23悪役令嬢、心を乱される
わざと指先に触れられているのかもしれない。
なんとなく私はそう思った。そうでなければすぐに手を離すだろう。今も私たちは一つのパンを二人で持つという奇妙な体勢のままだ。不思議と触れられていることに不快感は全くない。ただ、どうしていいか分からず戸惑う私に彼が言う。
「・・・あなたはたしかに決められた道を選ばなければならないでしょう。でも・・・あなたの心は自由ですよ。何を思い、何を感じ、何を慈しむか・・・それは自由だ。たとえ行動が制限されていても、心の中までは誰にも支配されることはない。心の中でのあなたはいつだって・・・花屋のイヴさんですよ。」
ああ、この方はとても優しい。望まない結婚をするであろう私を憐れんでくれている。公爵令嬢として生まれた不自由な私を励ましてくれている。
でも、違うのだ。そうじゃない。私が殿下と結婚をしたくないのは誰かと争うのが嫌で、家族に迷惑がかかるのが嫌で、自分が傷つくのが嫌だからだ。嫌なことのすべてから私が逃げ出したいからだ。私が花屋のイヴでいたいのは自由になりたいからじゃない。この先起こるであろうあらゆる嫌なことを何も知らずにいられるからだ。
私はお兄様から物語の悪役令嬢だと聞かされる前からずっと、自分が楽になることを望んでいた。
お兄様の話を信じたのは、お兄様の言う通りにしていればすべてのことから逃げ出せるかもしれないという打算からだ。
私は最初から自分のことしか考えていなかったのだ。
ああ、気づいてしまった。気づかされてしまった。私がどれほど愚かで浅ましい人間かということに。
「・・・なにが哀しいのですか?」
「自分の・・・心の汚さが・・・。」
私の瞳からは涙が溢れていた。彼はパンから手を離し、そっと私の頬に触れた。
「あなたは綺麗ですよ。その瞳も、髪も、唇も・・・心も。」
涙が彼の指で拭われる。なんてあたたかい手だろう。余計につらくなった。
「・・・おれがあの方の側にいるということはあなたの側にいるということです。なにかあればすぐにかけつけます。だからどうかひとりで涙を流さないでください。」
「・・・ありがとうございます。・・・こんなふうに泣いてしまうなんてお恥ずかしい・・・どうかしていましたわ。少し情緒が乱れているみたい。驚かせてしまってすみません。もう・・・大丈夫ですから。」
私は彼の顔を見ないようにして一歩下がった。彼の手が離れる。これ以上誰かに甘えていてはだめだ。何か方法があるだろうと待っているだけではだめだ。幸せになりたいのなら自分でなんとかしなければならない。選択肢がないなら作ればいい。殿下との婚約を解消して結婚の話を白紙にする、その選択肢を。
「パン屋のギルさん・・・いえ、ギルバート・リーバス様。あなたのおかげで目が覚めました。私はやはり最後まで運命に抗いたいと思います。あなたのお心遣いは本当に嬉しかったです。あなたのような方が殿下のお側にいらっしゃるなら安心です。」
「リンスレット公爵令嬢・・・。」
「私これからきっといろいろな行動をおこします。令嬢らしからぬこともするかもしれないし、王家にたてつくかもしれませんわ。もしもあなたが今日のこの縁に何か感じていただけるのでしたら、私がどんな行動をおこしても止めないで。私が涙を流していても無視してください。」
彼が息をのむ気配がする。まだ顔は見れない。
「・・・私、今日あなたと話せてとても楽しかったの。あなたには感謝しているわ。だから私のせいであなたが巻き込まれるようなことになったら耐えられない。・・・どうか約束してください。」
殿下の近衛騎士が殿下の意にそぐわないことをする私に手を差し伸べてはいけない。反逆罪で裁かれることになっては大変だ。優秀で優しい彼にはぜひとも幸せな人生を送ってもらいたい。
「・・・わかりました。あなたがそれを望むなら。ですがもう一つ約束してください。」
「え・・・?」
「あなたが何をなさるつもりか知りませんが、おれは黙ってあなたを見守ります。でももしもあなたがどうしようもなくなって、もうなんの手立てもなくなったら・・・そのときは必ずおれを呼んでください。」
彼はその場で跪くと恭しく私の手を取る。私は思わず彼の方を見る。すると彼は私の甲に唇を寄せた。
「・・・あなたが壊れてしまう前にどこか遠くへ連れ去ります。二度とつらい思いをしなくていい場所へ、誰もあなたを傷つけない場所へ。・・・おれはあなたに騎士の誓いを立てる。」
全身の血が沸騰した気がした。紫の瞳が私を射抜く。いろいろな感情が駆け巡り、どれか一つを表に出すことはできない。困る、嬉しい、恥ずかしい、感謝、叱責、否定、肯定。何か言葉を発しなければと思うがそれも叶わない。結局私は口をパクパクさせたまま真っ赤になり固まってしまった。
「さあ、もう散歩は終わりにしましょう。馬車まで送ります。」
彼はさらりとそう言うと、まだ固まったままの私の手を引き歩き出す。それはさながらパーティーへ向かうかのように優雅なしぐさだった。
いったいどういうことだろうか。
騎士の誓いとはなんなのだろう。
しかもどこかへ連れ去ると言った。
なぜ昨日今日会ったばかりの私にそんなことを。
私の頭は爆発しそうなほど混乱していた。




