第10話:ファンタジーの世界
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「抱きしめてくれて、ありがとう。ライブラリ」 「そういうこと、言わないで…」
深々とため息をつくと、ライブラリは元の姿へと戻った。宙に浮かぶひとつの大きな黄金の瞳。その瞳が、どこか疲れたような眼差しで僕を見つめている。
「なんでその姿に戻っちゃうんだよ? 人間の姿の方が、ずっと可愛いと思うのに」
「可愛くなって、どうしろって言うの? 何か意味でもあるわけ?」
……
「なんか、すごく警戒されてるな。じゃあひとつ聞くけど、どうしてさっきは人間になって僕を抱きしめてくれたの?」
「腕がなかったら、抱きしめられないでしょう。それに……図書館で泣くのは禁止なんだから」
図書館で泣くのは禁止? なんだか、今思いつきで作ったようなルールだな。
「そっか、わかったよ……でもさ、あんなに綺麗な姿になる必要はあったの?」
……
……
……
「…その方が、あなたも少しは落ち着くかと思っただけ」
「ほらね! 僕が言いたいのはまさにそれだよ!」
……
……
ライブラリの瞳が、驚いたように揺れた。
「あなたが言いたいこと? どういう意味?」
……
「聞いて、ライブラリ。君が人間の姿になってくれた方が、僕もずっと身が入るし、知識を吸収しやすいんだよ」
……
「本当に?」
「本当だってば」
……
ライブラリには口がないはずなのに、彼女は大きく息を吸い込み、そしてため息をついた。それから、静かに頷いた。
「わかったわ…」
嘘だろ、やった! 僕はあまりの期待に目を輝かせ、落ちそうなくらい開いてその瞬間を待った。
……
……
白く滑らかな肌。一瞬、目が眩むほどの光を放つ。
……
……
上品な手足の指先。爪まで美しく整っている。
……
……
しなやかで魅力的な、すらりと伸びた脚。
……
……
けれど、僕の邪心に満ちた視線は、彼女が羽織った白いローブによって遮られてしまった。 仕方なく、僕は彼女の顔へと視線を上げた。
……
……
長い睫毛に縁取られた、虹色に輝く閉じた瞳。
……
……
整った鼻筋と、美しい輪郭。そして眉のあたりまで視線を上げると——
……
……
色彩豊かな長い髪が波打ち、図書館の隅々にまで広がっていく。
……
僕の良からぬ妄想は、ライブラリの声によって一瞬で打ち砕かれた。
「何なの?」 「待って! もう少しだけ見させて…!」
……
……
その唇……なんだか妖しく濡れていて、すごく艶やかだ……。
……
「うふふ…」
……
僕は彼女の美しさに見とれ、完全に放心していた。だから、彼女が仕掛けてきた攻撃に気づくのが遅れたんだ。
ライブラリは掴んだ本をそのまま僕の顔面へ投げつけてきた。本は僕の鼻柱を直撃する。
「痛っ!? な、なんで急に!? 痛たた…!」
「バカなこと聞いてないで、もっとためになる質問をしなさい」
顔を真っ赤にしたライブラリが腕を組む横で、エリオットは鼻を押さえ、悶絶しながら床を転がり回っていた。
くそっ、痛え……!
「ごめんライブラリ…僕がバカだった。もう二度とそんな目で見たりしないから…」
ライブラリは腕を解き、小さく息を吐いた。エリオットはまだ鼻を押さえながらも、なんとか起き上がる。
「反省したならいいわ。許してあげる」
「あはは…助かったよ…」
……
ライブラリの姿を直視すると、また変な妄想で頭がいっぱいになりそうだった。僕は仕方なく視線を逸らした。
「それじゃあ…質問に戻ってもいいかな?」
「ええ、そのためにここにいるんだから。聞かせて」
ライブラリは、僕が元の世界へ帰る方法については何も知らなかった。 転移魔法で送り返すような術も持っていない。
なら、次は何を聞くべきだ? 彼女自身について、聞いてみるか?
「ライブラリ」
「なぁに?」
「君は、どれくらい前からここにいるの?」
「最後に誰かが私を利用してから、五千年が経っているわ。正確な生存期間は、五千三年よ」
なるほど。つまり僕が、気の遠くなるような時間の中で初めての利用者ってことか…。 でも……どうして?
