第二話
薄暗い部屋の一室。
足の踏み場もないほどゴミが散乱する汚い部屋に一人の男がいた。
部屋の中であるのに黒色のローブを頭から被っている為に表情は覗えない。
ただローブ下から覗く口元から、十代後半から二十代と察せられた。
男は眼前に水晶玉を置き、それを食い入るように見詰めながら、
「天使……天使……ああ、愛しい天使……」
と不気味に呟いている。
その水晶玉にはアニーが映し出されていた。
ステージ衣装に身を包んだアニーは、準備室で一人口を動かしていた。
アニーを常に見詰め続けている殺人鬼は知っている。アニーはステージに立つ前に必ず声帯を調整する時間を設けていることを。
その声は届かないが、その姿を見ただけで、男の――殺人鬼の脳内にありありと天使の歌声が再現されていた。
「ああ……歌声が聞こえなくともいい……その姿が見られるのなら、声を想像しただけで、天使の歌声が聞こえるよ……守らないと……僕がこの天上の調べを守らないと……ん?」
そうして食い入るように見詰めていると、アニーに変化があった。
誰か準備室に来たのか、動きを止めた。
すると準備室にアデリナと、その後ろに控える少年少女が入って来た。
「……こいつらは、誰だ?」
アニーの周辺は四六時中、常に監視している。
少年も少女も新顔だった。
アデリナが後ろに控えていた二人を紹介する。
その時、殺人鬼は音が出来るほど奥歯を噛み締めた。
一瞬アニーが呆けたような顔になり――次には少年に満面の笑顔を向けたからだ。
天使が男にあんな溢れんばかりの笑顔を――
殺人鬼は水晶玉を鷲掴みにすると激しい嫉妬に怒り狂った。
「何だこいつは――何だこいつは――何だこいつは――何だこいつは――何だこいつは――何だこいつは――何だこいつは――ああああああ!!!」
確かに満面の笑顔である。
だが察しの良い人物であれば、アニーの目つきや声色、雰囲気から、それはあくまで愛想笑いの域を出ておらず、恋慕の類ではないと気が付いたであろう。
だが、狂人になり果てた殺人鬼は、アニーが異性に愛想をよくする、たったそれだけで怒りを爆発させ殺意を決意する、まさに末期の心身状態にあった。
水晶を持ち上げ、力の限り床に叩き付ける。
ごんっという鈍い音が部屋に鳴り響く。
それでも怒りの収まらない殺人鬼は、周りに散乱するゴミを蹴り上げ、掴み投げ、机をひっくり返し暴れる。
時間にすれば短いが盛大に暴れた殺人鬼は、ふぅーふぅーと獣のように荒い息を吐き、足元に転がる水晶玉を睨み付けた。
そこには楽しげに会話をするアニーと少年が映っている。
「殺さないと……天使を汚す者は誰であっても殺さないと……殺さないと……殺さないと……殺さないと……殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺――」
殺人鬼は血が出るほど拳を握り締め、手前勝手な増悪を募らせた。
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アニー・クワイトにとってアデリナは生涯の恩人であり母と呼べる存在である。
薄汚い自分を拾い上げ、豊かな衣食住を与え、大好きな歌がより上手になるよう高名な音楽講師の元に通わせ、何くれと面倒を見て、惜しみない愛情を注いでくれる。
アニーの母親は貧しいながら愛情を注いでくれる優しい人だったが6才の頃に亡くなり、10才の頃に蒸発した父親はお世辞にも良い人とは呼べなかった。そうして幼いころに途絶えた愛情と豊かな環境を与えてくれるアデリナは、まさに生涯の恩人と言えた。
だからこそ強く思うのだ。
歌をもっともっと練習して上手くなって世界一の歌姫になってみせる。
そしてこの店をより繁盛させて世界一の店にする。
そうすればアデリナは大金持ち。
一生お金に困らず微笑んで生きていける。
それがアニーの決意、恩返しの方法だった。
ところがその計画が大いに狂い始めた。
三か月ほど前に現れた殺人鬼の存在である。
このはた迷惑なストーカーは度が過ぎていた。
アニーに少し過激にお触りをした、若しくは手を出そうとした相手を問答無用で殺す、ヤバすぎるキチガイである。
お蔭で店どころか街まで客足が遠のいた。
事件の発端となったアデリナの店の評判はガタ落ち、すべてが解決したとしても風評被害で客足が元に戻るには長い時間がかかるのが大いに予想され、とんでもない損害である。
店の損害となると当然、そこで働く従業員にも降りかかってくる。
