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第9章「太陽の神は、僕の心を温める」

 

 ほんのわずかに、空気が冷え込んでいた。


 肌を撫でる風はひんやりとしていて、その冷たさがぞくりと身を震わせる。


 あたりには、濃く深い静寂が満ちていた。

 ただ、草むらで鳴き始めたコオロギの声だけが、その静けさをゆっくりと破っていく。


 ときおり、遠くで一羽のフクロウが低く、引きずるような声で鳴く。


 空はほとんど闇に沈みつつあり、濃い藍色が時間とともに深みを増していく。

 月はゆっくりと昇り、澄んだ光が地面をやわらかく照らした。


 銀色の月光はあたり一面に広がり、木々の縁を淡く照らしながら、長い影を地面に落としていく。


 地平線には、まだ細い橙色の帯が残っていた。

 その夕暮れの光は薄いヴェールのように広がり、迫りくる夜の闇へと少しずつ溶けていく。


 夜の最初の星々が姿を見せ始めた。

 粒のように小さく瞬くもの、どこか近く感じるほど強く光るもの――さまざまな星が夜空に散らばっていく。


 木々は気づかれないほど静かに揺れ、まるで穏やかな呼吸をしているかのようだった。

 湿った土の匂いがふわりと立ちのぼり、夜に香りを放つ植物のほのかな香りが混じる。


 春香と陽菜莉は先を歩き、焔羅と優は少し遅れてそのあとをついていく。


 優は黙って歩いていたが、心の中はひどくざわついていた。


 (春香さんって料理上手なのかな……? どんなものが出てくるんだろ……。

 焔羅さん、本当に僕を家に迎えてくれるのかな……?

 なんか……緊張する……。新しい環境だし……。)


 やがて、家が見えてきた。

 暗い木造の外壁は、入口の両脇に掛けられた二つのランプだけに照らされ、その炎が風に揺れてほのかに明滅していた。


 焔羅が扉に手をかけ、静かに押し開ける。


 古びた蝶番が、甲高い音を立てて軋んだ。


 優は思わず喉を鳴らし、心臓が一気に跳ね上がる。

 顔が熱くなり、耳まで赤くなる。

 緊張と恥ずかしさで、冷たい汗がじわりと背中を伝った。


 玄関の先は、そのまま広い居間につながっていた。

 素朴な木造の空間で、中央には重厚な木のテーブルが据えられ、隅では暖炉の火が揺らめき、橙色の光が温かな空気を生み出している。


 春香と陽菜莉は、テーブルのそばで皿を並べ終えたところだった。

 食器の軽やかな音が、家の落ち着いた静けさに心地よく響く。


 「まあ、思ったより早かったのね! ようこそ、二人とも!」

 春香は優しい笑みを浮かべて声をかける。


 「パパ! そしてマツくん! おかえり!」

 陽菜莉は満面の笑顔で、弾むように迎えた。


 焔羅と優は玄関でしゃがみ、靴を丁寧に揃えて脇に置いた。


 春香は湯気の立つ鉄鍋を慎重に持ち上げ、用意してあった皿にとろりとしたスープを注ぎ始める。


 立ちのぼる湯気はくるりと渦を描き、強くて少しスパイシーな香りが瞬く間に部屋中へ広がった。


 見た目は素朴なスープだが、濃い色合いの熱い汁の中に、柔らかく煮込まれた肉がいくつも浮かんでいる。

 優の予想よりずっとしっかりした、家庭の味だった。


 その匂いを嗅いだ瞬間、優の腹がぐう、と鳴った。


 春香は目を細めて嬉しそうに微笑む。


 「あなたの大好物よ。イノシシのスープ!」


 焔羅の表情は一瞬で輝いた。

 目を見開き、口をぽかんと開けたまま固まる。


 「お、おおっ……! なんて……最高だ……!」


 陽菜莉はぴょこんと指を突き上げ、勢いよく跳ねた。


 「そうだよ! ひなりもお手伝いしたんだからね! えへへ〜!」


 香りが優の鼻をくすぐった瞬間、周囲の音が遠くなったように感じる。

 視線は目の前の皿に釘付けになった。


 「すごい……! めちゃくちゃいい匂い……!

