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第1話 入学の朝

 時間に目をやると、まだだいぶ早い。


 なにしろ、父が夜通し車を走らせてくれて、ここまで来たのだから。


 朝の光は何ものにも遮られることなく降り注ぎ、壁に貼られた紙の上の、びっしりと並んだ名前を照らし出す。紙面がぎらりと反射するほどに。


 私は遠く離れた場所から、その様子を眺めていた。


 目の前では大勢の生徒が掲示板の前にひしめき合って、貼り出された紙の中に、自分の場所を探している。


 この学校の新学年の入学試験の結果が出て、いま掲示されているのは、その試験後のクラス分けの一覧だ。


 自分では、なかなか良い出来だったと思っている。


 母に急かされるまま、二月から春休みの間、ろくに休むこともなく、入学前の試験に向けてずっと準備を続けてきた。


 私はただ静かに待っていた。


 ほかの子たちのように先を急いで人を押しのけるようなことは、しなかった。


 前に立つ人々が、少しずつ散っていくのを待つ。


 それから前に進んで、自分のクラス分けの結果を確かめる。


 あまり後ろのクラスになりませんように――そう願いながら。


 Aクラスまでは望まない。Bクラスに入れれば悪くない、くらいの気持ちだった。


 Aクラスの中に自分の名前は見つからなかった。


 表情はまだ真剣なまま保てていたと思う。ただ、口の端が知らず知らずのうちに、少しだけ強く結ばれていたくらいだ。


 緊張したときに出る、私の小さな癖だ。


 育った街を離れて、海に近いこの見知らぬ街に来たのは、これが初めてだった。


 学校の空気は、慣れない湿気を含んでいた。


 廊下の突き当たりから風が吹き込んで、私の後れ毛をなびかせる。


 潮の香りと塩気を乗せて。


 その感覚はなんと言えばいいのだろう。


 この湿度、まるで顔全体に濡れタオルを押し当てられているみたいで、どうしても慣れない。


 もしかしたら、慣れないのは空気の湿気だけじゃないのかもしれない。


 人と人との距離も、そうなのかもしれない。


 でも、そんなことはいったん脇に置こう。


 いまは人が少なくなって、それほど混んでもいない。


 私は注意をもう一度、掲示板へと引き戻した。


 とはいえ。


 それとも、ほっとしたのか、それとも緊張がいくらか深まったのか。


 自分でも、よく分からない。


 ほんのわずかな手抜きでも、私は平均値より下へ滑り落ちてしまうかもしれない。


 いや、正確に言えば、その重みはずっとそこにあったのだ。


 ただ、いまは環境がそれを拡大しているということだろう。


 結果、私はBクラスに振り分けられた。


 群を抜いてというほどではないが、なかなか良いクラスだった。


 クラスの情報は、名前の末尾に印字されている。


 その後ろの情報を確かめる。私の名前に間違いはない。


 クラスの番号にも、間違いはない。


 スマホを取り出して掲示板全体を撮影してから、私はようやく、まばらになっていく人混みから抜け出した。


 案内表示に沿って、一年B組の教室へと歩いていく。


 右側の窓から陽射しが差し込み、明るい色の木の床に金色の帯を広げていた。


 教室は広々としている。


 出席番号を頼りに自分の席を見つけた。中央よりやや前の席だ。


 私の名前に割り当てられた出席番号は、そういう場所を指していた。


 小学校でも中学校でも、いつもこんなふうに席を当てがわれていた。


 ただ、しばらくして席替えがあるたび、別の場所へ移されて、それからまた固定されるのだった。


 生徒がだいたい集まって、全員そろったと報告するクラスが出てくると、私たちは校内の体育館へ移動して、入学式に参加した。


 手順をこなしていく間は退屈で、見たいものもなければ、話したいこともない。何もかもが、時間の流れに沿って整然と進んでいった。


 しかし、ふとした瞬間、私は一つの知らせを耳にした。


「一年B組、出席番号八番の生徒、入学式に出席せず」


 え?


