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【n=0】
1999年(平成11年)
7月31日(土曜日)、8時12分
八尾姫神社、境内
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胸が痛くて張り裂けそうだった。
呼吸が身体に追いつかない。心臓はまるで癇癪を起こした子どものように暴れ回っている。
それでも俺は足を止めなかった。
ただひたすらに朝日に灼けた石段を駆けあがり、その勢いのまま鳥居をくぐり抜ける。
……本当は、一礼するなどのマナーがあるらしい。
鳥居をくぐる時の話だ。アイツは俺にそう教えてくれた。
あの晩。二人で行った〝瑞古還シ〟の祭りの夜。着慣れぬ浴衣が気恥ずかしいのか、いつもより殊更ぶっきらぼうになり、そっぽを向いたまま「……こうやるんだよ」と呟き軽くお辞儀をしたアイツの姿。小麦色の頬に、ほんのりと赤みが差したあの瞬間。
あれからまだ二週間と経っちゃいない。その冷酷な事実に俺は驚きを禁じ得なかった。
何もかもが眩しく楽しかったあの日々が、たった二週間前のことなのかと。
この地獄のように苦しく焦燥した日々が、まだたったの二週間も経っていないのかと。
……すべてのはじまりは瑞古還シの夜だった。
あの夜から、何もかもが変わってしまった。
一人ずつ、一人ずつ、静かに……そして確実に、消えていった。
あれだけ姦しく生意気だったシズクが失踪したのは十日前のことだ。
いつもお高くとまっていたレイコが姿をくらましてからは一週間、一緒になってバカばかりやってたアツシがいなくなってからは五日が経つ。
そして三日前。
とうとうアイツが――ミコトまでもが、行方知れずとなってしまった。
俺にはただの一言も語らぬまま。何かに酷く怯えたまま。
【俺】
「ハァ、ハァ……ッ!」
噴きだす汗を押し戻すようにして胸を抑えつける。
八尾姫神社、本殿。俺はそこで足を止めた。負荷のかかり続けていた肺と心臓が、大きな余韻を引き摺ったまま、ここぞとばかりに平常への回帰を試みる。
ミコトからは常々「クマ濃すぎ」と評されていた俺の目が、地面から本殿へ、そして屋根の少し下あたりで止まる。
そこには八本の直線が少しずつ角度を変え、重なり合った紋様が刻まれていた。
聞いた話では、社紋というヤツらしい。
この神社に伝わるそれは、アスタリスクの線を過剰に増やしたかのようなデザインだった。
【俺】
(何かがあったんだ……! ここで……あの日、瑞古還シの夜……!)
そうとしか思えない。それ以外に考えようがない。
あの夜、一緒に祭りに行った俺とミコトは、途中でアツシたち三人と合流した。
だがその後、色々あって俺は一人になり、アイツらと再び顔を合わせたのがこの場所だ。
そして、その時にはもう、
【俺】
(明らかに様子がおかしかった……! 怯えていたんだ、何かに……!)
ここ二週間足らずで幾度となく反芻したことである。すでに警察にも伝えていた。
だが、進展は何もない。
未だに、誰一人として見つかっていない。
【俺】
「……クソッ!」
わかっている。自分でも理解はできている。
ここに来たからとて、何も事態は好転しないと。
いなくなった者が、戻って来るはずないのだと。
だがそれでも、今の俺にはもはや他に寄る辺がない。
ここを起点に、石にかじりついてでも考え続けるしかないのだ。
アイツらの行方を――
【俺】
(なんだ……⁉)
その時、俺は突如として何者かの気配を感じ取った。
冷たい空気、とでもいうのだろうか。
この暑い真夏の朝に、背中から氷水を浴びせられたような……そんな、悪寒。
【???】
『おね……がい……』
どこだ……? どこにいる……⁉
俺は四方八方をグルグルと見回す。
二度、三度。四度、五度。六度、七度。
何度も何度も、眩暈がしそうなほどにグルグルと辺りを見回す。
にもかかわらず声の主を捉えることはできない。
【???】
『たす……けて……』
だが聞こえる。
声だけが聞こえる。たしかに聞こえる。
どこにも姿は見当たらないのに。
何者かの、声が。
【???】
『と……めて……あの、ひとを……』
自分でもどうしてそんなことをしたのかわからない。
ほとんど本能的な反応だったと思う。
気づけば俺は、視線を上げていた。
八尾姫神社の本殿、社紋、そして……空。
木々の緑と白い雲で切り取られた、夏の青空。
【俺】
「な――⁉」
少女はそこにいた。
空を背にして、宙を泳いでいた。
……少女?
この言葉を使うにはいくつかの疑問符がついて回る。
まず初めに、とっつきやすい点をあげるなら……〝幼女〟だろう。
〝少女〟というより〝幼女〟だろう。どう見ても一〇歳かそこら、もしかしたらそれ以下かもしれない。
これは、いい。別にいい。宙に浮いているという異常はあるが、それでもまだどうにか飲みこめる。
だがここからが駄目だった。頭が理解を放棄しかけていた。
幼女の足。二本の足。
それらが……ない。
別のモノに置き換わっている。
【俺】
「に、人魚……?」
残念ながら俺のイマイチな日本語では、下半身が魚の相手にそれ以外の言葉を見つけるのは不可能だった。
だがしかし、ただの人魚ではない。
よく見れば幼女の魚の半身は、八つの尾からなっている。
【俺】
「八尾の……人魚」
〝八尾姫〟
それこそは、この神社に……否、この島に伝わる古の化生。
そんな者がまさしく今、俺の眼前に現れ出ていたのだ。
【人魚】
『おねがい、たすけて……』
ボロボロと、ボロボロと。
【人魚】
『とめて、あのひとを……』
大粒の涙を流しながら――
【俺】
「な⁉」
次の瞬間、俺の身体は、意識は、白い閃光に包まれた。




