第26話:北の巨岩と、頑固職人の亀
初夏の清々しい朝風が、青々と茂る大木の枝葉を心地よく揺らしていた。
東の空から差し込む柔らかな陽光が、開拓地の広場と畑を金色に染め上げていく。
昨夜の大晩餐会の賑やかさが嘘のように、あたりには穏やかで清澄な空気が満ちていた。
だが、その平穏な朝の空気を突き抜けるように、元気いっぱいの足音と鳴き声が広場に響き渡る。
「ご主人様! おはようワン! 今日もいい天気ワン!」
黄金色の仔犬――サンが、短い尻尾を風車のようにブンブンと振りながら、ティルの足元へと飛び込んできた。
昨夜、ティル手作りの名前入り木製ボウルで温かいポタージュを平らげ、家族としての絆を結んだサンシャイン・ドッグの仔犬だ。
サンの全身からは春の陽だまりのような温かい金色の光が零れ落ち、歩く足跡の周りをぽかぽかと温めている。
「おはよう、サン。昨日はぐっすり眠れたかい?」
ティルがしゃがみ込み、サンの温かい頭を撫でてやると、サンは目を細めて喉を鳴らした。
「うん! ご主人様の腕枕、すごくあったかかったワン! 朝のパトロールもばっちりだワン!」
昨夜の大根づくしの晩餐会を経て、五匹の仲間たちの表情には確かな充足感が満ちていた。
第一号畝の【ゴツゴツ土大根】を収穫し終えた黒土は、ぷるの団粒土とベルの堆肥、そしてサンの光で地温が保たれ、ふかふかと息づいている。
第二号畝のカラカラ豆は花を満開に咲かせ、第四号畝の蜜入り野イチゴも青々とした本葉を広げていた。
だが――ティルには、昨夜から胸の奥に引っかかっていることがあった。
(昨夜、深夜に響いたあの地響き……)
北側の暗闇の奥、巨大な玄武岩の岩壁の根元から響いてきた、重く鈍い振動。
そして、風に乗って微かに聞こえた、低くしゃがれた『……ガメ』という唸り声。
ただの落石や風の悪戯ではなかったはずだ。
「旦那、起きてるッスか!」
前掛けを締め直していたティルの元へ、モグが短い前足を忙しなく動かしながら駆け寄ってきた。
「大変ッス! 昨夜の北の岩山、ただの土砂崩れじゃなかったッスよ! 土を伝わる波が、まるで山そのものが寝返りを打ったみたいな重厚な震えだったッス!」
「やっぱり、モグも気づいていたかい?」
「はいッス! 土から伝わる感覚で分かったッス!」
モグが地面に爪を突き立て、緊張した面持ちで北の方角を指差した。
その時、上空から鋭い羽音が響き、瑠璃色の小鳥――ピピが滑空してきた。
ティルの肩に慌ただしく着地すると、青い冠羽を逆立ててくちばしを鳴らす。
「主さん! 大変ピョ! 上空から北の崖下を見張りに行ったら、一大事ピョ!」
「ピピ、何があったんだ?」
「水路の大元……北の岩壁から湧き出してる一番大切な湧き水の出口に、巨大な黒い岩がドカンと居座って、水路を半分以上塞ぎかけてるピョ! このままじゃ水位が下がって、畑に水が届かなくなるピョね!」
「な、なんだって……!?」
ティルは思わず息を呑んだ。
農業において、水の確保は生命線そのものだ。
ピピが掘削した水路のせせらぎがあるからこそ、土は潤い、作物はみずみずしく育つ。
その水源が塞がれたとなれば、開拓地にとって死活問題だった。
「ぷるぅ!? お水が止まっちゃうぷる!? ぷるのプールが干からびちゃうぷるぅ!」
石鉢の中から飛び出したぷるが、半透明の身体を波打たせて慌てふためく。
「カラン、コロン……」
澄んだ銀鈴の音とともに、ベルが専用のクッションから優雅に立ち上がった。
サファイアの瞳をスッと細め、北の山肌を見据える。
「淑女の朝の洗顔用のお水が滞るなど、断じて看過できませんわね。……ふん、下品な落石なら、わたくしの角で粉々に砕いて差し上げますわ。……メェ」
「ぼくも行くワン! 水源を守るワン!」
サンも耳をピンと立て、勇ましく胸を張った。
「よし、みんなで行って状況を確認しよう。道具を持っていくぞ」
ティルは腰にシャベルと手斧、小刀、そして予備の麻ロープを提げ、仲間たちを引き連れて北の玄武岩地帯へと向かった。
開拓地の北側は、緑豊かな畑の広がる南側とはまるで異なる様相を呈している。
天を突くようにそそり立つ黒い玄武岩の断崖絶壁。
何千年も前の火山活動と風雨によって削り出された巨岩が折り重なり、荒涼とした岩肌がどこまでも続いている。