 入学初日に、しかも入学式を理由もなく欠席するというのは、どう考えても由々しき事態だ。


 私は横を見回した。空席がひとつある。


 ひとつ隣の九番の席には、すでに別の生徒が座っている。


 このときはまだ式の開始を待っているところで、その時間は長くて、退屈だった。


 だが突然、隣の椅子に物音がしたのに気づく。


 伏せていた顔を上げてみると、隣の椅子に、ついに誰かが腰を下ろしていた。


 深い紫の髪の女の子だった。どこか物静かで、沈黙をまとうような印象だ。


 ただ、気後れした雰囲気は、まったくない。


 なんだか、ずいぶん変わった人だという感じだった。


 彼女は集合と点呼を欠席したけれど、幸い、式には間に合ったようだ。


 最悪の結果とまでは言えない。あとで先生に、なぜ遅れたのかを説明しておけば済む話だ。


 ただ、彼女の雰囲気や性格を観察するかぎりでは、その口を開くのはなかなか難しそうだった。


 ひょっとしたら、小さなリスみたいに、するりと逃げていくかもしれない。


 それでも、避けて通れない説明は、結局そこに残っている。


 どのみち、先生には悪い印象を残すことに変わりはないのだ。


 入学式が終わって、教室に戻ってきた。


 一緒に戻ってきたのは、同じ高校に合格した緒白可尔(カール)だ。


 彼女とは同じ中学の出身で、縁あって同じクラスになった。


 そのまま、新学期初めてのホームルームへ。担任は若い女性だった。


 担任は黒板に「羽立凛伊」と記した。担当科目は地理だ。


 地理といっても、世界地理と地誌、人文地理と自然地理――そのどれもが含まれている。


 しかも、そのすべてが私の得意分野だった。


「これからの日々、どうぞよろしくお願いします」


 羽立先生はそう言って、順番に自己紹介を始めるよう促した。


 すぐに私の番が回ってきた。


「初めまして、雨宮奈緒理といいます。よろしくお願いします」


 それだけ言って、私は席に着いた。


 こんなふうに自己紹介をそそくさと切り上げて、正直、けっこうまずい気がする。


 羽立先生はうなずいて、次の人への合図を送った。


 私の後ろの席の子が立ち上がった。


 その子は、今朝の入学式に遅れてきたあの子だった。


「椎名月夜です」それだけ言って、彼女は座った。


 自己紹介はごく短く、名前を名乗っただけだ。


 あとは、何ひとつ付け加えなかった。


 先生は眉をひそめたが、何も言わずに、次の子を促した。


 十数人の自己紹介を聞き終えたところで、今度は可尔の番になった。


 けれど、可尔の自己紹介は実に整っていて、実に完璧だった。


 ホームルームが終わる。今日の昼休みは、この学校の学期初めだけの特別な、超長時間のフリータイムなのだそうだ。


 なんでこう、しんどいんだろう。新学期早々、つまずいてしまった。


 私はしけた顔で机に突っ伏した。すると突然、後ろの席の子が立ち上がり、足早に教室を出ていく気配がした。


 悩み!


