俺と鎧武者と渡辺さんの、恋と部活とハッピーエンド。(下)
そうして、それから、どうなったか。
武士は消えた。
文字通り消えた。
弓道場から俺たちがわらわらと逃げ出した後、そこは一時無人になった。顧問も部員も俺も渡辺さんもとっとと逃げだし、倒れた武士がひとりきり。
その後、呼ばれた警察の人たちが、現場へ駆けつけてみると、武士の姿はなかった。
しょんべん垂れ木下がやっちまった跡は確かに残っていたし、弓矢が散乱していたが、武士の死体があるわけでもなく、血の一滴もそこには残されていなかった。
誰一人、怪我はしなかった。通りすがりに武士に払いのけられた教師たちも、ぶっとばされてビビッただけで、特に怪我らしい怪我はなかった。
傷ついたのは、弓道部部長、しょんべん垂れ木下の名誉だけで、それは大多数の人間にとって、傷のうちにも入らないような、ザマァなことだった。
かくして事件は闇から闇へ葬られることとなった。
警察には校長が平謝りに謝り、これは集団ヒステリーだろうということになった。
なにしろ学校内の監視カメラには、武士は映っていなかったのだ。俺たちは何だか分からない鎧武者の亡霊を見たということになった。
もしそうでなければ、これはちょっと大変な話だった。正当防衛と言えるだろうが、弓道部の生徒が弓矢で人を射たということでもあり、それはちょっと、学校にとっては、ややこしい話だった。
無いなら無いほうがいい。うやむやなほうがいい。
校長はそう思ったようだった。
そして、渡辺さんは俺に恋をした。
鎧武者をやっつけた時の俺が、すごく格好良かったと言って。
優秀な先輩たちが、ビビッて立ちすくむ中、俺だけが鎧武者に矢を射かけ、渡辺さんを救った。それが幻覚だったのか、怪奇現象だったのかは分からないけど、とにかく俺が格好良かったことだけは、本当だものということで。
渡辺さんは事件の後すぐに、頬をバラ色に染めて、ありがとうと小さな声で俺に言い、その翌日、改めて正式にお礼をといって、俺を高校の中庭の片隅に呼び出してお礼を言い、そしてまたその翌日、何の用事も無いのに、俺を呼び出してしまい、もじもじしていた。
渡辺さんは俺のためにお弁当を作ってきてくれていた。鶏つくねハンバーグがすごく美味かった。渡辺さんて料理も上手なんだなと思った。
でも俺は二人で仲良くお弁当をつつきながら、上の空だった。
ほんとだったら舞い上がるくらい嬉しいことのはずなのに、でも、嬉しくなかった。
それでも俺は毎日、学校には行った。土曜日には弓道部の自主練習にも参加した。そこでも渡辺さんは、俺と会うと嬉しそうに微笑み、隣の的で黙って弓を引いた。
俺の弓は相変わらず大して上手くはなく、時々控え目にさりげなく、渡辺さんがアドバイスをくれた。練習をすれば上手くなるかもしれなかった。
でも、もう俺には、弓を練習する動機がない。
渡辺さん目当てで弓道部に入ったんだ。それが本音だ。彼女が落とせれば、弓なんかどうでもいい。
ただずっと気になるのは、あの武士がどこへ消えたのかということだ。
あれは本当に幽霊とか、そういうものだったのか。よくある学校の怪談か。
たまたまそれがキッカケで、ラブラブになっただけで、俺は特に悩みもせず、渡辺さんを我が物とすれば良かったのか。
高嶺の花と思ってた渡辺さんが、毎日俺にお弁当を作ってきてくれる。食べ終わるといつも、伏し目がちに微笑んで、明日もまた作ってくるねと、渡辺さんは言った。その震える睫とか、お弁当の包みを仕舞う白い手は、手を伸ばせば触れるところにいつもあった。
でも、それを思うといつも何かが俺の前に立ちはだかった。
やあやあ我こそは○○○○○、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。
あの鎧武者だ。
俺って本当にこのまま渡辺さんとラブラブでいいの。ハッピーエンドでいいの。あの武士は今頃どこにいて、どうなったの。俺はこのままでいいのか。
このままで、いいわけないよなと、狙っても当たらない的の隅に、辛うじてて引っかかっている自分の射た矢を見ながら、俺はある日決心した。
いざ尋常に勝負。
俺は昼を待たずに、二時間目の終わる休み時間、渡辺さんをいつもの中庭に呼び出して、なにもかも曝露した。
あれは茶番だった件。コンビニで遭遇した武士が、芝居を打とうと計画して、渡辺さんが俺を好きになるよう、大暴れして俺にやっつけられた。俺にもあいつが芝居してんのか、それとも本気で暴れてるのか分からず、必死顔だっただろうけど、でもそういう背景がとにかくあった件。それから、あの時の矢は、俺が狙ったところとは全然違うところに当たっていた件。
たまたま大当たりだったけど、それは俺にとってはラッキーじゃなかった。後悔してる。本物だか亡霊だかわかんないけど、俺はあいつを殺しちゃったかな。
渡辺さんは、あの時の俺が格好良かったって言うけど、実はそういうことなんだよ。
別に全然格好よくないよね。
もしも俺があの時あの場に、なんの事情もわからずに居て、そこへ武士が乱入してきてたら、俺だってしょんべん垂れてたかもしれないよ。
木下先輩、あれから全然、部活に来ないけど、大丈夫かな。
俺、渡辺さんにも怖い思いをさせて、木下先輩にも恥をかかせちゃって、顧問の先生にも迷惑かけたし、皆にも迷惑かけて、あの武士にも……悪いことしたよな。
毎日、渡辺さんにお弁当作ってきてもらう資格なんかないよ。
