最終話 星空の下で
それからしばらく道場で話し込んだ後、誠司たちは部屋に戻って来た。
「ごめんね。みんなお酒入ってたから、捉まっちゃったね」
「いいのよ。おかげで伝説の裏が取れたし」
楓はそれだけで嬉しそうだった。
「勇磨、大丈夫か?」
「いや、そっとしといてくれ」
あれから勇磨は相当弄られたらしかった。ちょっと可愛そうなくらい落ち込んでいる姿を目にして、流石に誠司も心配そうにしていた。
そしてひかりはと言うと……。
楓は何やら様子のおかしくなったひかりの横顔を、じっと観察していた。
わかりにくいが、なんだか微妙に怒ってるような雰囲気がある。
「どうしたのひかり?」
楓は様子のおかしいひかりに声をかけてみた。
「えっ。何でもないよ」
「なに? ひょっとして拗ねてるの?」
楓の言葉は図星だった。
ひかりは誠司が女性専用クラスで手取り足取り教えている姿を思い描いて、やるせない気持ちになっていた。
分かり易く態度と表情に出ていたひかりに、誠司も気付いたのか隣に座って心配そうな顔をした。
「どうしたの?」
誠司に声を掛けられて、ひかりは慌てて笑顔を取り繕った。
「何でもないの。ちょっと食べすぎちゃった」
「ちょっと待ってて、今温かいお茶淹れるね」
誠司は一度部屋から出て行って、人数分の煎茶を用意して戻ってきた。
「熱いよ。気を付けて」
優しく気遣う誠司を、ひかりはじっと見つめる。
楓はそんなひかりの様子を見て、お茶を一口飲んでから口を開いた。
「お茶飲んだら、そろそろ私たち帰ろうかな」
私たちと言ったのだから当然勇磨も入っている。しかし気の利かない勇磨は、また楓がカチンとくるような返答をした。
「俺はもう少し腹ごなししてから帰る」
勇磨はまるで空気を読めていない。分かっていたことだが、楓はイラっとして目の端を吊り上げた。
「なによ、暗くなったのに嫁入り前の娘を一人で帰らせる気? あんた私を家まで送りなさいよね」
「なんだ? 時任と帰るんじゃないのかよ」
「どうしてそう無神経なの? いいから黙って私を送りなさいよ」
「分かったよ。誠ちゃんまた電話するわ」
いかにも渋々といった感じで、勇磨は重い腰を上げた。
「高木君、ひかりを送ってあげてね」
「うん。勿論だよ」
「じゃあひかり、高木君、また今度。お正月でもみんなで会いましょう」
「うん。今日はありがとう。勇磨、気を落とすなよ」
勇磨は「思い出させるなよ」と苦い顔をして楓に連れられて帰っていった。
一旦外に出て、勇磨と楓が角を曲がるまで見送ると、誠司はひかりの手を戸惑うほどいきなり握った。
「ついてきて」
誠司はそのままいちばん奥の部屋にひかりを連れて来て、真っ暗な部屋の照明をつけた。
「これ、ひかりちゃんに」
誠司はイーゼルにかかっているキャンバスをひかりに見せた。
「これは……」
ひかりの目の前のキャンバスに描かれていたのは、白いつば広帽子を被った白いワンピースの少女だった。絵の中の少女は弾けるような眩しい笑顔を浮かべていた。
「君を想って描いたんだ」
ひかりは一目見て、絵の中の自分の姿に見入ってしまった。
あの暑い夏、自転車でかよった誠司君の家。
ただ愛おしいという気持ちだけを込めて引いた線で描かれた美しい絵。
ひかりの胸の中が暖かいもので満たされていく。
「俺、君にあげたいものが絵しか思い浮かばなくて、クリスマスプレゼントらしくないけど受け取ってください」
ひかりは誠司の胸に飛び込んだ。
「嬉しい……これ以上のものなんてないよ。ありがとう……」
ひかりは苦しいほどきつく誠司を抱きしめる。
「大好き」
誠司もひかりを抱きしめる。
「大好きだよ」
ひかりはそのまま恥ずかしそうに誠司を見上げる。
「私も渡したいものがあるの」
