↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/5

第5話 定休日のお客さん

朝の七時から店の床を掃いている。

定休日の店はやけに静かで、箒の音がよく響くし、壁の時計がそれぞれ違う秒を刻んでいるのが勝手に耳に入ってくる。

聞かないようにすると余計に聞こえるやつだ。

ガラスを拭く。作業机の布はそのまま。妹の靴は玄関になくて、昼ごはんは置かないことにした。置くかどうかで五分悩んだのは今は関係ない。

九時四十分でやることが尽きてしまった。

やることが尽きた人間はろくでもないことを考えるもので、僕は時任が来たら最初に何を言うかを三つ考えて「いらっしゃいませ」は客じゃないから違う「どうぞ」は偉そうだから違う「へえ」は何も言ってないのと同じだから禁止、と全部自分で却下して、結局どうしようか。

九時五十分、半開きのシャッターの隙間からそっと外を覗く。

いる。

向かいの肉屋の前に時任がいる。両手にコロッケを一個ずつ持って、口の端にパン粉をつけて、しかもショーウィンドウに映る自分を一回確認してから齧る。なんなら顔の角度まで微調整している。なんだその一連の動作は。

「針谷くん覗き方が下手です。靴が出てます」

こっちを見ずに言う。靴。そこまで頭が回らなかった。

時任は右手の一個をかじって飲み込んでから、用意していた原稿を読むみたいに喋り始める。

「あのね、コロッケって揚がって三分以内が全部なの。三分過ぎたら衣が湿気を吸い始めて、そしたらもうコロッケじゃなくて、コロッケだったものになるの。だからお店の前で食べるのが食べ物に対する一番の礼儀で、早く着いたのも時間つぶしじゃなくて礼儀。あと鏡みたいなガラスがあったから、可愛く食べられてるかは確認したけど、それも礼儀。作ってくれた人に見られて恥ずかしくない食べ方をするのって、えっと、敬意?」

「前半は一応わかる。揚げたてがうまいのは本当だし。でも後半の鏡のくだりは礼儀じゃなくて自分が可愛く見られたいだけで、それを礼儀って言い張るのは嘘っていうより言い換えの技術だと思う」

「言い換えは嘘じゃないです」

「そこ堂々と言うんだ」

堂々と言うな。しかも一部は正しい気がするから余計に質が悪い。

「あらあおくん」

肉屋のおばさんがこっちに気づく。見つかった。

「あおくんがお友達連れてくるなんて明日は雪かしら」

「雪ですか」

時任が真顔で空を見上げる。いや降らないから。

「あおくんって呼ばれてるだ」

「やめて」

「あのね聞いてね。あだ名っていうのはその人との関係値を推し量る一つの目安みたいなものなの。誰かがあいつのことを下の名前で呼び捨てで呼んでただの、そういうので外堀を埋めていけるの。わかる?だから私もあおくんって…」

「無理です。まず他人に関係値を知らせる意味も理由もわからないです。俺はその人を呼びたいように呼ぶのが名前だと思ってます」

「ならあお…」

こいつは何を言っても通じそうにない。通じないどころか、今「俺」って言ったのを聞き逃していない目をしているので、嫌な予感しかしない。

おばさんが笑いながら僕の手にもコロッケを押しつけてくる。熱い。断る隙がない。この商店街は断る隙を作らない人間でできている。

九時五十九分、時任がコロッケの紙を丁寧に畳んでポケットにしまい、シャッターの前でぴたりと止まる。口の中で何か数えているらしく唇が動いていて、僕は内側で息を潜めて、いやなんで僕が潜めてるんだ自分の家なのに、と思いながら、それでも潜めている。

「ごめんください」

「……はい」

「十時です」

「見ればわかる」

「どの時計でですか」

言われて壁を見る。九時五十七分、十時四分、十時十一分、九時五十三分。見てもわからなかった。

「……入って」

「お邪魔します」

時任が敷居をまたいで、玄関でしゃがんで自分の靴を揃える。揃えたあとで僕の靴にも視線がいって、手が一瞬だけ出かけて、引っ込む。

「あの、針谷くんの靴も揃えていいですか。他人のものは許可をもらってからじゃないと触れないので」

「いいけど」

「ありがとうございます。揃ってないの気持ち悪くて」

許可は取るのに理由は正直に失礼なのが、なんというか順番がおかしい。靴を揃え終わった時任は、手を後ろで組んで店の中を見回す。壁、棚、天井から吊った振り子、ショーケース。口が少し開いている。

「五十二個」

「は?」

「時計です。入った瞬間に数えました」

入った瞬間に数えるな。しかも合っているのが腹立たしい。正確には五十三で、ドアの裏の鳩時計だけが数に入っていないだけだ。

「五十三個」

「え」

「ドアの裏」

時任が振り返る。扉の影に隠れていた小さな鳩時計と目が合って、というか鳩の扉の部分と目が合って、そのまま固まる。

「止まってる」

「うん。鳩が出てこない」

「かわいい」

「そこ?」

「あのね、出てこない鳩って、約束の時間に鳴かないってことでしょ?普通なら許せないの、遅刻と同じだから。でもこの子は止まってるだけで遅れてるわけじゃないじゃん。止まってる時計って、遅刻してるんじゃなくて最初から参加してないだけだから、怒る対象じゃないの。だから許せる。だから可愛い。ていうか可愛いは正義だから、もう許可とかいらないの」