殺人鬼騒動から二か月が経つ頃には街の雰囲気と流れ出る噂から客足が壊滅的に減ってしまい、それに伴って必要最低限の人員で店を回すこととなり、その様は高級クラブとは程遠いお寒い状況であった。
そしてプライベートでも大きな損害があった。
店の裏手にある寮で生活をしているアニーなのだが、仕事以外の外出は完全禁止の軟禁状態にあった。
休みの日の外出を何よりも楽しみしていたアニーからすればストレスが溜まること甚だしく殺人鬼の行き過ぎた過保護は迷惑以外何物でもなかった。
チチとケツを触られたり、レイプされ掛かったくらい、何だというのだ。
ここは暗黒街。その程度は日常茶飯事で、レイプされる前に上手く察知して躱すか逃げ出せなかった女の方が悪いのだ。
アニーも生粋の暗黒街生まれだ。世間一般から見ると中々に過激な思考を持ち合わせている。だがそれを承知でアデリナはアニーを天真爛漫と評した。
その理由は、アニーはもし貞操が汚されても一通り泣いたあと『あははー。野良犬に噛まれたと思ってヤケ酒だー!』と笑い飛ばして前に進む底抜けの明るさとタフさがあったからだ。
何があっても覚悟完了、恩返しの前に膜を失った程度何するものぞ。
そんなアニーだからこそ、殺人鬼のやっているお節介は迷惑千万、最大級の頭痛の種であった。
そうして殺人鬼騒動から三か月と少し経ったある日のことだった。
アニーにとって念願の、解決のきっけがやってきたのだ。
時刻は21時頃。クラブ・マイドレドの開店一時間前、この時間帯はアニーにとって喉の調子を整える大事な時間だ。歌姫用の準備室にこもり声帯の調整をしていると、そこにノック音が響いた。
「私よ。入ってもよろしい?」
アデリナはアニーが喉をどれだけ大切にしているか重々承知している。その為この時間帯に声を掛けることは殆どなかったのに珍しいな、と思いながら、
「あ、はーい! どうぞ入ってください!」
と元気に答えた。
そうしてアデリナが入室し、それに続いて少し年上と思われる少年と少女が入って来た。
「アニー、今日から一緒に働く仲間よ」
それを聞いて、まず少女の方に目を向け――
とんでもない美少女がいた。
艶やかでしっとりとした黒髪、整った顔立ち、美しい立ち姿。
一目で最高級だろうと想像できる上質な絹製の空色のドレスに身を包んでいたが、それを着こなす気品が少女にはあった。
アニーに語彙力があれば、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、などと表現したことだろう。
うちの店で働く姉さんたちは美人揃い、中でも指名件数上位五人ともなると誰もが恐ろしいほど綺麗なのだが、それに引けを取らない存在感を放つ美少女である。
内心『ほぇ~』と感嘆を上げた。
そして今度は少年を見て――
こちらは内心、『ほぇ?』と思わず首を傾げた。
煌びやかな金髪。幼さが残るが精悍で端正な顔立ち。怠惰とは無縁の、スタッフの制服上からもわかる鍛え上げられた筋肉。鉄棒を飲み込んだかのように屹立する男らしい立ち姿。
ただのウエイターの制服姿であるにも関わらず、素材が良すぎて華があり……つまり世の女性の多くがため息交じりに秋波を送る、完璧な細マッチョのイケメンがそこに立っていた。
アニーはそれを見て思った。
うちでウェイターやるより、ホストやった方が絶対儲かるだろうに……と。
それにあまりに顔の良いスタッフは割とトラブルの元だったりもする。
一番多くて被害が大きいのが、男にその気がなかったとしても嬢が一方的に入れ込んでしまうことだ。そうなるともうスタッフを解雇しただけでは解決しない場合がほとんどで、嬢も辞めてしまうのが常である。
とまあ、ただでさえ店の経営状態も最悪なのに、なんでまた新人を、それもこんな逸材を……とアデリナに疑問の目を向けたところで、方眉を小さく上げた。
アデリナが非常にイイ笑顔――悪だくみをする時の顔をしていたのだ。
そして口パクで、『なかよく』と指示を出す始末。
これはつまり、この二人が店の窮状を何とかする人たち、ってこと?
地頭の良いアニーはそう理解し、満面の笑顔を浮かべた。
そして強く思った。
後で詳しく事情を教えてもらうからね! と。
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桜花が大男を伊達にした後。
クラブ・マイドレドにやって来たナッシュは現在、店主が使用する準備室の前で待機していた。
そして準備室には、アデリナと桜花が籠っていた。
この子に合った最高の衣装を! 化粧を施さなければ!