ひかりは誠司の手を引いて、さっきの部屋に戻り、鞄の中からリボンのついた紙の包みを出した。
そして誠司にそっと手渡す。
「誠司君に私からのクリスマスプレゼント」
受け取った誠司は、そのまま嬉しそうに包みに目を落とす。
「開けていい?」
ひかりは恥ずかしそうに頷いた。
包みを開けてみると、白いマフラーが綺麗に折りたたまれていた。
「手編みなの」
ひと言そう言って、ひかりはそっとマフラーを手に取って誠司の首に巻いた。
「初めてだったから綺麗にできていないかも知れないけど、わたしの気持ちです」
誠司はマフラーの感触を手で触り確かめる。
「すごく温かい。ありがとう。大切にするよ」
誠司はマフラーを巻いたまま、そっとひかりを抱きしめた。
「ひかりちゃん」
「うん」
「聞いて欲しいことがあるんだ」
「なに?」
「さっき橘さんが言ってたこと、いつから君のことを意識し始めたのか」
「教えてくれるの?」
教えてほしい。ひかりは心から思った。
いつから自分のことを誠司君はずっと思ってくれていたのか。
ひかりは誠司が胸の中にどれだけの期間、切ない感情を隠していたのかを知りたかった。
「うん、聞いてほしいんだ」
誠司はきつく抱きしめていた手を解いてから、ひかりの手を取った。
「憧れだったんだ」
誠司はぽつりとそう口にした。
「一年の時、違うクラスだった君を見かけて、その時から可愛い子だなって思ってた。二年になってから、まさかの同じクラスで、真っすぐに陸上に打ち込む君を見て、あらためてこんな素敵な女の子がいるんだなって思ったんだ。勿論、ただ憧れていただけなんだけどね」
誠司の話を聞いているうちに、ひかりの頬はどんどん赤みを帯びていく。
「美術室の窓からはグラウンド奥の幅跳びの練習がよく見えるんだ……二年の夏休み、あの日は部活があって美術室で絵を描いていたんだ。陸上部はインターハイの最終日で、決勝に残った選手の応援に出払っていたみたいでグラウンドは閑散としてた」
誠司は遠い日の思い出をなぞるように、ゆっくりと言葉にしていった。
「そのうちに下校時刻になり、グラウンドを使っている他の部も引き上げて、もう学校に生徒は殆ど残っていない静かな時間帯になった。夕日の綺麗だったあの日、使った道具を片付け終えて窓を閉めようとした時に、誰もいなくなったはずのグラウンドで幅跳びのスタートを切ろうとしている人影を見かけたんだ。逆光だったけど、そのシルエットで同じクラスの時任さんだってすぐに分かった」
誠司はそこで一呼吸置いた。
「そして君はスタートを切った」
誠司の記憶の中で大きくなびいた髪が夕日を集める。
「風の様に駆け抜けたその少女が踏み切ったとき、今まで見たこともない美しいものに出会ったんだ」
そして誠司は思い出す。鮮明に記憶に焼き付いたあの瞬間を。
「夕日を集め光をまとう少女……この世界にこれほど美しいものがあるのかとその時感動したんだ」
誠司は今は触れることさえ出来るひかりに素直な気持ちを伝える。
「そしてあの一瞬の輝きを忘れないうちにキャンバスにとどめようと描き始めたんだ。それから毎日部活が終わってみんなが帰った後、先生にお願いして美術室を使わせてもらっていたんだ。でも毎日絵を描きすすめているうちに気が付いてしまったんだ……」
そして誠司は、頬を紅く染めて恥ずかし気に微笑んだ。
「……あの人が好きなんだって」
ひかりは目頭を熱くしながら、唇を結んだ。
「勿論、時任さんと自分がつり合わないことぐらい分かってたから、お付き合いしたいとか、そんなこと考えもしなかったんだけどね……」
誠司は握っている手に少し力を込めた。
「……でも……ただ好きだったんだ」
ひかりは誠司の胸に顔をうずめる。そしてきつく抱きしめた。