 今まで嗅いだものの中でも、上位に入るくらい……!」


 思わず心の声が、そのまま口からこぼれた。


 春香は小さく笑い、顎に手を添えて首をかしげる。


 「ほらほら、早く座って。冷めないうちに食べましょう? ふふっ。」


 焔羅と優は急いで席につき、床に座り込む。

 そのあと、春香と陽菜莉も静かに腰を下ろした。


 優は興奮を抑えきれず、両手でスプーンを握りしめ、目を輝かせながらすくい上げる。

 熱々のスープを口元へ運ぼうとしたその瞬間――


 手首を、がしっと掴まれた。


 焔羅だった。

 いつもの落ち着いた表情で、眉を少し寄せ、諭すような声で言う。


 「待て、優。

 食べる前に――祈りを捧げる。」


 優はぱちぱちと瞬きをした。

 スプーンは空中で止まったまま、芳しい香りだけが彼を焦らす。


 春香と陽菜莉はすでに手を合わせ、にこやかに優を見つめていた。


 焔羅は胸の前で静かに手を組み、目を閉じた。

 落ち着いた声が部屋に優しく響く。


 「――太陽神ホウェキオンよ。今日も我らに光を届けてくださり、感謝いたします。

 明日の夜明けが、今日と同じように明るいものでありますように。

 そして、この食事に感謝を。」


 春香と陽菜莉も続き、静かに祈りの言葉を繰り返した。


 優は少し遅れて手を合わせ、慣れない言葉をぎこちなく口にする。

 ところどころ噛みながらも、必死についていった。


 (ホウェキオン……?

 焔羅さん、前にも言ってた……。

 この世界の神様なんだろうか……。

 あとで絶対聞こう……。)


 祈りが終わると、卓上にはひとときの静寂が落ちた。

 暖炉のぱちぱちと燃える音と、スープの香りだけが空気に漂う。


 優はそっと息を吸い込み、意を決して焔羅のほうへ身を寄せた。


 「えっと……焔羅さん……。」

 頬を掻きながら、照れくさそうに言う。


 「今日の訓練で……その……ちょっと暑くて……頭がごちゃごちゃしちゃって……

 ホウェキオン様のこと……少し教えてもらえませんか……?」


 声は弱々しく、視線はテーブルの端に逃げた。


 焔羅はゆっくりと息を吸い、遠くを見るような目をした。

 そして誇りを滲ませた声で語り始める。


 「……思い出すたび、胸が熱くなる話だ。」


 一瞬の静寂。

 暖炉の光が揺れ、焔羅の顔を半分だけ橙に照らす。


 そして――


 「昔、人間は魔族との戦いに敗れ続けていた。

 誰もが、もう希望はないと思っていた。

 そのとき――空を裂くように光が現れた。

 あまりに眩しくて、その中に人の形が見えた。


 その者は言った。


 『我が名はホウェキオン。太陽の神である。

 今日よりこの国は “風の国” と呼ばれる。

 そして風のように続いていくのだ。』


 ――そう宣言すると、彼は剣を掲げた。

 世界を覆うほどの閃光が走り……

 光が消えたとき、魔族はすべて塵と化していた。」


 優は身じろぎひとつせず聞き入った。

 まるで物語の中に引き込まれたかのように。


 語り終えると同時に、優は小さく息を漏らした。


 「……そっか……ありがとうございます、焔羅さん……。」


 彼は視線をスープへ戻しながら、心の中でそっとつぶやく。


 (この世界には……そんな存在がいるのか……。

 すごい……ちょっと怖いけど……すごく興味深い。

 もっと知りたい……。)

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