そう息巻いたアデリナは、桜花の着せ替えショーに全力を出したのだ。
準備室に入ってから2時間。
そして時刻は20時に差し掛かろうとしていた頃に、ドアが開いた。
「お待たせ」
そこには上機嫌のアデリナと、精根尽き果てた桜花がいた。
時間を掛けただけあって桜花の仕上がりは完璧と言えた。
長い黒髪を繊細に編み込みハーフアップにし、若さを損なわない化粧を施し、柑橘系の爽やか香りをほんのり漂わせ、上質な光沢の空色のドレスを着込み、肩や胸元を披露した桜花はまさに妖精、可憐そのものであった。
普段は気にもしなかった、左目の下にある泣き黒子が映えて見える。
年がら年中胴着に袴一択の女を捨てている桜花が、アデリナの手に掛かればここまで変貌するのか、と素直に脱帽、感嘆である。
そりゃ素材はいいのだからプロの手に掛かれば変わるだろうが……あの桜花も人の子、女の子だったのだな――と感慨深い。
だがその顔には多大な疲労感がありありと浮かんでいて、体力お化けの桜花がここまで疲れ果てるとはよほど大変だったのだろうな、と察せられた。
「あ~、桜花。まぁ、あれだ。これも仕事のうちってことで。お疲れさま」
「ええ……はい……よもや己の身を飾り立てることがこれほど大変とは。予想だにしませんでした」
げっそりと覇気なく答える桜花を見て、ナッシュは内心で『南無三』と合掌した。
アデリナはそんな桜花を見て、
「そんなことじゃあ駄目よ桜花。貴方はもううちの店のキャストなのよ? うちは街を代表する高級クラブ。その店の嬢が中途半端な格好なんて格が下がるわ」
と、もっともな台詞を言った。
もっともなのだが……それを聞いたナッシュは呆れ顔になり、
「うん、姐さんの言う通りなんだけどな。でもそれは建前。本音は、新しい玩具で遊べて大満足じゃないのか?」
と言った。
それもその筈。
桜花を見詰めるアデリナの表情は恍惚に染まっていたからだ。
ナッシュの言など、
「例えそうであったとしても、建前が立つなら何ら問題ないわ」
と、どこ吹く風である。
「いやいやいや、ホステスは組織の目を逸らす仮初めだから。怪しまれない為にも格式うんぬんで本格的な格好は大事だろうが、本命本丸は歌姫の護衛だろ。姉さんの遊びに付き合わされて護衛人が疲労困憊なのはどうよ。それが原因で万が一護衛対象に何かあったら目も当てられないぜ」
もっともな反論をされアデリナは「むっ」と口を噤む。
だがそこで桜花が口を挟んできた。
「待ってください。ナッシュ」
「うん?」
「ホステスは仮初であり本命は護衛、確かにその通りです。ですが組織と殺人鬼双方に警戒されない為に仮初めが非常に重要なのも事実です」
「うん、まぁそうだな」
「であれば仮初めの姿は完璧であればあるほど良い」
「うん? いや、ものには加減というものがあって「聞いてください」お、おう」
「ですので、元を正せば服を着慣れず醜態を晒した私に問題があります」
「うん??」
「生まれてこのかた着てきた服装は胴着に袴のみ。装身具も興味なし。香水をつけたのも化粧を施したのもこれが人生初です」
「ふむ」
「世にいう女らしい嗜みなどまったくもってしてこなかったガサツさが仇となりました。今回これほど疲労を覚えたのも私に女性としての嗜み――つまり女子力が圧倒的に足りていなかったからです」
「なるほど?」
「これはいけません。もし私の女子力が高ければ、着付けをしてもらった20着を超えるドレス程度など何するものぞ、と平然としていたでしょう」
「いや、20着も着替えたら誰だって疲れ「黙ってください」お、おう」
「ですがそれでは駄目なのです。今日明日でこの事件が解決する保証はどこにもありません。むしろ長期に及ぶ可能性もある。となれば、一々この程度で疲労を覚えては話になりません。私は可及的速やかにこれらの服飾に慣れなければならないのです」
「そうか……頑張れ」
「はい、頑張ります。でも安心してくださいナッシュ。やはり何事も実戦に勝るものなし。これだけの数を着付けしてもらえば流石に戸惑いは消えつつあります。もう何度か経験を積めば完璧です。もうこのような醜態を晒すことは――」
「あ~……待った待った。一端ストップ。大事なことを言わなくちゃならないんだが」
「なくなる――? 何ですか?」
「桜花~うしろうしろ」
桜花は訝しながら背後を振り向き――そこに満面の笑みをたたえたアデリナがいた。