「ひかりちゃん……」
「もっと早く気付きたかった」
ひかりはとうとう泣き出した。
「もう放さない……」
ひかりは誠司の何もかもを欲しいかのように、力いっぱい抱きしめた。
誠司はその背中をそっと抱きしめる。
「うん」
そしてひかりが顔を上げて誠司を真っすぐに見る。
二人はお互いに目を離せなくなっていた。
胸が高鳴る。
少しずつ二人の顔が近づいていく。
その時。
「おーい、誠司」
信一郎の呼ぶ声が廊下の奥から響いてきた。
二人はとび上がった。
「ごめん。行ってくる」
誠司は赤面しながら走っていった。
残されたひかりは、頬を紅く染めたまま立ち尽くしていた。
「なんだよ!」
誠司が台所に行くと信一郎は重箱を洗っていた。
「なに怒ってんだ。変なやつだ」
絶妙なタイミングで二人の邪魔をしたのを知らない信一郎は、息子の癇癪に怪訝な顔をした。
「この重箱な、俺が明日車で運んでやるよ。お前一緒に乗ってって向こうのお母さんにちゃんと礼を言っといてくれ」
「あ、うん。助かるよ、ありがとう」
「そろそろ送ってやれ。遅くなるぞ」
「うん。そうする」
誠司は時計を見てから部屋へ戻った。
ひかりは部屋で座って待っていた。
さっきのことを引きずって、お互い目を合わせづらい。
「あの……そろそろ送るよ」
「えっ、いいよ。バスで帰るよ」
「駄目だよ」
つい言葉に力が入る。
「そんなこと心配でできないよ。絶対送るから」
「うん」
ひかりは嬉しそうに頷いた。
失礼しますと信一郎にひかりは挨拶をして、二人は外に出る。
すっかり暗くなった夜空には、たくさんの星が瞬いていた。
冷たい空気に白い息を浮かび上がらせて、二人は歩き出す。
「ひかりちゃん」
「なに?」
「家まで歩いていかない? 少し遠いけど、三十分かそのくらいだよね」
「うん。歩きたい」
もう少しだけでも一緒にいたい。二人の気持ちは同じだった。
二人は肩を寄せ合い並んで歩く。
「マフラー、すごく暖かいよ」
誠司はもらったマフラーを早速巻いていた。
「二人で巻けないかな?」
誠司は一度首からマフラーを解く。
ひかりの首に巻いてから誠司も巻いてみようとした。
「やっぱりちょっと短いね」
「そうだね」
二人で巻くには、ほんの少し長さが足りなかった。
「じゃあ、ひかりちゃんに貸してあげる」
誠司は丁寧にひかりの首にマフラーを巻きなおす。
「いいの?」
「うん。いいんだ」
そうしてまた手を繋ぎ直すと、二人は歩き出した。
川沿いの道に二人は差し掛かる。
丁度誠司とひかりの家の真ん中ぐらいにある見晴らしの良い通り。
街灯がまばらなこの暗い通りを歩く二人の先には、遠く星が瞬いていた。
ひかりは自分から身を寄せて、ぴったりとくっついて歩く。
こうして何も躊躇わずに寄り添うことができるなんて……。
冷たい夜も、こうしてくっついていられる理由になるのなら、悪くないなとひかりは感じていた。
「今日はごめんね、また父さんがひかりちゃんを自慢して余計なこと言ってしまって」
「ちょっとだけ恥ずかしかったけど、大丈夫だよ」
「だけど道場のみんな、ひかりちゃんを見てあんまり綺麗な子なんでびっくりしてたね」
「そんな、言い過ぎだよ……」
ひかりは恥じらいを見せる。
隣を歩く誠司が口を開くたび、白い吐息がふわりと舞って消えてゆく。
「でも言い過ぎでもないんだよ。斎藤さんなんか、ひかりちゃんのこと、すごい気に入ってたみたいだった」
「あの、優しそうな年配の人だね」
「うん。道場で一番の古株なんだ。父さんの入門前からいたらしいよ」
楽し気に話す誠司と肩を並べて歩きながら、ひかりは誠司が女性クラスの指導をしていることをまた考えてしまう。
いけないと分かっていても、どうしても嫉妬してしまうのを、ひかりは抑えられなかった。