「どうしてそんなに長い間、誰も君を使わなかったの?」
返事はなかった。 不思議に思って見ると、ライブラリは椅子に座ったまま黙り込んでいる。
「ねえ…大丈夫?」
僕の問いかけは虚空に消えた。ライブラリはただ、静かな表情で僕を見つめている。
「ライブラリ?」
「何かしら」
「なんで僕の質問に答えてくれないの?」
相変わらずつれない態度だ。彼女は何も言わない。
「そっか。話したくないなら、無理にとは言わないよ」
でも、これで分かった。 ライブラリが管理している知識は、五千年前のものなんだ。
もしかしたらこの五千年の間に、外の世界の誰かが異世界への転移技術を発展させているかもしれない。 そう思いたい。
……
他のことを質問しよう。 手っ取り早く強くなって、自分の力で家に帰る方法を探すのも手だ。
「ライブラリ」
「ええ」
「一番早く強くなれる方法って、何かある?」
……
ライブラリが動きを止めた。 今回の本は、さっきまで出てきたものよりも生成に時間がかかっているようだ。
ずっしりと重い音がして、これまでの倍ほどの厚みがある本が僕の手のひらに落ちてきた。 僕は焦る気持ちを抑えながら、目の前でそのページを開く。
「うわ、これ……すごくギッシリ詰まってるな。さっきの質問が難しすぎただけか」
予想通りだった。 手の中の本には、急速に強くなるための方法が大量に記されていた。
それどころか、方法はひとつだけじゃない。数千通りものやり方が載っているみたいだ。
「うん、これならいけそうだ。この文字が読めて本当によかったよ」
僕は勢いよく本を閉じた。
「ライブラリ、この本を持っていってもいい?」
「ええ、どの本でも好きに持ち帰ってかまわないわ」
彼女の言葉を聞いて、僕はいすから立ち上がり、ライブラリに近づいた。
「今日はこれで戻るよ。またね、ライブラリ」
本を抱えながら、もう片方の手を彼女に向かって差し出す。 ライブラリはすぐには動かず、目を丸くして僕を見つめていた。
「ええ……またね」
結局、ライブラリが僕の手を握ることはなかった。 彼女はただ座ったまま、僕が去っていく姿をじっと見送っていた。
「魔法も使えないし……強くもないけど……ここに来れば、必要な知識はいくらでも手に入るんだ」
うつむきながら歩いていると、止まっていた時間が動き出し、静まり返っていた世界が元の呼吸を取り戻していく。
「よし、戻ろう。キルヴァーにこのことを話してみようかな」
だが、図書館の境界線を踏み越えた瞬間——激しい眩暈と、立っていられないほどの脱力感が僕を襲った。崩れ落ちそうになる身体を、かろうじて手すりにしがみついて支える。 けれど抱えていた本を保持できず、そのまま一階の床へと落としてしまった。
「な、なに……これ……何が起きてるの……?」
込み上げてくる吐き気を手で押さえようとしたが、無駄だった。僕は両手で必死に手すりを掴み、吐瀉物をそのまま一階の床へとぶちまけた。汚物は、落ちた本のすぐ隣に広がっていく。
「くそっ……」
力が入らず手すりから手を放すと、僕は自分の腹を抱え込んだ。
「なんなんだよ……これ……図書館を使った副反応か……?」
答えの出ない問いを抱えたまま、僕は片手で手すりを伝い、もう片方の手で腹を押さえながら、引きずるような足取りでゆっくりと一階へ続く階段を降りていった。
下に着くと、僕は走って床に落ちた本のもとへ向かった。本は開きっぱなしのまま、胃液の溜まりのすぐそばに転がっている。
膝をガクガクと震わせながら屈み、震える手指で本を拾い上げた。
通路の真ん中に立ち上がると、ふと違和感を覚えた。周りの部屋から、何の音も聞こえてこないのだ。
……
胸騒ぎを覚えて、一番近くにあったドアのノブを回してみる。
扉の向こうには、ポーションのような液体が入った容器が棚一面に並ぶ広い部屋があった。けれど、そこには誰もいない。
……
まだ決めつけるのは早い。僕は扉を閉め、残る5つの部屋を一つずつ確認して回った。
「みんな……どこ行ったの……?」
首の後ろを手で押さえながら、僕はつぶやいた。
6つある部屋のどこにも、誰もいなかった。
「きっと、外だな」
そうだ。外にいるはずだ。 僕を置いて行ったわけじゃない……よね?
……
数歩進むと、僕の指先にひんやりとした滑らかな黒い鉱石の感触が触れた。街へと戻るための、あのモノリスの表面だ。
胸に本を抱え直して、もう片方の手でモノリスに触れる。 集中して、モノリスを起動させようと試みた。
キルヴァーとの訓練のおかげで、少なくともモノリスを使った転移くらいは一人でできるようになっていた。
……
よし。 モノリスの表面から固さが消えた。いける!