初夏の朝風が岩肌の隙間を吹き抜けるたび、ヒュウヒュウと低く寂しげな風切り音が鳴り響いていた。
崖下沿いに作られた水路を上流へと遡っていくと、岩壁の根元に広がる小さな水源池が見えてきた。
澄んだ地下水がこんこんと湧き出す泉のすぐ上に――確かに、異様な光景が広がっていた。
「……あれか」
ティルは足を止め、目を凝らした。
湧き水が溢れ出る岩の割れ目の真上に、巨大な岩塊がドスンと鎮座していた。
高さは大人の背丈を優に超え、横幅は馬車一台分ほどもある。
表面はゴツゴツとした黒い玄武岩そのもので、長い年月を物語るように灰緑色の苔が張り付いていた。
その巨岩が湧出口を塞ぐように押し寄せているせいで、せせらぎの勢いは目に見えて弱まり、水路の水位が数センチほど低下している。
「うわぁ……本当に大きな岩ッスね……!」
モグが恐る恐る近づき、爪で岩肌をコツコツと叩いた。
「でも旦那、上を見ても崖が新しく崩れた跡なんてどこにもないッス」
「ええ、見てごらんなさいな」
ベルがカランと鈴を鳴らし、岩の裾野を指し示した。
「岩の足元の土に、巨大な何かが這いずったような深い溝が刻まれていますわ。……まるで、この岩そのものが歩いてここまでやってきたかのように。……メェ」
その時だった。
――ズズ……ズズズ……ッ!
突然、足元の岩盤が低く重い地鳴りを立てて震えた。
仲間たちが身を固くした瞬間、目の前にあったはずの「巨岩」が、ぐわりと大きく揺れ動いたのだ。
表面の苔や小石がパラパラと零れ落ち、岩の側面から、丸太のように太く節くれだった四肢がゆっくりと突き出された。
さらに正面の甲羅の隙間から、まるで何百年も風雨に晒された樹木のように硬そうな皮膚を持つ、厳めしい巨大な頭部がヌッと姿を現したのだ。
深く刻まれた無数の皺。
頑固そうにへの字に結ばれた硬いくちばし状の口元。
そして、小さくも底光りする、鋭く濁りのない琥珀色の眼光。
その姿は、紛れもなく――【ロック・トータス】。
岩山と同化し、鉱石や玄武岩を喰らって何百年もの時を生き抜く、誇り高き大地の亀だった。
「うわぁぁぁッ!? 岩が生きてるッス!!」
モグが飛び退いてシャベル爪を構えた。
「ピギャッ!? 巨大なカメの魔物ピョ!!」
ピピがティルの頭上へと逃げ上がり、翼をバタつかせる。
「ぷるぅぅ!? 山が起きたぷるぅ!」
ぷるが長靴の陰へと隠れ、サンが「ウゥゥ……ワンッ!」と低く唸ってティルの前に立ちはだかった。
巨大な亀は、重たそうに首を左右にギシリと回すと、ティルたちをじろりと一瞥した。
そして、まるで古い鉄扉が擦れ合うような、低くしゃがれた不機嫌極まりない声を響かせたのだ。
『……ケッ。朝っぱらから、ピーチクパーチクと騒々しい雛鳥どもじゃわい。ワシの静寂を乱すなと、昨夜あれほど釘を刺したはずじゃろうが……ガメ』
深みのある頑固オヤジそのものの声。
周囲の空気を震わせる重厚な響きに、ティルは努めて穏やかに口を開いた。
「おはようございます。……あなたが、昨夜の地響きの主ですね?」
『主じゃと? そんな肩書きはいらんわい』
ロック・トータスはふんと鼻を鳴らし、前足でドスンと地面を叩いた。
『ワシの名はガン。この北の岩山で、悠々自適に惰眠を貪っておった誇り高き石工職人じゃ。……おい小僧、貴様がこの下の広場で、ちまちまと泥いじりをしておる下民の親玉か……ガメ?』
「農業のことですね。俺はティルです。ここでみんなと畑を耕しています」
ティルは苦笑しながら名乗った。
(職人気質の魔物とは聞いていたけれど、思った以上に頑固で偏屈そうだぞ……)
「ガンさん。そこは俺たちの畑に水を引いている大切な水源なんです。塞がれると作物が枯れてしまうので、少しだけ横に移動していただけないでしょうか?」
ティルが丁寧に頼むと、ガンは呆れたように大きなため息を吐き出した。
『断る……ガメ!』
一刀両断の拒絶だった。
『ワシがなぜ、見ず知らずの小僧の泥遊びのために重い腰を上げねばならんのじゃ? この泉のほとりはひんやりとして、昼寝の寝心地が最高なんじゃよ。ワシはここを新たな安住の寝床と定めた。退く気など毛頭ないわい!』
「な、なんですってぇ……!?」
ピピが怒りのあまり頭の毛を逆立てた。
「アタシたちがどれだけ苦労して水路を引いたと思ってるピョ! それを横取りして昼寝するなんて、とんでもない怠け者ピョ!」