ひかりは少し拗ねた様子で誠司に寄り添う。
そんなひかりの変化を誠司はすぐに感じ取った。
「どうしたの?」
誠司は何も話さなくなったひかりに戸惑いを浮かべる。
「だって……」
ひかりは少しうつむき加減で誠司の手を握りしめる。
「ひかりちゃん?」
誠司は心配になって顔を覗き込もうとする。
ひかりは立ち止まって唇を噛む。
「だって、誠司君、他の女の子と道場で一緒なんでしょ」
ひかりの口からとうとう本当の気持ちが溢れ出た。
「うん。でもそれって何でもないことなんだよ」
ひかりは拗ねた表情のまま誠司の胸に顔をうずめた。
「気になるの……」
小さな声だった。
「こんなこと言ったら誠司君が困るって分かってる。でも他の誰かと誠司君が一緒にいると思うと苦しいの。自分でも駄目だって分かってるのにどうしても嫉妬してしまうの。でも、どうしようもないの。ごめんなさい。ごめんなさい……」
ひかりは何度も謝りながら誠司を抱きしめた。
「馬鹿だな……」
誠司は優しい声でひかりを包み込む。
「嫉妬してくれるのだって嬉しいよ。でも、ひかりちゃんは大事なこと忘れてるよ」
誠司はひかりの髪の匂いを深く吸う。
「もうずっと前から、俺はひかりちゃんのものなんだ」
誠司はひかりをさらに抱きしめる。
ひかりはその優しい腕の中で、自分に向けられる想いの深さにまた胸が熱くなる。
「ごめんなさい。私、恥ずかしい」
「いいんだ。そんな所だって大好きなんだ」
「私も大好き……」
そして願う。あなたの全てが欲しいと。
そして私もあなたに……。
「誠司君」
顔をあげて、ひかりはじっと誠司を見つめる。
「うん」
二人はもうお互いから目を離せなくなっていた。
「私も、あなたのものにして欲しい……」
ひかりは誠司をまっすぐに見て、今胸にある素直な気持ちを伝えた。
「受け取ってください」
ひかりは少し背伸びをして目を閉じる。
誠司はひかりの肩に手を置き、ほんの少しかがみこむ。
そしてひかりのその柔らかな唇に誠司はそっと唇を重ねた。
すこし震えるお互いの唇は、澄み切った冷たい空気の中でも暖かく二人をつなぐ。
満天の冷たく澄んだ星空が、二人の頭上で高く静かに瞬いていた。
あとがきに代えてここに感謝を。
「ひかりの恋」のその後を綴った本作「ひかりの恋それから」は二人の恋がもう一歩深まったところで一度完結いたしました。
そして「ひかりの恋」三部作の最終編となる「ひかりの恋またいつか」に舞台を移してこの青春物語は終わりを迎える予定です。
ここまでお読み下さった皆様に感謝を申し上げるとともにあともう少し最後までヒロインひかりと共にこの物語を最後まで駆け抜けて下さればと願っています。
今回描いた「それから」の物語では誠司とひかりの恋と同じ時間軸で進んでいった新勇磨と橘楓の恋物語と、新しい登場人物で過去に心に傷を負った教師、清水ゆきの再生をテーマに物語を描きました。
そしてそれを支えた島田隆文との恋模様をお読み頂き、誠司を陰ながら応援してきた島田という教師を少し知って頂けたのではないかと思います。
また話の途中で誠司の父信一郎の過去を振り返る話が少し入っています。
その話の詳しい物語は少し長くなってしまったのであえて本編ではなくサイドストーリーとして位置づけました。
実はそのサイドストーリー「若き獅子は目覚めてからも夢を見る」は独立した話でありながら今後の物語に向かう幾つかの布石がところどころに置かれてある物語です。
是非ご一読いただきこの後に続く世界観を楽しんで頂けたら幸いです。
さあ、私も、もう少しひかりと共に最後まで駆け抜けたいと思います。
ひかりが駆け抜けようとしているその先に皆さんも行ってみませんか?
ひなたひより




