八話 稜線を越えて
忌々しいことだ。
結局、使用人に文を出させてから一月もかかってしまった。
忌々しいときには忌々しいことが重なる。
これは波のようなものだ、致し方ない。
だが感情は別だ。
ここはこの村で一番の住心地なのだという。
木の床に枯れ草を寄せただけの一級品のベッド。
風通しはよく、扉の開け閉めも非常に軽い。
朝まで伴してくれる虫達に囲まれながら安眠できる。
なぜ朝からわかりきった現実に苛立ちを覚えなければならないのか。
主に腰痛と虫刺されのせいだろう。
ここソラフ・ローはスリナガルにとってもさらに辺境だ。
村人たちは山に放ったヤギを糧に細々と生きている。
わが祖国の排煙がいくら空を染めようと、その蒸気機関は端々まで行き渡るものじゃない。
そんな村人達に一端の貴族同様に扱えなぞ言う気はないが、これは想像以上だ。
不満を募らせる前に早く出るべきだ。
思い立って身支度を始める。寝汗のためか体の芯が冷たく感じる。
腿や膝、左右の腰に革の補強が入ったパンツを履き、肌着の上から刺繍入りのカッターを着る。
パンツの裾をブーツに入れながら脛の上下にあるベルトをきっちり締める。
カッターの裾も腕を覆う手袋の中へ潜り込ませ、腕の内側にあるベルト二本で締める。
腕の外側は革を三段重ねて固めている。
後はお気に入りのコートをいつものように羽織って階下に降りる。
既に村長やその家族は起きて仕事をしているようで誰もいない。彼らに不用心という言葉は意味をなさないだろう。
外に出るとヤギの群れが遠目に見える。薄暗くまるで見えないが村長が一緒についているはずだ。
使用人はあろうことか、主人が家から出たのにも気付かずに村長の娘と談笑していた。
これまた忌々しいことに、私には彼らの話している言葉が分からない。
「スニル!何をしておるか!」
「これは旦那様、おはようございます。」
「ああ、おはよう。相変わらず言葉が通じんようだな。」
「いえいえとんでもございません。これから向かう山について、今の時期何に気をつけるべきかなど地元の者にしかわかり得ぬことを伺っていたまででございます。」
「ふん、盛りおって。面倒を起こすでないぞ。」
「無論、承知しております。」
娘が使用人に視線を集めている時点で十分に面倒だ。
いざとなれば別の使用人と取り替えてやろう。少なくとも執務室がトイレ扱いされることはなくなるはずだ。
ただ、スニルは準備は済ませていたようで、昨晩指示した物が入っているであろうトランクを引っさげている。
「準備は問題ないようだな。さっさと行くぞ。案内しろ。」
「畏まりました。」
コーラホイ山はソラフ・ローから南東にある。
直ぐ傍を流れるシンド川を渡り、コーラホイより流れてくる名もない浅い川にそって進む。
この川は雨が振ると溢れるのか川幅よりも広く白い小石が敷き詰められている。
まだ比較的歩きやすかった。
「今日はどこまでいくのだ?」
「前に東へ流れるような稜線が見えますでしょうか。」
「ああ、東につれぐっと高くなる尾根だろう。」
「はい、その内、少し低くなっている場所がございますので、そちらを越えます。すると東側に崖崩れが見えるはずです。」
「まるで見てきたかのような言い草だな。」
「いえ、私は初めてでございますが、先程の娘ディーマしかり色々な方に伺った結果でございます。」
「お前の行いが私に役立つならば私は気にしないだろう、役に立つ内はな。」
「勿論です。峠を越えた先では野宿できる風通しのない場所を探さねばなりません。少し急ぎましょう。」
「分かっとる。指図するでないわ。」
先導を勤めるからと生意気になりおって。
この程度で使用人のネズミの肝より小さいプライドが保たれるのであれば別に構わないが。
そう自分に納得して少し離れた使用人の背を追う。
山道はそこまで険しくはなかった。
足を引っ掛けるような根の張った木々はあまりなく、加えて乾燥していたこともあり、足場が滑ることもない。
低い雑草の合間から日に焼けた白い岩が覗いている。灰の雨に振られ黒い水垢が色濃く残り、この先日に焼かれることも、もう無いだろう。
尾根は強く風が吹いており、どのような雨雲が押し寄せてきていても不思議ではなかった。
空を見上げたところで灰の空しか目には映らないが。
「旦那様、あちらをご覧下さい。」
「ん?おお!あれが崖崩れの場所か!」
少し疲れが癒えた気がする。
「はい、目的地も見えたことですし、山を下りながら適当な場所を探しましょう。」
使用人も少しばかり喜色が見える。こいつもどこかで話が本当かどうか疑っていたのだろう。
尾根を跨ぎ、斜面から突き出すような大岩の脇に差し掛かると風が止んだ。
ふと立ち止まり見渡す。
それはまさしく絶景だった。
南にも東にも、そして西にも盆地が広がり、灰に染まった池が所々にある。
各盆地を成す山々の稜線はどこまでも伸びゆくようで果てがない。
ここより西にスリナガルがあるはずだが、それも山の稜線に阻まれて見えない。
山だけの場所。人から隔絶された場所。
それは青い空を見るような、蒼い海を見るような手の届かないほど大きなものを前にした時の気分に似ていた。
「旦那様?…いえ失礼しました。」
使用人はついてこない私を気にかけてこちらを伺ったようだが、山々に目を奪われた私を見て察したようだ。
そのまま同じように山々へ視線を移した。
先程はクビにしてやろうかと思っていたが撤回しよう。少なくとも不快になりすぎない程度に役に立つ。
「ああ、すまん。十分だ。行こう。」
一言一言間を開けて告げる。
それで使用人は歩き出し、私はついていく。この広い山稜を歩くことを空を飛ぶか海を泳ぐかどちらに形容すべきかわからなかった。