俺がそう言うと、渡辺さんは、少しの間、ぽかんとして、それからじわっと泣いた。
大きな目に、大粒の涙が光って、渡辺さんは慌てたみたいに、制服のポケットから出した、苺の模様のあるハンカチで、涙を拭った。
ぽたぽたと暫く泣いてから、渡辺さんは困ったように言った。
「私が、熊谷君のこと、好きじゃだめかな……」
薄赤くなった鼻をすすって、渡辺さんはうつむいていた。いい天気の日だった。木漏れ日が彼女の上で踊った。
「ダメって事はないよ。嬉しいよ。でも、渡辺さんが好きなのって、実在してない俺じゃない?」
「そんなこと、言われても……困るよ。だって、毎日、熊谷君とここでお弁当食べてて、いろいろ話したり、すごく楽しい。一緒にいるだけで、すごく楽しいの。今の話だって、黙ってれば分からないのに、ちゃんと話してくれて……熊谷君て、いい人なんだなって。それしか思えない」
そう言って、渡辺さんはおいおい泣いて、三時間目の始業のチャイムが鳴っても、まだ泣いていて、俺たちは次の授業をやむをえずぶっちした。そういう意識もなかった。
「私がずっと、熊谷君のこと、好きじゃだめかな」
ぽろぽろ泣きながら、渡辺さんは俺に訊ねた。
ふられるんだと思ったのかな。
俺はぶんぶん首を振った。
「いや、そういうことじゃなくて。俺、やっぱちゃんと言わなくちゃと思って」
俺はそこで最高に格好悪く、もじもじ噛みながら冷や汗を1リットルくらい垂らし、しどろもどろに告白した。
「渡辺さん、中学ん時からずっと好きでした。いっしょの高校行きたくて、ここ受験しました。俺と付き合ってください」
やっとのことで俺が言い終わるのを待って、渡辺さんは頷いた。
「うん。ありがとう。私もそうしたいです」
というわけで。
よかった。よかった。
俺と渡辺さんは付き合うことになった。昼休みに中庭で手作りのお弁当を食べ、部活では並んで弓を引き、一緒に下校して、時々デートもする。そんなごく普通の仲むつまじい高校生カップルだ。
それでハッピーエンド、と言いたいところだが。
で、結局、あの武士はどうなったのか。死んだのか消えたのか。ものすごく気になる。俺は気になった。気になって気になってしょうがなかった。
いったい、あいつは、なんだったんだ?
という、そんな俺の疑問は、渡辺さんがあっさりと解決してくれた。
武士の名前だ。あえて公表はしないが、それはとても有名な武士の名前だ。渡辺さんも、その武士のことは知っていた。なぜならうちの高校の中庭に、その武士の銅像が建っているからだ。
と言っても、大してデカい像ではない。昔々、ずっと昔の先輩たちが、資金を出し合って建立したという、昔このへん一帯を守り治めていた武士の像らしい。
なんでそんなものの像を卒業生が金を出し合って建てたのかというと。
それはもちろん、「出る」からだろう。その武士が。
渡辺さんに教えられて、俺は初めてその像の存在を知り、慌てて行ってみた。
等身大の6分の1サイズくらいの銅像は、見覚えのある馬に乗っていて、鎧を着た胸と背中に、矢が当たったような跡が残っていた。
渡辺さんは、恐る恐るのように、その傷跡を指先でさわさわして、静かな声で言った。
「ありがとう、武士さん。びっくりして怖かったけど、今は幸せです」
銅像に話すというのは変なもんだが、俺は一応、念のため、春奈姫とうまくいったこと、矢を射たけど殺すつもりはなかったこと、下手くそでスマンということ、感謝してること、それから、渡辺さんに何もかも話したということを、ぶつぶつと報告した。
それで銅像の武士が動き出したということは、特に無かった。
動くわけがない。銅像だからな。
まあ……その時は。
実際、動いたらしいのは、俺と渡辺さんが例のコンビニで、下校途中にガリガリ君ソーダ味を買い、仲良く一個を分け分けして食っていた時だった。
「やあやあ我こそは○○○○○、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」
例の大音声がした。
俺と渡辺さんは激しくピクッとした。
あいつだ! 生きていたんだ! いや、死んでいるのか!? もともと死んでいるんだよな!?
でも無事だったんだ。よかった! 俺だよ、○○○○○、やっとまた会えた!
と、駆け寄っていこうと振り向いた俺が見たものは。
真っ赤な鎧を着た武士に、ガッツンガッツン襲われている、新入生男子の姿だった。
まさに一年前の俺を見るようだ。
どうにも冴えねえ、平々凡々の一年坊主が、なんの成り行きか、うっかり恋バナを告らされている。それを武士は大真面目に聞く。そして拉致る。今からお前の恋を実らせてやるといって。
余計なお世話だ。
……余計なお世話か?
それはどうかな。
俺は少なくとも、それでとてもハッピーになりました。
「あれって、私たちの高校の、恋の守り神なのかな?」
ガリガリ君を食べながら歩き、渡辺さんは俺に訊ねた。
「だったらもっと恋の守り神っぽい見た目にしろっつの」
俺がつっこむと、渡辺さんは笑った。そして俺と腕を組んだ。
ちなみにもう、俺は渡辺さんを渡辺さんとは呼んでない。
「春奈」
特に用事はないけど、そう呼ぶと、渡辺さんは、なあに、と微笑んで俺を見た。
すごくすごく幸せだった。
だからこれでハッピーエンドだ。
寄り添って歩く幸せ絶頂の俺たちの背後で、親切な鎧武者に連れ去られる気の毒で幸運な青少年の悲鳴が、どこまでもどこまでも響き渡っていた。
【了】
最後までお読み下さり、ありがとうございました。