Episode 5 : 境界
「……どこ行く気だ」
それはとても低い声だった。強く腕を掴まれたヴェインはようやく我に返る。目の前にはゼファーの顔。鋭い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
そこで初めて、ヴェインは自分がどこへ向かおうとしていたのか気づく。
森…歌の聞こえる方に、まるで呼ばれるみたいに。
ヴェインの背筋へ冷たいものが走った。
「……ごめん」
掠れた声が漏れる。
ゼファーはすぐには手を離さなかった。その指先には僅かに力が入っている。
「聞こえてたのか」
静かな問いだった。
ヴェインは少し迷ってから頷く。
「……近かったんだ、歌が」
その言葉にゼファーの表情がさらに険しくなる。青黒い瞳の奥に、隠しきれない焦りが滲んでいた。
けれど怒鳴らない。
責めもしない。
ただ低く言った。
「一人で動くな」
「……うん」
短い返事。その声は少しだけ弱かった。
外ではまだ村人達が歩いている。虚ろな目と感情のない顔で、月明かりの中を森へ向かってゆっくり進んでいく。そして皆、小さく歌っていた。
♪ 〜〜〜〜〜
その歌を聞いた瞬間、ヴェインの胸がざわつく。
寒い
苦しい
寂しい
まるで誰かが泣いているみたいだった。
小さく眉を寄せるヴェイン。
ゼファーがそれを見る。
「また何か分かるのか」
ヴェインは目を伏せた。
「……森の奥。夜禍がいる。…たくさん」
自分でも、 どうして分かるのか分からない。
でも感じる。夜の中に滲む気配、感情、悲鳴のようなものを。
ゼファーは数秒黙り込み、静かに剣へ手を掛けた。
「行くぞ」
二人は村人達の後を追い、森に入っていった。
___森
白い霧が漂い、木々の隙間からは白い月光が落ちていた。とても静かだった。静かすぎる。聞こえるのは、 村人達の足音と歌だけ。
♪ 〜〜〜〜〜
ヴェインは歩きながら小さく息を呑む。流れ込んでくる感情に、ヴェインは無意識に胸元を押さえた。
「……寂しい」
ぽつりと零れた声に、ゼファーが振り返る。
「ヴェイン」
…………!
その声で少しだけ意識が戻る。
ヴェインは苦しげに目を伏せた。
「違う……俺じゃない。たぶん、夜禍の……」
言葉が途切れる。
頭が痛い…耳鳴りがする。
その時、森の奥で影が揺れた。
黒い獣のような歪な身体に赤い瞳。
夜禍だ。
一匹じゃない。木々の奥から次々と現れる。
その数、十、二十。それ以上か…。
普通なら、すぐ襲いかかってくるはずだった。
けれど、夜禍達はヴェインを見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
……
無数の赤い瞳だけが、ヴェインに向けられている。
ヴェインの呼吸が止まる。
どうして…
胸の奥で、どくりと何かが脈打った。目の前の夜禍達が“何か”を感じ取っている。それが分かった。
ゼファーがヴェインを庇うように前へ出た。
「下がれ」
その低い声に、夜禍達が一斉に動いた。
黒い影が飛びかかる。
ゼファーの剣が閃き、黒い霧が散った。次々と夜禍を斬り裂いていく。その目を見張るような素早さと鋭い剣筋は、これまでゼファーが積み重ねてきたものだった。
しかし、数が多すぎる。四方から迫る影を、一人で捌き切るには限界があった。
ヴェインも影を操り夜禍を拘束するが、攻撃しようとした瞬間に流れ込んでくる感情。
苦しい
寂しい
助けて
その一瞬の躊躇。
ゼファーが別の夜禍を斬った隙を突き、一匹がヴェインへと迫る。
ヴェインの反応が遅れた……
そのとき、
鈴の音のような澄んだ音が響き渡った。辺りを包む白い光に夜禍の動きが止まり、黒い身体がゆっくり崩れていった。
けれどそれは、他の夜禍みたいな黒い霧じゃなかった。淡い白い粒子…まるで月光のよう、光の粒になって静かに消えていく。
ヴェインは目を見開く。
ゼファーも周囲を見回した。
「……誰だ」
返事はない。白い霧だけが静かに揺れていた。
残った夜禍達は、低く唸りながら後退していき、やがて影は森の奥へ消え、歌も少しずつ遠ざかっていった。
静寂。風だけが木々を揺らしていた。
その場に膝をつくヴェイン。その様子は酷く疲れているようだった。
夜禍の感情がまだ胸の奥に残っている。
ゼファーが近づく。
「立てるか」
ヴェインは小さく頷いた。