『怠け者じゃと? 小娘が、口を慎まんか!』
ガンはカッと目を吊り上げ、頑固一徹な怒声を張り上げた。
『ワシはこの甲羅一つで、数百年にわたり北の嵐と落石を受け止めてきた誇り高き職人じゃ! ワシの静寂を奪ったのは、昨夜プンプンと甘ったるい煙を撒き散らして大騒ぎしておった貴様らの方じゃろうが……ガメ!』
「甘ったるい煙……あ、大根料理の匂いか」
ティルが呟くと、ガンは気まずそうに目を逸らした。
昨夜、晩餐会の香ばしい匂いと歓声に釣られて目が冴えてしまい、寝返りを打った拍子に崖下へ滑り落ちてきたらしい。
だが、職人としての高すぎるプライドが、素直にそれを認めることを許さないのだ。
「理由はどうあれ、水を止められるのは困るッス!」
モグが前に進み出た。
「旦那が優しく頼んでるのに退かないなら、力づくでどかすッスよ! 『シャベル・アースリフト』ッス!!」
モグが気合いの一声を上げ、ガンの甲羅の底面めがけて両前足を潜り込ませた。
テコの原理で巨体を持ち上げようとする。
ガガガッ……! ズズッ……!
凄まじい摩擦音が響いたが――。
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……ッ!? お、重いッス……! びくともしないッスよ!!」
どれだけ力を込めても、ガンの甲羅は山そのものが根を張っているかのようにピクリとも動かない。
それどころか、重すぎるあまりモグの方が土の中にめり込んでいってしまう。
『フン。爪が折れる前にやめておくことじゃな。痛くも痒くもないわい』
ガンは涼しい顔で欠伸を噛み殺した。
「キーッ! ならアタシの水流で押し流してやるピョ! 『高圧ウォーターカッター』ピョ!」
ピピが鋭い水弾を放つが、玄武岩の甲羅は水を弾き返すだけで傷一つ付かない。
『ふぁぁ……。ちびっ子の水浴びにしては、悪くない水圧じゃな』
ガンは嫌味たっぷりに目を細めた。
「無礼千万な頑固亀ですこと……! わたくしの角でお仕置きが必要ですわ!……メェ」
ベルが巻き角を構えて突進しようとする。
「待った、ベル! 止まって!」
ティルは慌ててベルの前に立ちふさがった。
「あの甲羅に突っ込んだら、ベルの綺麗な角が折れちゃうよ! 無茶しちゃダメだ!」
その時、足元でサンが前に進み出た。
黄金色の毛並みを逆立て、琥珀色の瞳を真っ直ぐにガンへと向ける。
「グルルル……! ご主人様とみんなを困らせるなら、ぼくが許さないワン!」
サンの胸の太陽の核がカッと脈動し、眩い金色の光が解き放たれた。
朝の岩山を照らし出す、純粋で澄み渡った【陽だまりオーラ】だ。
その光を浴びた瞬間――。
『……ぬ、ぬおおっ!?』
今まで傲慢不遜に構えていたガンが、ぎょっとしたように甲羅の中に首を引っ込めかけた。
だが、攻撃魔法のような衝撃波が来ないことに気づくと、恐る恐る首を伸ばし、サンの光をまじまじと見つめた。
『な、なんじゃこの光は……!? 熱くも痛くもない……。それどころか……』
ガンの険しい瞳が微かに揺らいだ。
首元の深い皺がピクピクと震え、四肢の強張りが不意に緩む。
『……あ、温かい……? いや、馬鹿な! このワシが、仔犬の放つ光などに心を動かされるわけが……ぬ、ぬぅぅ……ガメ……』
(……ん?)
ティルは、その一瞬の反応を見逃さなかった。
そして【大地の主】としての感覚を集中させ、ガンの巨体と足元をじっくりと観察した。
(……なるほど。そういうことか)
ティルの中で、すべての辻褄が一本の線で繋がった。
ガンの巨大な甲羅。
その継ぎ目や首の付け根、四肢の関節部分をよく見ると――冷たい北風によって凍てついたように、頑固な泥と岩苔が分厚くこびりつき、硬化していた。
長年にわたり北の崖下で動かずにいたせいで、関節の油が切れ、甲羅が重すぎて自力でスムーズに手足を動かせなくなっているのだ。
さらに、湧き水の冷気が下から容赦なく腹甲を冷やしている。
本当は冷たい泉の底冷えに手足を縮こまらせ、関節の痛みに耐えかねているのに、高すぎる職人のプライドが邪魔をして、「動けない」「助けてくれ」と口に出せないのだ。
(意地を張って『ここを寝床にする』なんて言っているけれど……本当は、落ちてきた衝撃で関節を痛めて、自力で起き上がれなくなっているんじゃないか?)
