宿りをしましょう!」
『な……!? ワシのような気味の悪い古蛙を……工房に招くというのかケロ……?』
驚きに目を見張る老仙人蛙。
叩きつける豪雨の中、ティルは雨水に濡れた顔で、どこまでも温かな笑顔を向けていた。
***
【後書き】
第31話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
新章突入! 第2段階【初夏・農園の安定】の第4幕、ウェザー・フロッグのケロ爺編【遭遇編】が開幕しました!
初夏の開拓地を襲う、不穏な生温かい南風と急激な湿気!
水路の石組みの上に現れたのは、蓮の笠をかぶった飄々たる老仙人蛙・ケロ爺でした!
ケロ爺の百発百中の雨予報と、蟻や虫たちの微細な兆候を見逃さなかったティル。
モグの土寄せ、ベルの敷き藁マルチ、ガンとピピの放水路によって、見事に集中豪雨から大切な作物を守り抜きました!
そしてラスト、雨に打たれるケロ爺に迷わず差し伸べられたティルの温かい手。
次回、仙人蛙の頑なな心にどのような変化が訪れるのか、どうぞご期待ください!
次回、第32話――「君の名前はケロ爺、雨宿りの温かハーブ茶(仮)」。
豪雨に冷え切った身体を温める、ぽかぽかハーブと熱々の団子汁!
天候を司る仙人との魂の契約をどうぞお楽しみに!
「ケロ爺さん仙人っぽくて可愛い!」「防災対策の手際が良くてスッキリした!」と思っていただけましたら、
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次回もどうぞよろしくお願いいたします!