「え、あの、アデリナ。何がそんなに嬉しいのですか?」
「ん? ああ、それはね」
アデリナはねっとりと桜花を見詰めて言葉を続けた。
「桜花って所作は美しいけど、化粧もまるでやり方を知らなかったから、ファッションにまるっきり興味のない子かなと思っていたけど。まさか何もかもすべてが初体験だったなんて――それが嬉しくって」
「は、はぁ」
「真っ白のキャンパスを自分色に染める。それは男だけの特権ではないわ。女だって楽しくて仕方ない行為なのよ?」
「……そうなんですか」
「そうなのよ。それに女としての嗜み――女子力と言っていたわね? 中々面白い表現だわ。その女子力を高める意欲が桜花には豊富にあるのだから、私が全力で支援して桜花を私色に染めても何ら問題ないってことでしょう?」
「えっ?」
「私が懇意にしているブティックに沢山行きましょう。大丈夫。私が全てコーディネイトしてあげるから。あ、もちろん掛かったお金は全部私持ちだから安心してね」
「えっ? えっ?」
「それと身嗜みは服や化粧や香水だけじゃないわよ? なぁにあの下着。胸に布を巻くなんて異文化の作法とはいえあり得ないわ。せっかく綺麗な胸をしているのに型崩れしちゃうじゃない。それにあのショーツも駄目。まったくもって駄目よ。安物なのは別にいいわ。人には経済力というものがあるのだから。でもね、あの色気もへったくれもないババ臭いショーツはないわ。安い高い以前の問題よ」
「ま、待ってください。私の本来の役目は護衛です。ガワさえ整えば問題ないのであって、服の下に隠れた下着は関係な「黙らっしゃい」はい……」
「貴方の着ている服装を考えなさい。そのドレス見合った肌着を着るのは常識以前の当たり前のことでしょうに」
「いえ、でも、私は身体運用に掛けては一流を自負しています。荒事ならいざ知らず、普通に立ち振る舞うのならこの程度、下着を見せるような愚挙は「いいから聞きなさい」はい……」
「いいこと? うち店はおさわり禁止、目に余れば問答無用で会員はく奪よ。でも遊び慣れた男は出禁にならない程度に上手くさわってくるわよ? 出禁の判断基準は店主である私とキャストの心情次第だけど、うちの店を贔屓にしてくれる常連は本当に出禁ギリギリの見極めが上手いの。もし不覚を取って下着が覗いたとき、そのババ臭いショーツを見た客はどうなると思う?」
「ですから、そのような事態は起こらな「どうなると思う?」えっと……ドン引く?」
「その通り。一気に興ざめよ。まぁ不覚は取らなくても不慮の事態はあるかも知れない。そうならない為にも、こういう店で働く女は服の下も飾り立てて初めて身嗜みが整うの。桜花、貴方の腕っぷしと立ち振る舞いに関しては口を挟む余地はないけど、キャストとして見れば完全に失格よ」
「か、完全に失格……」
「正直言ってそんな見識ではとてもではないけど客の前に出せないわ。それはつまりうちの歌姫――アニーと同じフロアには立てないということよ」
「それは困ります!」
「そうでしょう? であるならば、やはり女子力を高めるしかないわ。私に全てを任せなさい。ロハで女子力を格段に高められるチャンスなのよ? 桜花からしたらメリットしかないじゃない」
「確かに、そうですね」
「それにこれは桜花のメリットだけに収まる話じゃないわ」
「といいますと?」
「アニーは外出するのが何よりも好きな子なの。でも一連の騒ぎで軟禁状態。いい加減ストレスが溜まって限界に近いわ。そこでアニーも一緒にブティックに連れて行って二人が親交を深めれば、アニーはストレス発散になる、桜花は年の近い女の子の感性を学べる、周りからは友達同士と思われて例え四六時中一緒にいても護衛と疑われない、そして私は楽しい。どう? 誰もが幸せになれる完璧な計画じゃない?」
「なるほど――! 納得しました」
「だから、桜花。私についてきなさい」
「はい!」
何この茶番。
結局自分が一番楽しみたくて捻り出した作戦じゃねえか。それに桜花よ。それについて行ったが最後、アデリナに食い尽されるぞ。今とは比較にならない身体的、精神的疲労にズタボロになるぞ。誓ってもいい。
そうナッシュは内心で呆れたが口には出さなかった。
だって口に出したが最後、ボロカスに口撃されるのが目に見えている。
男は口では女に勝てない。
いつだって変わらない世界の真理だ。