__帰り道。
二人の間に会話はなかった。月だけが、静かに夜空へ浮かんでいる。
いよいよ森を抜けようかという時。
ヴェインがふと足を止める。
霧の向こうに白い影が動いた。一匹の、白い…狐。長い白銀の毛並みが、風もないのに静かに揺れている。その姿は、夜の中へ落ちた月光のように見えた。
白狐は逃げない。
ただ静かにヴェインを見つめている。
その瞳は、まるで月を閉じ込めた水面みたいに淡く月光を映していた。
胸の奥が微かに痛む気がした。懐かしい…なのに、思い出せない。そんな思いを胸に、ヴェインは無意識に足を止めて白狐を見つめ返していた。
隣で、ゼファーが僅かに目を細める。
「……狐?」
その声が落ちた瞬間、ふわりと霧が揺れた。
次の瞬間には白狐の姿は消えていた。
静かな夜だけが残る。
ヴェインはしばらくその場へ立ち尽くし、やがて小さく目を伏せた。
冷たい夜風が二人の間を静かに吹き抜けていった。
___宿へ戻った頃、空が少し白み始めていた。
東の空に淡い朝焼けが滲んでいる。
村は静かだった。あれほど歩いていた村人達も、いつの間にか家へ戻っている。何事もなかったみたいに。
宿の扉を開けると、眠そうな店主が顔を上げた。
「……お、おお。 無事だったか」
ゼファーは短く頷く。
「夜禍は散った、休む」
それだけ言って二階へ向かう。
ヴェインも後へ続いた。
部屋へ戻ると、ようやく張り詰めていた空気が緩む。
ヴェインはベッドへ腰を下ろした。酷く疲れていたのだ。身体じゃなく、胸の奥が…夜禍の感情がまだ消えてくれない。
寒い
寂しい
助けて
耳の奥で小さな声が残響みたいに響いていた。
ヴェインは俯いたまま静かに目を閉じる。
すると不意に白狐の瞳が脳裏を過った。
淡い光
静かな視線
どこか泣きそうな色。
胸の奥がまた少し痛んだ。
すると、机へ寄り掛かっていた ゼファーが口を開く。
「……お前」
「!」
ヴェインが顔を上げる。
ゼファーは窓の外を見たまま低く言った。
「最近、無理してるだろ」
「………」
図星だった。けれど、うまく言葉にできない。
自分でも何が起きているのか分からないから。
「別に」
小さく返す。
ゼファーがゆっくりこちらを見る。青黒い瞳が、真っ直ぐヴェインを捉えていた。
「嘘下手だな」
ヴェインは苦笑する。
「……ゼファーにだけは言われたくない」
「俺は隠す気がない」
「そう?」
少しだけ、 いつもの空気が戻る。
けれどその会話もすぐ静かに消えた。
_窓の外では、朝の光が少しずつ広がっていく。
ヴェインは小さく息を吐いた。
「……俺さ」
ぽつりと声が落ちる。
「夜禍の声が分かるんだ」
ゼファーは黙って聞いている。
「苦しいとか、寂しいとか、そういうのが流れ込んでくる」
ヴェインは自分の手を見る。その手は僅かに震えていた。
「前はこんなの無かった。最近になって、急に……」
そこで言葉が止まる。怖かった。この先、自分がどうなるのか。
しばらく黙っていたゼファーが静かに口を開いた。
「……お前は、お前だ」
ぶっきらぼうな声で紡がれた短い言葉。けれどそれは妙に優しく、真っ直ぐ届いた。
「…………」
ヴェインは目を瞬く。
ゼファーは視線を逸らし、面倒そうに続けた。
「仮に月喰いになろうが何だろうが、急に別人になるわけじゃねぇ。だから今は、勝手に全部背負い込むな」
とても不器用な言葉だったが、 ヴェインには十分だった。胸の奥の冷たさが少しだけ和らぐ。
ヴェインは小さく笑う。
「……ありがと」
ゼファーは鼻を鳴らした。
「気持ち悪い」
「ひど」
そんなやり取りのあと短い静寂が落ちる。
その時だった。窓の外、向かいの屋根の上を白い影が横切った。
ヴェインが顔を上げた。一瞬だけ、見えた。朝焼けの中で静かに立つ白狐の姿。淡い瞳がこちらを見ていた気がした。
けれど次の瞬間には、 もう消えていた。
ヴェインはしばらく外を見つめ、小さく目を細める。
胸の奥に、不思議な感覚だけが残っていた。
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ちょこっとキャラクター(?)紹介3
【白狐】
2人の前に現れた不思議な狐。雪のように白い毛並みを持ち、月明かりの下では淡く輝いて見える。その姿はどこか神秘的な雰囲気を帯びる。ただ静かに見つめ、気づけば姿を消している。