 悩み!悩み以外に、今のこの気持ちを言い表す言葉が、私には見つからない。


「あの、雨宮さんだよね?」斜め前の席の子が、私に声をかけてきた。


 そのあとも続けざまに二人が声をかけてきて、可尔もこちらへ歩いてきて、私の隣に立った。


 私は苦笑いを浮かべながら応じることしかできない。


 みんなの気持ちを冷まさないように、精いっぱいの笑顔で。


 かすかに身をかがめて、声は高くない。


「雨宮奈緒理です。よろしくお願いします」


 さっきの自己紹介と同じ言葉を繰り返して、彼女たちに挨拶する。


 それでも今の私は、きちんとした子のふりをして、自分のいちばん良い面を見せなければならない。


 この十六年間、私はずっとそう教えられてきた。


 彼女たちは、私についていろいろなことを聞いてくる。


 空気中に漂う匂いが、鼻先に届く。


 新しい教室のインクの匂い。


 窓の外から流れ込んでくる、芝刈りのあとに残る草の香り。


 その匂いが混ざり合って、見知らぬ、でも生き生きとしたものになる。


「あ、雨宮でいいよ」


 私は笑顔を作って、声の調子をなるべく軽やかに。明るい口調で話す準備をする。


 自分から名前の呼び方を差し出すことで、会話の流れを導く。


「なんだか特別すぎる」という驚きを、もっと日常的で、もっと安全な親しみへと置き換える。


「私は奈葉友紀だよ。雨宮さん、よろしくね!」隣の席の子がそう言った。


 友達になりたい、ということだろう。当然のことだし、歓迎もしている。


「時原舞衣だよ、雨宮さん」


「どうも、どうも」私も彼女に笑いかける。


 私はこっそり、ほっと息をついた。


 顔には笑みを保ったまま、適切なタイミングでうなずき、「うん」と相槌を打った。完璧と呼べる初対面の社交が、これで完成した。


 でも、心の奥で、小さな声が問いかけていた。


 それで?


 彼女たちが席に戻ったあと、記憶に残るのは「雨宮奈緒理」という人間なのか、それとも「あの顔のきれいな新入生」なのか。


 ……分からない。


 正直に言えば、自分が何が好きで、何が嫌いなのかも、よく分かっていない。


 幼い頃から、成績も素行も優れていなければならないと求められ続けてきた私は、いつも用意された道を、人形みたいに、決まった歩幅で歩いてきた。


 ピアノ、お絵かき、立ち居振る舞い、礼儀作法――私の幼少期は、一枚枚の予定表と、何部もの評価レポートで組み上げられていた。


 母は毎年年初に、私のために「年間成長計画」を作ってくれた。


 毎月達成すべき段階的な目標まで、細かく書き込まれていた。


 そして私は、順序どおりに一つひとつの目標を達成して、まわりのみんなの称賛を集めてきた。


 でも、「学びたい?」「楽しい?」と聞かれたことは、一度もなかった。そういうことは、私にとって重要ではない、ということらしい。


 友達はたくさんいるのかもしれない。


 あるいは、いないのかもしれない。


 私のまわりにいる人たちは、いったい「雨宮奈緒理」という人間が好きで寄ってくるのか、それとも、憧れるに値する優等生だからなのか。


 けれど、この学校には、私より優れた人がまだまだたくさんいる。


 元の中学では上位の優等生だった。それがこの学校では、Bクラスに振り分けられただけだ。


 そんな考えが、ときどき深夜に浮かぶ。


 でも、すぐに翌日の忙しさにかき消されてしまう。


 私はずっと、充実していた。


 あちらでは誰かに誘われて遊びに出かけ、こちらでは塾へ通う。


 スマホには何十件もの未読メッセージがたまり、毎日のように新しい予定の通知が画面で点滅する。


 たまに誘われて、映画館にも出かける。


 けれどそれは課題に近いものだった。


 見えないチェック欄に、ひとつ印をつけるようなもの。私の生活は、ぎっしり詰め込まれた予定表そのものだった。


 あるいは、私はずっと、空虚だったのかもしれない。


 私の生活は、こうして私にとっては空っぽのままの日々の中を過ぎていった。


 いや。


「空っぽ」


 という言葉は、実は正確じゃない。


 外から見れば、私の生活は成果と栄光に満ちている。


 ――あの日まで。


 あの日まで……何が?


 自分に聞いてみる。


 あの日まで、あの扉を押し開けた日まで?


 けれど、いま問いかけてみても、「あの日まで」の後に続く言葉は、やっぱり見つからない。


 あの日まで、あの扉を押し開けた日までなのか?


 心の中で、そう自分に問いかけてみる。


 でも、よく考えてみると、何かが訪れるのに特別な準備なんて要らないこともある。


 ほんとうはただ、扉がひとつ押し開けられただけ。それだけの、ごく小さな出来事なのだ。

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