意を決してモノリスへ足を踏み入れる。相変わらず変な感覚だったけれど、自分の力だけで通り抜けたのはこれが初めてだった。
モノリスの反対側へ抜けると、見慣れた木の壁が視界に飛び込んできた。キルヴァーと訓練に出かけるとき、いつも目にしているあの家だ。
「どこにいるんだろ……?」
探すまでもなく、答えはすぐに分かった。 左側の少し離れた場所に、大きな人集りができている。何かを取り囲んでいるようだ。
気になった僕は、その人集りに向かって歩き出した。
……
「エリオット! あなたも気になって見に来たの!?」
群衆に近づくより早く、ライラさんが駆け寄ってきた。雪のように白い瞳を輝かせ、興奮気味に話しかけてくる。
「あ、その本! 図書館から持ってきたの?」
質問に答えようとしたその時、人混みの奥からねずみの叫び声が響いた。
「ライラ! エリオット! 早く来いよ!」
僕が反応する暇もなく、ライラさんに手首を掴まれ、強引に人混みの中へと引きずり込まれた。
それだけでは収まらず、彼女は周囲の人々と肩をぶつけ合いながら、ぐいぐいと押し通っていく。割り込まれた人々からの不満げな小声が聞こえるが、僕たちは構わず前へ前へと進んだ。
ライラさんは僕の手を引いたまま、人集りの一番前まで連れていってくれた。そこでようやく立ち止まる。
「見て! キルヴァーとナナミよ!」
……
やっぱりだ。 二人が見える。どうやら、本気でやり合うつもりらしい。
これまでナナミとキルヴァーが、お互いの問題について真面目に話し合っているところなんて見たことがなかった。
王都で起きたこと。その結果として失われた、多くの仲間や大切な人たちの命。 二人はそのことについて、一度だってまともに触れようとはしなかった。
それなのに、この騒ぎだ。周りを取り囲む野次馬たちが、口々に煽り立てている。
「やれ! やれ! 喧嘩だ! やっちまえ!」
ナナミはキルヴァーの前で威風堂々と構え、キルヴァーはどこか不敵な笑みを浮かべて見下ろしている。
「山の中で戦うってのはどう? 文句ないでしょ!」
「いいね、願ったり叶ったりだ。あっちでお前のケツをひっぱたいてやるよ!」
今のはちょっと格好よかったけど……でも、戦う必要なんてないのに……。
「よし決まり! 山へ行くわよ、ケツをひっぱたかれるのはアンタだからね!」
「言わせておけば……」
群衆が一斉に動き始めた。
気づけば僕は人波の後ろにいて、ライラさん、ねずみ、カイト、ハナ、アルバード、そしてイシャに囲まれていた。
みんな焦る様子もなく、笑い合いながら歩いている。僕は会話に加わっているわけじゃないのに、なんだか輪の中にいるような気がして……少し照れくさくて、でも、すごく心地よかった。
みんなと一緒にこうして歩くのなんて、いつ以来だろう?
思い出せない。
突然、強い差し込むような日差しが目を焼き、僕は思わず目を細めて手で光を遮った。
「どうしたの? エリオット、眩しいの?」
イシャが気づいて声をかけてくる。 その言葉で全員が足を止め、一斉に僕の方を振り返った。
「フード被っちゃえばいいじゃない!」
イシャは僕のフードをサッと引っ張り、頭に被せてくれた。それだけで、突き刺さるような日差しはすっと和らいだ。
「あ、ありがとう……イシャさん」
「気にしないで!」
イシャの言葉に続いて、みんなが一斉に吹き出した。最初はいじられているのかと思ったけれど、そこに悪意なんて欠片もなかった。誰も僕をバカにしてなんかいない。
みんな、笑っている。 純粋に……。
さっきの僕の変な顔が可笑しかったのかな? それとも、フードを被った姿が似合わなかったんだろうか?
……
……
……
みんなの笑顔……。 すごく眩しくて……温かくて……。
守りたいな。 この笑顔を、ずっと失わせたくない。 みんなに、これからもこうして笑っていてほしい。
……
……
……
「あはははは!」
気づけば、僕もみんなと一緒に声をあげて笑っていた。
自分でも胸の奥から込み上げてくるような、本当の笑顔だったと思う。だからこそ、それを見たみんなも、もっと嬉しそうな顔をしてくれたんだ。
……
……
……
なんだかんだ言っても。 僕は今、ファンタジーの世界にいるんだから。
……
……
群衆はそのまま歩みを進め、二人の決戦の舞台となる場所へと向かっていった。
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