「……屁理屈のほうの理屈だと思う」

「理屈は理屈です」

理屈は理屈ではない。ないけど反論の材料がなくて、そのこと自体が癪で、とりあえず目を逸らす。

時任はそのまま壁の前をゆっくり歩いて、一周して、止まって、腕を後ろで組んだまま、まるで美術館の客みたいな背中でぽつりと言う。

「ここ、悪い人間が住んだら最強の家ですよね」

「……何が」

「だって待ち合わせに遅れても、うちの時計はこうだったって言い張れるじゃないですか。五十三通りの言い訳が壁にあるんですよ。私はやらないですけど、私は遅刻しないので。でも自分以外の人間が遅刻したとき用に、この壁の存在は覚えておこうと思いました」

「覚えなくていい」

「もう覚えました」

なんでそんな物騒な使い方を思いつくんだ。時計に五十三通りの言い訳を見るやつを初めて見た。

時任が柱時計の前で立ち止まって、「これは」と聞く。聞かれたら答えるしかなくて、答えは長い。

「これは……えっと、うちで一番古い柱時計で、ぜんまいが二本あって、一本が時を打つ用でもう一本が歩かせる用で、だから巻くのも二回で、片方だけ忘れるとただの置物になるか、鳴るだけの置物になるかで、で、じいちゃんが昔これを分解したことがあって、朝までずっと戻ってこなくて、小学生の俺……僕は玄関でずっと待ってて、そしたら朝になって戻ってきたじいちゃんが直ったって言うんだけど全然直ってなくて、あのときの顔が妙に嬉しそうで、あと文字盤の四だけ……ごめん、長い」

また俺が出た。今日二回目だ。自分で気づいて、気づいたことに気づいて、そこで口を閉じる。

時任は黙って僕を見ている。

「謝らなくていいです。針谷くん、時計の話になると文章になるんですね。教室だと声がほぼ『ん』なんですよ。先週数えたら一週間で四十一回でした。今日だけで文章がもう二十は聞けたので、得です」

「数えてたの」

「席が近いので聞こえるだけです。数えたのは自分の意思です」

そこは認めるのか。

「続きは?文字盤の四」

「……もういい」

「七割くらい面白かったので続けてください」

「残り三割は」

「気持ち悪いです」

「ひど」

「でも気持ち悪いのと面白いは両立するので」

両立させるな。

時任は笑いながら袖を少しまくって、自分の腕時計に目を落とす。

「ちなみにこれは三分進めてあります」

三分。僕は一瞬だけ付箋の文字を思い出して、でも聞かない。聞いたら会話になるし、会話になったらたぶん、今日の僕はそこまで体力がない。

昼を過ぎたあたりで、時任の腹が鳴る。

「……」

「コロッケ二個食べたよね」

時任が背筋を伸ばして、ゆっくりこっちを向く。顔は平然としているのに、耳だけがほんの少し赤い。

「あのね、友達の家に行ってお昼が出るのは義務じゃなくて、相手の時間をもらった対価の利息だと思うの。私が針谷くんの時間を二時間もらってるでしょ?だから普通はお昼が出て、プラスでお茶が出て、そこでやっと貸し借りがゼロになるの。出ないなら出ないで私に貸しがつくから、次に来るときに私が針谷くんにお返しすればいいわけで、だから出なくても私は全然困らないの。むしろ出ないほうが、次来る理由ができる。……って今気づいた」

「それ、出さないほうが得ってことになるけど」

「そう。でもお腹はすいてるから出してほしい」

「どっちなんだよ」

「理屈と空腹は別の部署なので」

別の部署ってなんだ。台所にあった食パンにジャムを塗って出す。パンを見た時任の目がやけに真剣で、その真剣さが妙に腹立たしくて、でも一口食べた瞬間に顔が緩むのを見たら、まあいいかとなる。何がいいのかは自分でもわからない。

丸椅子を出してやる。祖父の椅子は出さない。あれは僕が決めた。

気づけば一時を回っている。

「そろそろ帰ります」

「そう」

時任が立ち上がって、丸椅子を元の位置にきっちり戻してから、こっちに向き直って息を吸う。

「長居しました。ここに来てから数えると三時間二十分で、針谷くんの時間を三時間二十分もらいました。もらったものには利息をつけて返すのが筋なので、次は私の時間を針谷くんにあげます。三時間二十分より少し多めに。時計の話を聞いてもいいし、黙って横にいてもいいし、好きに使ってください。あ、可愛いのは勝手についてくるので追加料金はなしです」

「……それ、次も来るってこと」

「そうです」

「請求されてる気がする」

「利息は取りません。サービスです」

玄関で靴を履いたあと、時任は振り返って、わざとらしく首をかしげる。

「今日の私、可愛かったと思いますか」

「……ノーコメント」

「ノーコメントは肯定として記録します」

「記録するな」

時任が帰ったあと、シャッターを下ろして店をぐるっと回る。止まっている時計を数える。昨日と同じ四つ、のはずなのに、数え終わるのにいつもよりだいぶ時間がかかった。鳩時計の前で一回立ち止まったからだ。止まってる時計は遅刻じゃない、と言い切った人間のことを思い出していたせいだ。

それは時計と関係ない。関係ないことにする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。