前世の職場にも、こういう偏屈なベテラン職人のおじいさんがいた。
誰よりも腕が立ち、プライドが高いがゆえに、弱音を吐けずに孤立してしまう不器用な人。
力づくでねじ伏せようとすれば意地になって余計に殻に閉じこもるが、その職人魂と苦しみに寄り添ってあげれば、誰よりも心強い味方になってくれる。
「モグ、ピピ、みんな。武器を引いてくれ」
ティルは静かに仲間たちを制した。
「旦那……? でも、こいつをどかさないと……」
「大丈夫だよ。力づくで争う必要はないんだ」
ティルは道具袋を肩から下ろし、ゆっくりとガンの目の前へと歩み寄った。
そして、その巨大な顔の前に膝をついて視線を合わせた。
『な、なんじゃ小僧……。言っておくが、ワシは情け容赦のない頑固者じゃぞ……ガメ』
ガンは警戒するように目を細め、低い声で唸る。
だが、ティルは穏やかな笑みを崩さなかった。
手袋を外し、温かな素手をそっと差し出す。
「ガンさん。……本当は、手足の関節が痛くて、寒くてたまらないんじゃないですか?」
『……な、ななな……!?』
ガンの喉がひくりと鳴り、目が見開かれた。
『な、何を根拠のない妄言を……! ワシが寒がるなどと、あり得んわい!』
「甲羅の継ぎ目に、何年も前の硬くなった泥と苔が固着しています。それに、この湧き水は真夏でも凍りつくほど冷たい。そんな場所にずっと腹指になっていたら、甲羅の血行が悪くなって、手足が痺れて動かなくなるのは当然ですよ」
ティルはガンの前足の付け根を指先で優しく示した。
そこには、寒冷地特有のヒビ割れと、無理に動かそうとして擦りむけた痛々しい傷跡があった。
「職人として何百年も山を支えてきたあなたの身体です。大切にしてあげなきゃいけません」
ティルは真摯な瞳で、まっすぐにガンを見つめた。
「俺に、その重たい甲羅と痛む関節の手入れをさせてくれませんか? 力づくで追い出したりしません。まずはあなたの身体を温めて、楽にしてあげたいんです」
『き、貴様……! ワシを愚弄する気か……ガメ!』
ガンは顔を真っ赤にして甲羅を震わせた。
だが、その言葉の端々には、長年誰からも向けられたことのない優しさに触れたことによる動揺が滲み出ていた。
『ワシの甲羅に気安く触るでない! 下民の小僧などに手入れされる筋合いはないわい……!』
意地を張り、頑なに首を縮めようとするロック・トータス。
だが、ティルは決して諦めなかった。
「モグ、お湯を沸かす準備をしてくれ! ピピ、柔らかい拭き布を持ってきて!」
「合点承知ッス!」
「すぐ持ってくるピョ!」
「サン、もう少しだけ、その温かい光をガンさんの甲羅に当ててあげてくれるかい?」
「わかったワン! おじいちゃん、ぽかぽかにしてあげるワン!」
サンが元気に駆け寄り、ガンの凍てついた甲羅めがけて、優しい陽だまりの光を注ぎ始めた。
***
頑固な職人亀と、心優しき開拓者たち。
北の冷たい岩山を舞台に、新たな絆を紡ぐための、特別な『手当て』が幕を開けようとしていた。
【後書き】
第26話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
新章突入! 第2段階【初夏・農園の安定】の第3幕、ロック・トータスのガン編【遭遇編】が開幕しました!
北の岩山から突如現れた、超頑固な職人亀のガン!
大切な水源を塞がれて大ピンチの一同でしたが、ティルの観察眼によって「実は寒さと関節痛で動けなくなっていた」という可愛い(?)秘密が明らかに!
力づくで排除するのではなく、相手の痛みとプライドに寄り添うティル。
次回、頑固オヤジ亀の心をどう解きほぐしていくのか、どうぞご期待ください!
次回、
サンの太陽光と温かいお湯、そしてティルの手入れによって、何百年も放置された巨大甲羅がピカピカに!?
魂の契約と、新たな家族の誕生をお楽しみに!
「ガンじいさんツンデレで可愛い!」「ティルの優しさにほっこりした!」と思っていただけましたら、
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次回もどうぞよろしくお願いいたします!




